13 アデレード
誰かに恋をしたことは一度も無い。
恋をしてしまったら。
その人の側にずっといたくなるらしい。
そして、その人以外の人の元に嫁ぐことは、耐え難い苦痛となるらしい。
大国の公女として、いずれ兄の決めた誰かの元に嫁がなくてはならないアデレードにとって、恋などと言うものは、苦痛をもたらす病のような得体のしれない災いのようなもの。
できれば、そんなものとは無縁でいたかった。
16歳の誕生日の、次の日の夜のこと。
兄マクシミリアンが言った。
「隣国アルグランドの王の元に嫁いでくれ」
おや? とアデレードは首を傾げる。
アルグランド王は死んだと、乳母が話していたけれど。
まだ生きていたのかしらと不思議に思って、どういうことなのかとアデレードが問うと、兄はうっすらと微笑みながら答えた。
「お前の伴侶となるのは、新しく王になる男だよ」
聞けば、その新しく王となる人物は、第三王子なのだそうだ。
相次いで兄達を亡くし、予期せぬ王という立場になることを、受け入れがたく思っているらしい。
アデレードはそのことを聞いて、思わず眉をひそめた。
王子という身分に生まれついたにもかかわらず、自分が王になることを一度も考えたことがないだなんて。
なんて覚悟の足りないことだろう。
それは、その男に、最愛の妻と生まれたばかりの息子がいると聞いた時よりも、はるかに不愉快なことだった。
会ったことも無い相手に嫁ぐことを。
すでに妻子のいる、敵国の王に嫁ぐことを。
小さな頃からアデレードを、溢れんばかりの愛情を持って世話してきた乳母は、心から悲しんでいた。
「こんなのあんまりです、まるで人質ではないですか!」
乳母が涙をハンカチで拭いながら言う。
「ああ、なんてお可哀想な姫様…………」
――可哀想? 誰が? 私が? 何故?
アデレードは、乳母がそんな風に嘆き悲しむことを不思議に思った。
アデレードはフォレスタ公国のたった一人の公女だ。
大公である兄の命じるままに嫁ぐのは当然のこと。
兄マクシミリアンだってそうだ。
大公家のたった一人の男子。
望むと望まざるとに関わらず、大公になることは決まっていた。
――そういうものなのだ。
そんな風に、初めから決まっていることを、何故に今更『可哀想』だなどと言うのだろう。
アデレードは心の底から不思議に思った。
好き合った者同士が結ばれるだなんて、そんなのは自分には全く関係の無い話だ。
そもそも。
それがどんなことなのか、アデレードには想像もつかない。
だからこそ自分が、乳母が言う『可哀想な姫様』であるとは到底思えなかったのだ。
アデレードには、恋というものが何なのか全くわからない。
酒を飲んだことがない者に、酒の素晴らしさを語っても、全く意味が無いように。
それがどれだけ素晴らしいものかを周りがいくら語って聞かせたとしても、アデレードにははピンとこないのだ。
自分が嫁ぐ予定の男は、第三王子だった頃に、美しい子爵令嬢と結ばれたのだそうだ。
愛し愛され、その結果、跡継ぎにも恵まれた。
そんなお伽噺のような結婚をした二人。
自分がそこに割って入るのは多少の気まずさはあるが、それも致し方あるまい。
そうすることで、両国の戦争は終わるのだ。
多くの命が失われるのを防ぐことができる。
恋なんて言う未知のものに憧れ、我儘を言って兄を困らせるような、そんな愚かなことをするつもりは毛頭ない。
だが、夫となる人物の方が、アデレードを受け入れないとしたら――
そんな不安が少しだけ頭をよぎった。
だが、そんな不安は杞憂だった。
新しく王となったローレンスは、アデレードを丁重に迎え入れると言ってきた。
ローレンスはちゃんと理解してるようだ。
この結婚の持つ意味を。
王としての自分の為すべきことを。
そのことにアデレードは安堵した。
幸いと言っていいのかはわからないが、戦争は始まったはかりで、互いにそれほど酷い被害は出ていなかった――とは言え、アルグランドは王を亡くしたのだが。
アルグランドの民は、敵国だったフォレスタ国をそれほどは憎んでいなかった。
戦争は民の預かり知らぬところで起きていたからだ。
戦ったのは主に騎士達で、一般の国民に死者はほとんど出ていなかった。
アデレードのことは、敵国から来る公女だとしても、とくに敵対心を持って迎える者はいなかった。
むしろ、両国の和平を結ぶためにやってくる、慈悲深い公女であるという噂が広がっていた。
その噂を流したのはおそらく兄だろう。
兄は、敵国だった国に嫁ぐ妹のために、様々な心遣いを見せた。
嫁ぐ際に、アデレードの幼馴染のハインリヒを護衛騎士としてつけてくれたこともそうだ。
ハインリヒは、アデレードの乳母の息子で、マクシミリアンやアデレードとは乳兄弟の間柄だった。
気安く話せる、しかも、アデレードに忠誠を誓ったハインリヒが一緒に付いてきてくれると聞いて、アデレードは喜んだ。
と、同時に、隣国で王女の護衛騎士となるハインリヒの身を案じた。
自分の護衛騎士となれば、フォレスタ公国での出世の機会を逃してしまうからだ。
だがハインリヒはそんなアデレードの心配を笑い飛ばした。
自分の出世のことなど、姫様が心配する必要はない。
姫様を一人で隣国に行かせるほうがよほど自分にとっては辛いことだと。
生まれた時から側にいた乳兄弟の頼もしい言葉は、アデレードにとって心の支えとなった。
16歳の誕生日から3ヶ月後。
アデレードがアルグランド王国に輿入れした。
馬車が王宮に続く道を走る間、道の両脇に並んだ人々が、花びらを撒きながら口々に祝福の言葉を叫ぶ。
平和の使者であるアデレードを、心から歓迎する人々。
アデレードは思った。
自分は幸運だと。
そして、馬車が王宮に着く。
ハインリヒのエスコートで玉座の間に通されたアデレードは、頭を下げる貴族達が左右に居並ぶ中を、ゆっくりと歩いた。
その先の玉座に座るアルグランド王。
ローレンスがアデレードを見つめている。
金の髪に青い瞳。
アデレードや兄マクシミリアンと同じ色。
特に目を引く色ではなかった。
だが、その瞳は。
なんて。
なんて美しい瞳だろう。
頬に熱が集まり、心臓が大きく跳ねた。
息が苦しい。
どうしよう。
アデレードは、その瞳から目が離せなくなった。
見つめているとこんなにも苦しいのに、目を離すことができないだなんて。
これは、これはまるで――
「ようこそ、アデレード公女」
その瞳の持ち主からかけられた言葉に、アデレードの心臓はまた大きく跳ねた。