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『うしろのプール、君の声』[夏のホラー2025 恋とホラー①]  作者: のびろう。


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1/2

『うしろのプール、君の声』

◆放課後の水音◆


 水って、ふしぎ。

 ひとたび飛びこめば、音が消えて、世界の輪郭がにじんで、私の中の「余計なもの」がぜんぶ流れ落ちていく。たぶん――私が泳ぐのが好きなのは、それだけが理由じゃないんだけど。


 今日は、雲ひとつない真夏日。校舎の陰からつながる古い市民プールには、陽射しの破片がキラキラと水面に跳ねていて、まるで水の精が踊ってるみたいだった。


桐咲きりさきさーん、準備できたら声かけてくださいねー!」


 プールサイドから呼びかけるのは、今日からうちのクラブに研修に来てる“コーチ見習い”の男子高校生。名前は……たしか、神谷かみやコウタ。

 はじめて会ったとき、なんか頼りない感じの人だなぁって思ったけど、声はびっくりするくらい――優しい。


 私、桐咲つかさ。小学六年生。身長は145センチくらい。肩までの黒髪は夏仕様で結んでて、日焼けしないようにいつもラッシュガードの上着を羽織ってる。でも今日の練習は、いつもとちょっと違う。


「……つかさ、今日は“大会用のフォーム”で撮影するって言ってたよね」


 鏡に映る自分にそっと言い聞かせながら、私はラッシュガードを脱いで、競泳用のセパレート水着になった。ちょっと恥ずかしいけど、これが一番泳ぎやすい。


 私の肌は、学校の子たちよりも少し白くて、よく“陶器みたい”って言われる。お母さん譲りのぱっちりした黒い瞳と、涼しげな顔立ちのせいか、大人っぽいってよく言われる。でも、自分ではあんまり実感ない。


 ただ――


「……見られてるな」


 さっきから、神谷コーチの視線がこっちに向いてるのが分かる。泳ぐフォームを確認してるっていうのはわかってるけど……どうしてだろう、心臓が、いつもよりうるさい。


 私は、深呼吸をひとつして、スタート台の前に立った。

 太陽が、まっすぐに私を照らしてる。汗がすっと肌を流れて、気持ちいい。


 そして、コーチの声が響いた。


「よし、じゃあ50メートル、自由形。スタートは合図で」


 私は、軽くうなずいて、スタートの姿勢をとる。

 その瞬間、耳元にふわりと届いたのは――


「がんばれ、つかさちゃん」


 え? 今、名前……呼んだ? “ちゃん”って。

 振り返る暇もなく、私は音もなく水に溶けていった。


 ――ザブン。


 水の中は、静かで、澄んでいて、どこまでも自由。

 でも、今日は少し違う。コーチの声が、ずっと、胸の奥で響いてる。


 こんなの、はじめてだ。


ーーー


◆誰かの気配◆


 ターンの壁を蹴って、私の身体は水の中をまっすぐに滑っていく。

 速いかどうかじゃない。うまく泳げたかどうかでもない。

 ただ、私の鼓動の中に、あの“声”が残ってる。


 「がんばれ、つかさちゃん」


 くすぐったいみたいな、うれしいような……なんか変な感じ。

 今までずっと一人で泳いでたのに――なんで、今日はこんなに胸がいっぱいになるんだろう。


 「……はい、タイム、33秒9。ベスト更新だな」


 プールの端につかまって、私が顔を上げると、コーチがストップウォッチを見せてくる。

 水越しに見えるその表情は、いつもよりちょっとだけ、やさしかった。


「ほんとに、速いんだな。つかさちゃん」


 “ちゃん”って、また言った。


「……そんなに子どもっぽく見えますか?」


 気づいたら、口に出していた。

 コーチはちょっと驚いたような顔をして、でもすぐに笑った。


「いや、逆だよ。大人みたいで、びっくりしてる。すごく、綺麗だなって思ってた」


 心臓、ばくん。ばくん。


 冗談とかお世辞じゃなくて、ちゃんと真面目に言ってくれてるって、声の響きでわかる。

 ……嬉しいけど、それ以上に困る。こんな気持ち、どうしていいか分からないから。


 私は、ぷいっと顔をそむけて、濡れた前髪をかきあげた。


「……もっと速くなりますよ。コーチ」


「お、おう。俺も、もっと教えられるようにがんばるよ」


 なんか、ちょっとどもってた。かわいい。――って、なに考えてんの、私。


 タオルを肩にかけて、私はプールサイドのベンチに座る。

 セミの声が、少し遠くで聞こえる。夏だなぁ。


 そのとき――ふと、背筋がぞわっとした。


「……コーチ」


「ん? どうした?」


「……なんか、いる」


 私が見つめたのは、誰もいない“うしろのプール”。

 市民プールの裏手、雑草に囲まれて、今は使われてない古い屋外プール。


 ふだんは金網のフェンスで閉じられてるけど、今日だけ、なぜか鍵が開いてて。

 だれかが、そこに立ってる気がした。見えないけど、感じる。


 神谷コーチも、すっと表情を引きしめて、その方向を見た。


「……誰か、いるのか?」


 しん……と音が止まった気がした。


 水の中から、ぽちゃん。

 誰もいないはずのプールで、水音がした。


「……やだ。あれ、なに……?」


 私の声が震えていた。

 でも、コーチがそっと私の肩にタオルごと手を置いてくれた。


「大丈夫。……ちょっと見てくる」


「待って……やだ、ひとりで行かないで」


 気づいたときには、私は彼の手を握っていた。

 濡れた指先と、彼の体温が、重なって。

 胸が苦しいのは――怖いから? それとも、違う理由?


「……じゃあ、一緒に行こうか」


 そう言って微笑んだ彼の横顔が、なんだかすごく大人びて見えた。

 私たちは、手をつないだまま、“うしろのプール”の方へ、そっと歩き出した。


ーーー


◆沈んだ声、君の手◆


 金網の扉は、音もなく開いた。

 蝉の鳴き声が、遠ざかるように消えていって、あたりはまるで――時間ごと沈んだみたいに静かだった。


「ここ……昔、事故があったって、聞いたことある」


 私は手を握ったままのコーチに、そっと言った。

 神谷コーチは頷いた。


「俺も、小さいころに聞いたことある。…女の子が、水に沈んだまま見つからなかったって」


 “水に沈んだまま、見つからなかった”。


 ――おかしい。

 私は今、ここに立ってるだけなのに、呼吸がしづらい。

 水の中みたいに、胸がぎゅっと苦しい。なのに、足が動く。


 気づけば、古いプールの縁まで来ていた。

 濁った水面に、私とコーチの姿が映っている――はずだった。


 でも、そこに映っていたのは――


 私の姿が、二人分。


 一人は、私。もう一人は――

 私によく似ているけど、少し髪が長くて、瞳の色が淡い、もう一人の「私」。


「……つかさちゃん、下がって!」


 神谷コーチが私をかばうように前に出た、瞬間だった。


 ――ざばぁっ!!


 水面が爆発するみたいに割れて、何かがコーチの脚を掴んだ。

 ひんやりと冷たい、水色の指――それは、少女の手だった。


「やだッ! 離して!」


 私はコーチの腕を引っぱった。

 コーチは必死に踏ん張って、でも、その手はどんどん深く、冷たく、暗く――


 ――「つかさ」……と、声がした。


 私の名前を呼んだのは――その少女だった。

 水の中から顔を出していたその子は、まるで私の鏡写しみたいで……泣いてた。


「返して……私の、恋を……」


 その瞬間、わかった。

 あの子は、昔このプールで――


「……あなたも、好きだったんだね。コーチのこと」


 少女の目が、大きく見開かれる。


「でも……もう時間は、戻らない。私は、まだ生きてる。あなたの代わりになんて、なれないよ」


 私は、震える声で、でもちゃんと彼女の目を見て、言った。


「だから……この人のこと、連れていかないで。お願い」


 少女の手が、すうっと力を失った。

 コーチの脚が、自由になる。


 そして――少女は、ふっと笑った。


「……ありがとう。言ってほしかっただけ、かも」


 その声は、たしかに“私の声”に似ていた。

 でも、それ以上に――“私じゃない誰か”の、叶わなかった想いだった。


 彼女の姿は、ゆっくりと水の中に沈んでいった。

 泡も、音もなく。まるで最初から、そこには誰もいなかったみたいに。


 コーチが、私の肩をそっと抱いた。


「つかさちゃん……大丈夫?」


「……はい。でも、私……」


 言葉が詰まる。胸の奥が、熱い。


「私、ほんとに……コーチのことが好きかもしれない」


 小さな声だったけど、コーチは聞こえていたみたい。

 優しく私の頭を撫でて、少し困ったように笑った。


「俺、先生として、今すぐ答えるのはだめかもしれない。でも――その気持ち、大事にしたいって思った」


 心が、じんわりと溶けていく。

 さっきまでの恐怖は、今はどこにもない。


 きっと、あの子も。

 恋ができたことが、誰かを好きになったことが、幸せだったんだ。


 だからきっと、私は――


 この夏を、忘れない。

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