17 ハインリヒ
「今日はとても良い天気ね。久しぶりに遠乗りに行きたいわ」
陽の光に輝く金色の髪に、陶器のように滑らかな白い肌。
蒼玉のように透き通る青い瞳。
しばしば女神にも例えられる美しさ。
ハインリヒの姫様――今はもう、アルグランド王国の王妃となったアデレードが、無邪気に微笑みながら呟いた。
「仰せのままに」
ハインリヒもまた、穏やかな微笑みを浮かべ、アデレードの前で頭を下げる。
アルグランド王国の貴族のみならず、王宮に勤める侍女達や、はたまた城下の女達まで。
多くの女性たちを虜にする美しい護衛騎士のハインリヒ。
ハインリヒは、アデレードの乳母の息子で、大公マクシミリアンやアデレードとは乳兄弟の間柄だった。
フォレスタ公国にいた頃は、近衛騎士として将来を嘱望されている存在だった。
だが、その地位を捨て、アデレードと共にこの国にやってきた。
幼い頃から共に育った『姫様』が、敵国アルグランド王国に嫁ぐ。
その知らせを聞くやいなや、ハインリヒは自ら大公マクシミリアンに護衛騎士としての同行を願い出た。
ハインリヒがアデレードと共にアルグランド王国に来てから、すでに5年以上が経っている。
だが、アデレードには一向に懐妊の兆しがなかった。
その理由は、王宮に住まう者なら誰もが知っていた。
アデレードの寝所に、王の訪れは無かった。
王は毎夜、西の離宮に住む側妃の元に通っている。
側妃は、かつては王の正妃だった。
側妃となり西の離宮に追いやられてから心の病にかかり、今では正気を失っている。
一人息子であるエドワード王子を育てることもできないくらいに。
嫁いでから3年間寝室を共にすることがなければ、それを理由に離縁が認められる。
今のアデレードには、十分にその資格がある。
兄である大公マクシミリアンに訴えれば、すぐにでもフォレスタ公国に戻れるだろう。
だが、アデレードはそれを望まない。
理由は簡単だ。
アデレードは王に惹かれている。
それに、誇り高いアデレードは、自分の役目を放り出してまで幸せを求めるような真似をするつもりはなかった。
アルグランドの王、ローレンス。
野心の無い、何事においてもひどく無気力だが、姿形だけは美しい男。
ただアルグランドの王であるというだけで、アデレードを妻とする幸運を得た幸せな男。
だが、それによって最愛の妻の心が壊れてしまうという不幸に見舞われた不運な男。
アデレードの心を捕らえておきながら、アデレードに指一本触れようとしないローレンスを、ハインリヒは心の底から憎んでいた。
ハインリヒが、アデレードを「王妃様」と、呼ぶようになって5年以上が経ったが。
ハインリヒにとってアデレードは、いまだに幼い頃と変わらず「姫様」なのだ。
王妃となってから数年が経った今、アデレードは十分に気品溢れた大人の女性になっていた。
元々、公女としての自分の立場を弁えた、誇り高く賢い彼女は、いつだって自分が何を為すべきかを理解している。
先日、兄であるフォレスタ公国大公マクシミリアンからアデレードに手紙が届いた。
それは公式な手続きを踏んで届けられたものではなかった。
間に何人もの手を介して、最後には乳母自らがアデレードに直接手渡した手紙は、差出人の名前はマクシミリアンではなかったが、アデレードが読めばそれが誰からのものであるかは一目瞭然であった。
その手紙を読み終えた後で、アデレードは深くため息をついた。
「これを、燃やしておいてちょうだい」
「かしこまりました」
「貴方が読んだ後によ」
手紙を受け取り、アデレードの前で目を通すと、ハインリヒは驚きに目を見開いた。
「……これは……」
「私がこれからするべきことよ。……貴方が王と同じ金髪碧眼で本当に良かったわ」
そう言って微笑むアデレードの瞳は、諦めとほんの少しの安堵の色が浮かんでいた。
「全て、姫様の仰せままに」
「……ありがとう」
1年後。
アデレードは王子を産んだ。
アデレードに良く似た顔立ちの男の子。
王家の色である金色の髪と青い瞳を持つ子供を。
兄である大公マクシミリアンから届いた祝いの品々は目を瞠るほど豪華で、それを目にしたアルグランドの貴族達は、豊かなフォレスタ公国との揺るぎない繋がりを齎したアデレードに、心からの賛辞を送った。
王妃殿下のおかげで、アルグランド王国は安泰だ。
側妃が産んだ第一王子は、最早、いないものとして扱われた。
何の後ろ盾もなく、王からも見放された第一王子を次代の王へと押し上げようとするような奇特な者はほとんどいなかった。
王宮の中庭で、籠の中で眠っている我が子を見つめながら、アデレードは呟く。
「私は、やっと自分の役目を果たせたわ」
その言葉が何を意味するのかを真の意味で理解しているのは、アデレードとハインリヒ、そしてマクシミリアンだけだろう。
「ありがとう。貴方のお陰だわ。これからも、ずっと……ずっとそばにいて頂戴」
「姫様の仰せのままに」
そう言って微笑むハインリヒは、アデレードと違って、世界一幸せそうに見えた。