19 夏至の日の収穫とアルジェンの乗ったビスケット
「すまない⋯⋯」
まだ辺りは仄暗く、森の動物たちの多くは巣の中で眠りについている。
そんな中、エドワードはガラスの小瓶を手にしたまま、途方に暮れたように呟いた。
「まあ!」
ルルが慌てて駆け寄り、エドワードに怪我が無いことを確かめる。
どこも損なわれていないことを確認すると、ルルはほっと胸を撫でおろした。
「お怪我はないようですね。良かったです」
「私は大丈夫だよ。でも、朝露が地面に落ちてしまった⋯⋯」
今日は夏至の日で、エドワード達は朝早くからリドフォードの森に朝露を集めに来ていた。
夏至は、一年で最も昼の時間が長くなり、夜の時間が短くなる日だ。
この日に集めた朝露は、とても良い薬の材料となる。
ルルは露草の葉に付いた朝露を。
ヴィクターとエドワードは、蕗の葉に乗った朝露をそれぞれガラスの小瓶に集めていたのだが。
突然、ピョンと跳ねた鮮やかな緑色のアマガエルが、エドワードの手に乗った。
その結果、驚いたエドワードは持っていた小瓶を落としてしまい、せっかく集めた朝露は地面に吸い込まれていったのだ。
名残惜しそうに濡れた地面を見つめるエドワードに、ルルは励ますように声を掛ける。
「せっかく集めた朝露なのに、残念でしたね。でもほら、朝露はまだまだ沢山ありますからね」
「全く⋯⋯アマガエルごときで驚くなんて情けない」
「まあ、ヴィクターったら。そんな風に言わないで頂戴」
「ふん。エドワードは臆病すぎる。僕が側に居るんだから、何も心配することはないのに」
「ふふっ。私の可愛いヴィクターは、とても頼もしいわね」
「ありがとう、ヴィクター。そう言ってくれて嬉しいよ」
ルルとエドワードにそんな風に言われたヴィクターは、ふんとそっぽを向いた。
だが、耳がほんのりと赤くなっている。
それを見たルルとエドワードは、思わず視線を合わせて微笑み合った。
そんな風に、ガラスの小瓶に朝露を集めた三人は、持って来た籠の中にそっと小瓶をしまった。
小瓶は全部で七つ。エドワードが集めた分は、そのうちのひと瓶だけだ。
「ルルもヴィクターも凄いね。私は1瓶しか集められなかった⋯⋯」
残念そうに言うエドワードに、ルルが優し気な声で言う。
「私とヴィクターは慣れてますから。でも、エドワード様は初めてなのでしょう? 初めてなのにひと瓶も集められるなんて、とても筋が良いですよ」
ルルはいつだって優しい。
その優しさは、今までのエドワードには決して得られないものだった。
そんな奇跡のようなものをルルは惜しみなく与えてくれるのだ。
陽が昇りあたりが明るくなってくると、森は目覚めて巣から出てきた動物たちの気配で賑やかになってきた。
小瓶が入った籠はヴィクターが持ち運んでいる。
エドワードに持たせると、ひっくり返してしまうかもしれないからだ。
今は子供姿のヴィクターだけれど、本当の姿は巨大な狼のようなフェンリルだ。
銀色に輝く毛並みの、鋭い爪と牙をもつ大きな獣。
ルルとエドワードをその背に乗せて、風のように駆けることができるくらいの魔獣。
だが、今は華奢な子供の姿なので、エドワードはどうしてもヴィクターに重い物を持たせて申し訳ないと思ってしまう。
「次は、ヒペリカムを摘むんだよね?」
ヴィクターがルルにそう声を掛けた。
ヒペリカムは五枚の細長い花弁でできた、鮮やかな黄色の花だ。
花びらの端に黒くて小さな点々が付いており、触れると指先が赤く染まるし、茎ごと摘んでオイルや酒に漬けると、瓶の中が驚くほど赤く色づく。
悪いものを退ける香りを放つこの草は、窓やドアに吊るすことで、落雷や火事などの災害を免れることができ、子供のベッドに吊るしておけば、神隠しに合わないのだそうだ。
そんなヒペリカムは色んな病に効く優れた薬草でもある。
不安や憂鬱をやわらげ安眠へと導いてくれるし、オイルに漬ければ切り傷はもちろん、火傷の治療薬としても使用できる。
そして、ヒペリカムは、夏至の日に摘んだものが最も効果が高い。
なのでこうして、森に採取に来ているわけだが。
これがヒペリカムなのだと教えてもらったエドワードは、ふと頭をよぎった疑問を口にしてみる。
「この花なら、家の庭にも沢山あったはず。どうしてわざわざ森の中のものを摘むんだい?」
「前にも言っただろう? ルルの庭は『全ての季節の庭』だ。あの庭はいつでも春であり、夏であり、秋であり、冬である。それぞれの草木にとって一番過ごし易い季節になっているから、一年中枯れることが無い。その代わり、あの庭には夏至という特別な一日は無い」
ヴィクターは、ゆっくりと一言ずつ言い聞かせるように話す。
「裏を返せば、毎日が夏至のようなものなんだけれどね。とにかく本物の『夏至の日に摘んだヒペリカム』に比べると、少しだけ効き目が落ちるんだ。でも、それだってその辺に生えているものと比べたら遥かに良いものなんだけれど」
「だから夏至の日にリドフォードの森に来てヒペリカムを摘むんだね」
エドワードは、そうだったのかとすっきりした顔で頷いた。
そしてそれから三人とも、両手で抱えきれないほどのヒペリカムを摘んだ。
手や服が赤く染まり、なんだか凄惨な事件の後のような雰囲気になってしまったが、家に帰ってからルルの魔法で汚れを綺麗に取り去ってもらった。
今朝は早くからのお出かけだったため、きちんとした朝食は取らずに昨日の夕飯の残りのスープを飲んだだけだった。
なので、昼まで時間があるにも関わらず、三人ともお腹が空いていた。
丁度おやつの時間が近かったので、ルルは食事代わりになるビスケットを焼いた。
ルルのビスケットは、生地がさっぱりとした甘すぎないものだ。
なので、いつもジャムやクリームなどをのせて食べる。
「今日はさっぱりとしたマーマレードをたっぷりと乗せましょう」
屋根裏の壁についている扉の向こうには、『時を止める部屋』がある。
そこに入れておいたものは、まるで時を止めたかのように悪くならないらしい。
ルルがその部屋から持って来たマーマレードの瓶は、魔法の力で程よく冷えていた。
手のひらくらいの大きさのビスケットに、ルルがマーマレードをたっぷりと塗っていく。
その横では、ヴィクターが良い香りがするお茶を淹れ始めた。
エドワードは、自分も何か手伝わないとと思い、テーブルの上の瓶を手に取った。
瓶の中にはキラキラと銀色に輝くアルジェンがぎっしりと詰まっている。
ヴィクターはこれをお茶に入れて、溶けていく様子を眺めながら飲むのが大好きなのだった。
瓶の蓋を開けた時、エドワードはあることを思いついた。
(アルジェンをマーマレードの上に振りかけると、綺麗な飾り付けになってヴィクターが喜ぶかもしれない)
そう思うと、どうしても喜ぶヴィクターの顔が見てみたくなり、エドワードはビスケットの上で瓶を軽く傾けた――つもりだった。
エドワードは、少しだけ瓶を傾けすぎてしまったようだ。
ビスケットの上には大量のアルジェンが輝きを放っていた。
エドワードが震える手で握りしめている瓶の中は、半分ほどになっていた。
「⋯⋯⋯⋯すまない」
エドワードは、どうしていいかわからずに、ただただ小声で呟いた。
「その、アルジェンを乗せればヴィクターが喜ぶと思ったのだ。なのに、こんなことになってしまって⋯⋯本当にすまない」
「まあ!」
ルルが頬を染め、目を輝かせる。
「エドワード様はなんてお優しいのでしょう!」
「だが、かえって迷惑をかけることになってしまった⋯⋯」
「迷惑なんかじゃないよ。アルジェンは多ければ多いほど良いから。でも、これはちょっとやりすぎかもしれないけどね」
ビスケットの上で山盛りになったアルジェンを見つめながら、エドワードはため息をついた。
そんなエドワードを見つめながら、森の偉大な魔女とその使い魔は、『マーマレードを塗ったビスケットの上にアルジェンを飾る』という素晴らしいアイデアを称え、これから先、夏至の日には必ずこのビスケットを食べることにしようと誓い合った。