2 エドワード
ルルと、初めて会った時のことを思いだす。
自分の姿を、ポロポロと涙を零しながら見つめる女性に、正直どうしていいかわからなかった。
「⋯⋯ごめんなさい。本当にごめんなさい⋯⋯」
その謝罪が何に対してなのか、全く心当たりがなかった。
ただただ、戸惑っていた。
何て言葉を返すべきか、全く思いつかなかった。
彼女が一体どんな人間で、何故こんなにも謝っているのか。
胸の前で組んだ手が震えていて、絶え間なく零れ落ちる涙が頬を伝う。
彼女の涙の理由を想像すらできなかった。
わかっているのは、自分は彼女に助けられたということ。
消えかかった命の火を、再び明るく灯してくれたのが彼女だということだけだった。
あれから一か月。
(困ったな⋯⋯)
エドワードは、たくさんのハーブや薬草が生い茂る庭で、途方に暮れていた。
ミントの葉を採ってくるよう頼まれたのだが、肝心のミントの葉がどれなのか全く見当がつかない。
(どんな形だったっけ⋯⋯)
目を瞑り、腕を組んでしばし考えてみる。
王宮のパティシエが作るアイスクリームの上に、何か緑色の葉が乗っていた記憶がある。
明るい緑色で、スッとするような爽やかな香りがしていたような。
再び目を開け、記憶を頼りにあの緑の葉を探すことにした。
だが、一向に見つからない。
そうやって庭をうろうろしていたら、家の中からヴィクターが出てきた。
「まだ摘んでないの?」
「面目ない。ミントというのがどれだかわからないんだ」
「だったら、戻ってそう言えばいいじゃない」
「確かにそうだな」
素直に頷くと、ヴィクターは呆れた表情でため息をつきながら、庭の端まで歩いていき、すぐそばの草を指差しながら言った。
「これがミント。覚えて」
葉を千切って寄越す。
鼻を近づけると、清涼感があるが、青臭い独特な香りがした。
記憶の中の葉と同じ明るい緑色で、記憶よりきつい香りの葉をじっと見つめる。
「よし、覚えた」
そう言いながらヴィクターの方を見る。
フン、という顔をしながら、ヴィクターが言う。
「これがミント、で、こっちがバジル。あれがローズマリー。ルルがよく料理に使うから覚えて」
その他にも、様々なハーブの名前を告げながら、ヴィクターはその葉を摘み取り渡してくる。
葉の形と香りを結びつけるようにして、なんとか覚えていく。
「⋯⋯何なの? にやにやして」
「いや、なんでもない」
指摘されるまで気づかなかったが、いつの間にか笑顔になっていたらしい。
この意地悪そうな物言いをしてくる少年が、なんだかんだ言いながら面倒見が良いことに気づき、少し嬉しくなってしまったのだ。
ヴィクターは自分を助けてくれた森の魔女の使い魔だ。
顎くらいまでの長さで切りそろえられた柔らかな灰色の髪、ルビーのように透き通る赤い瞳。
こんな森の中にいるのに、田舎臭い様子は微塵も感じられない。
まるで王都の貴族の息子のように洗練された整った容姿をしている。
華奢な少年の身体は中性的な魅力を醸し出していて、ドレスを着せたらちょっと気の強そうな貴族令嬢にも見えるだろう。
彼の本当の姿は、フェンリルなのだそうだ。
使い魔が人型を取るとき、その姿は、主人である魔法使いが「人間だったらきっとこんな姿だろう」と思う姿なのだそうだ。
主人との間に目に見えない繋がりがあり、主人の魔力を使って人型を維持しているらしい。
なので、主人が魔力を注げば注ぐだけ、美しい人型になるのだという。
ならば、こんなにも美しい使い魔を持つルルは、どれほど膨大で強力な魔力を持っているものか。
この秘密――ヴィクターがルルの使い魔で、本当の姿はフェンリルであるということ――を知るのは、自分と、時折訪れる馴染の商人の二人きりだけ。
(どうして秘密を打ち明けてくれたのだろう)
一度、ルルに思い切って尋ねてみたのだが、ルルは困ったような顔で微笑むだけだった。
それ以上のことを聞いてはいけないような気持ちになって、その話はその後していない。
「この庭はすごいね、色んな種類の草がある」
「ここは全ての季節の庭だから、どんな草木でも育てることができる」
「全ての季節の庭?」
「そう、この庭はいつでも春であり、夏であり、秋であり、冬である。それぞれの草木にとって、一番過ごし易い季節になっているから、一年中、枯れることが無い。ここは草木の楽園だ」
「すごいな。それは魔法のせい? 魔法使いの庭はどこもこんな感じなの?」
そういうと、ヴィクターはまたもや呆れたようにため息をついた。
「そんなわけないだろう。こんなことができるのは、ルルが偉大な魔女だからだ」
少しだけ、声に自慢気な響きが込められていた。
「そろそろ戻らないと。ルルがパンケーキを焼き始めている」
「そうだな。楽しみだ」
ルルは料理が上手い。
大抵のものは美味しく作るのだが、中でもパンケーキは絶品だ。
パンケーキなら、王宮でもパティシエが作ったものを食べたことがあるが、王族であるエドワードの口に入る頃には冷めてしまっていた。
厨房から王宮の食堂までの距離はあまりにも遠すぎたし、毒見を経てから提供されるので、焼きたて熱々の物を口にする機会はほとんど無かったのだ。
初めて焼きたてのパンケーキを食べた時、あまりにも美味しくて、エドワードは思わず「これには魔法がかかっているのか」と聞いてしまった。
ルルは嬉しそうに笑った後で、「そうですね、美味しくなあれとおまじないを唱えてはいますが、魔法はかけていませんよ」と答えた。
その会話を聞いていたヴィクターは、馬鹿にしたような口調で「ルルは魔法なんか使わなくても、なんでも美味しく作れるんだ」と言った。
ルルの焼く熱々焼きたてパンケーキを冷ましてしまうなんて、そんな愚かなことは絶対に避けなければ。
使い魔と元王子は、良い香りが漂い始めた家に向かって、急いで走った。