3 ヴィクター
ふと、鏡に映る自分の姿に目を留めた。
サラサラした灰色の髪は、顎くらいの長さで切りそろえられている。
前髪は自然と横の髪に馴染ませ、左右に流してある。
少し吊り上がった大きな赤い眼、白い肌。
白いブラウスと膝が隠れる長さの半ズボン、白く長い靴下、先が丸い革靴という服装でなければ、女の子と間違われそうな美しい少年の姿だった。
本来の姿は、フェンリルだ。
銀色に輝く毛皮と、鋭い爪と牙を持つ魔獣。
なのに、何故かこんな少年の姿になっている。
使い魔の姿は、主である者の望む型をとることとなる。
つまりルルは、僕にこんな姿であって欲しいと思っているということだ。
こんな風に、幼くて華奢で、何者をも害さないような非力な少年であって欲しいと。
あるいは、彼女の目には、自分はこんなにも愛らしく幼く見えているのかもしれないが。
ルルとの出会いは、ずっとずっと前のこと。
気づいたら、小さな泉のほとりで倒れていた。
何故だかわからないが、それ以前の記憶はほとんどなかった。
その頃の僕はまだ子供で、狼よりも体が小さかった。
もちろん人型でなない。
「あらあら」
突然、優しい声がした。
心に染み入ってくるような、優しい声だった。
見上げると、明るい栗色の髪と琥珀色の瞳の少女が立っていた。
「私と一緒に来る?」
その問いかけに、無言で彼女の瞳を見つめていたら、ふふっという笑い声が聞こえてきた。
「嬉しいな。これからは一人じゃないんだ」
それからずっと、僕たちは一緒にいる。
二人で旅をしているうちに、いつの間にかこのリドフォードの森に辿り着いた。
森には善良なポーシャという魔女が住んでいて、よく効く薬を作り、訪ねてくる馴染みの商人に売って生計を立てていた。
彼女は年老いていたが魂の美しい女性で、「森の魔女」と呼ばれていた。
いつからか僕たちは、森の魔女ポーシャの家で三人で暮らすようになった。
ポーシャは心優しい魔女だった。
三人で暮らす日々を、ルルはいつも「家族で暮らしているようだ」と言っていた。
だが、ポーシャはしばらくして老衰で亡くなってしまった。
ポーシャの遺言通り、ルルは「森の魔女」の名を継ぎ、薬を作り続けることになった。
ルルもまた魔女だった。
本当は大きな魔法が使える大魔法使いだったのだが、ずっとずっと昔に、魔力を全て使い切ってしまい、今は小さな魔法しか使えないのだそうだ、
ルルのように小さな、生活のちょっとしたことが楽になるような魔法を使ったり、薬草から薬を作ったりする人のことを魔女と言う。
不思議と、男性にはそういった魔法が使える者はいない。
だからこそ、魔女という呼ばれ方なのだそうだ。
ルルは昔、どうしても叶えたいことがあって、身に持つ全ての魔力を対価として、大きな大きな魔法を使ったと言っていた。
その結果、彼女の魔力はほぼ無くなった。
それと同時に、姿も変わってしまった。
それまでのルルは、金髪で緑の瞳だったのに、黒髪黒目になってしまったらしい。
魔力を失ったルルは、今まで魔法でやってきた全てのことを、普通の人間のように自分の手でやらなければならず非常に困ったのだそうだ、
水は桶で泉から汲んでこなければならないし、火も火打石で時間をかけて起こさなければならない。
地面も自分の手で道具を使って掘り起こさなければならず、草花も、種から育てないと花を咲かせることができない。
不自由だが、今までは想像もしなかったことばかりで、ルルは困ったり、絶望したりしながら、それでもちょっとだけ楽しみながら生活していく技術を身に着けていった。
そうして、普通の人間なら当たり前にできることを苦労して身に着けていくうちに、少しずつではあるが、魔力が戻ってきた。
それと同時に、真っ黒な髪と瞳が、うっすらと茶色がかってきた。
僕と出会った頃には、かなり明るい栗色の髪と琥珀色の瞳だったから、全魔力を失った頃からずいぶんと時間が経っていたのだろう。
それでも。と彼女は言う。それでも、元の姿とは全然違うのだ、と。
「一体、どんな姿だったの?」
僕が以前、そう聞いたとき、ルルは笑いながらこう答えた。
「そうねえ、今とは全然違う髪色で、瞳の色もこんなじゃなかったわ。色以外もちょっと違うわね。もう少し背が高くて、スタイルも良かったの。信じられないでしょうけど、美人だって言ってもらえることが多かったのよ」
「信じるよ。それに、ルルは今だってとても可愛いよ。美人というのとは違うかもしれないけど、とても綺麗な魂の色だもの」
「ふふっ。私のヴィクターは本当に優しい子ね」
――私のヴィクター。
彼女はいつもそう呼ぶ。
彼女が以前出会った優しそうな母親が、我が子に愛しそうにそんな風に呼びかけるのを聞いてからずっと、自分にもこんな風に呼びかけて慈しむ相手がいたら良いのにと憧れていたのだそうだ。
「だからね、今は夢が叶ったの。嬉しいわ」
いつだったか、彼女はそう言いながら僕の頭を撫でてくれた。
「しかも、私のヴィクターはこんなに大きくなって、人型までとれるようになったし!」
そう。
僕はいつの間にか、フェンリルの姿から少年の姿になれるようになった。
彼女の作った食事を食べ、彼女に愛されるうちに、彼女の魔力が僕の体に少しずつ溜まってきたのだろう。
この状態を、「使い魔になった」と言うらしいが、ルルは僕を使役したりしない。
ただただ、会話ができるようになったことを喜び、僕の少年になった姿が可愛いと喜ぶだけだ。
そんなルルも、徐々に姿が変わってきている。
出会った頃の、明るい栗色の髪と琥珀色の瞳から、茶色がかった金髪と薄い緑色の瞳に。
きっと、魔力がさらに戻ってきているのだろう。
背も心なしか高くなったし、顔つきも大人っぽく美しく変わって来た。
「私の可愛いヴィクター」
最近では、そう呼ばれる度に、心の中でこう返す。
(僕の愛しいルル)
だが、恥ずかしいので、それを声に出して言うことは決してない。