23 百日紅と雷鳴
朝から激しい雨が降っている。
遠くで雷が鳴る音もする。
リドフォードの森がこんなにも荒れるのは珍しい。
エドワードはいつものように朝食を食べ、いつものように片付けを手伝った。
そして、手が空くとすぐに窓辺に椅子を運び、それからずっと窓の外を眺めている。
「何がそんなに面白いんだか」
ヴィクターが少し呆れたように言った。
それには答えず、少しだけ眉を下げるような微笑みを作り、エドワードは窓の外の景色に視線を戻す。
エドワードは、窓にぶつかり流れていく雨の雫を見ていた。
予想外の方向へ流れていくのが面白かったからだ。
そんな風に、ただひたすら雨粒の行方を眺めるなどという贅沢な時間の使い方をするのは初めてだった。
だからかもしれない。
エドワードは自分でも意外なほど夢中になっていた。
しばらくそうしていた後で、次に目に入ったのは庭にある美しい花を付けた木だった。
縮れたような白い花びらが華やかで美しい。
いつまでも目を凝らして見ていたくなるような花だと思う。
打ちつける雨に翻弄されるように花びらを揺らすその花の名前を問うと、ルルが「百日紅ですよ」と教えてくれた。
(百日紅……これが?)
いつだったろう。
誰かに、同じように花の名前を問い、同じように答えてもらったことがあった。
そう、あれは確か。
エドワードがまだとても幼かった頃のこと。
母方の祖父が亡くなり、葬儀に参列するために父と二人で大聖堂に向かった。
大聖堂に続く大通りを馬車で走った時、窓から百日紅が見えたのだ。
あの花は何と言う名前なのかと、指差しながら父に問いかけた。
すると父は、あの花は百日紅というのだと教えてくれた。
普段あまり話すことの無い父だったが、その時は優し気な目でエドワードを見つめていて、それが何だか嬉しかったのを覚えている。
あまり会ったことの無い祖父が亡くなったことを悲しむ気持ちより、こうして父と一緒に過ごせることの喜びの方が勝っていた。
薄情な孫だと思う。だが、親族の縁の薄い子供だったのだ。
あの日。
街路樹として植えられていた百日紅は、街を美しく華やかに彩っていた。
だが、その時に見た百日紅はこのような透き通った白ではなく、紫ががった鮮やかなピンク色だった。
(花の色が違うだけで、こんなにも印象が違うんだ……)
でも、どちらも百日紅なのだ。
エドワードには、それがとても不思議なことに感じられた。
「白い百日紅も綺麗だけど、私は赤紫色の花びらの方が好きだな」
エドワードが何気なくそう言うと、隣にいたルルの表情が少し強張った。
「エドワード様、喉は乾いておりませんか?」
「…………ルル?」
まるで無理矢理、話題を変えようとするかのように、ルルがそう言った。
「そろそろ窓辺で外の景色を見るのを止めて、居間でお茶でも飲みませんか?」
ルルが何故急にそんなことを言うのか、全くわからなかったが。
そうやってエドワードを窓辺から引き剥がそうとするのには、相応の理由があるに違いない。
「……そうだね。そうしよう」
「それでは、とっておきのお茶を淹れましょうね」
「ねぇ、ルル、氷を出してよ。冷たい紅茶にして」
「そうね。そうしましょう」
ヴィクターがそう強請ると、ルルはやっと表情を緩めた。
そして、ルルがオレンジの香りのする紅茶を淹れ、並々と注いた木のコップの中に沢山の氷を浮かべて冷やしてくれた。
「美味しい」
「それは良かった」
喉を滑り落ちて行く冷たい紅茶を楽しみながら、エドワードは先ほどまで降っていた雨がいつの間にか止んでいることに気づいた。
多分、雲が晴れ、青空が見えているはず。
窓から入ってくる光は、硝子に付いた水滴を宝石のように輝かせていた。
「危ないところだったね」
「ええ、危ないところでしたね」
ヴィクターとルルが、不意にそんな会話を始めた。
「危ないところだったのかい?」
エドワードは何が何やらわからないまま、二人にそう言った。
「はあ……やっぱりね。ルル、この呑気な元王子は何もわかっていなかったようだよ」
ヴィクターがやれやれと呆れたような口調で言った。
それをたしなめるように、ルルが口を開く。
「ヴィクター、そんな風に言ったらエドワード様が可哀想だわ」
「ねぇ、ルル。何か問題があったんだね? 私には何が何だかちっともわからないんだ。できたら教えてくれないだろうか」
エドワードは元王子だ。
王宮で育ったエドワードでは、何が不味かったのか皆目見当がつかない。
「百日紅はとても気位の高い木なんですよ」
ルルは幼い孫に言い聞かせるように、ゆっくりと優しい口調でそう言った。
「誰もが自分のことを美しいと褒め称え、大好きだと言ってくれるものだと信じているんです。それはどんな色の百日紅であってもそうなんですよ」
「なのに、白い百日紅を見ながら、赤紫色の百日紅の方が好ましいと言うなんて。全く、エドワードはなんて迂闊なんだろう」
どうやら、百日紅を怒らせてしまったようだと知って、エドワードは驚いた。
「しかも、よりによって雷雲が近くにいるときにそんなことを言うなんてさ」
「雷雲が近くにいると何かまずいのかい?」
「白い百日紅の今の恋人は雷雲なんだ。恋人が貶されたと知ったら、怒ってどこに雷を落とすかわかったもんじゃない」
「でも、もう白い百日紅の目の届かない所にいるから大丈夫ですよ。雷雲も去っていったようですし。まあ、念の為今日は外には出ないようにして下さいね。窓辺に近づくのも控えた方がいいでしょう」
庭の百日紅が雷雲と恋仲だったなんて。
エドワードにとっては、それだけでもかなりの驚きだったのに。
雷雲の前の恋人が、雨上がりに百日紅の木の下にできた水溜りだったと知ってさらに驚いた。
「じゃあ、明日にでも百日紅に謝っておこうかな」
「何て言って謝るつもりなの?」
「赤紫色の花の方が好きだなんて言ってごめんよ。君の白い花びらもとても美しいと思う」
「……だめだめ、そんなこと言っちゃ」
「どうしてだい?」
「そんな綺麗な顔でそんな甘いことを囁いたら、百日紅に惚れられちゃうよ」
「私が、百日紅に?」
「そう。百日紅は惚れっぽいんだからね」
エドワードは驚いて目を丸くし、ヴィクターの顔を見た。
ヴィクターはそんなエドワードを見て、可笑しそうに笑った。
「雷雲と恋敵になりたいなら止めないけど?」
「……止めておくよ」
幸にも、百日紅は惚れっぽいだけでなく、色々なことをすぐ忘れる質らしい。
「そうですね、三日もしたら、すっかり忘れると思いますよ」
ルルはそう言っていたが、エドワードは念のため、一週間くらいは百日紅に姿を見せないようにしようと思った。
そして一週間後。
ルルの言う通り、百日紅はもうすっかりエドワードの心無い言葉を忘れたようだった。
ヴィクターから、百日紅の新しい恋の相手が庭に置き忘れたバケツだと聞いたエドワードは、バケツの恋敵には決してなるまいと心に誓った。




