11 紋白蝶と菜の花畑
「助かった⋯⋯」
ほっとした表情でルルを見つめるエドワードは、さっきからずっと同じ場所を歩き続けていた。
おや、おかしいぞ? と気づいた時にはもう、すっかり手遅れだったのだ。
「お迎えに参りましたよ、エドワード様。大丈夫ですか? まだ歩けそうですか?」
「ああ、歩くのは問題ない。ただ、いくら歩いてもこの場所から抜け出せなくなり、困っていたんだ⋯⋯」
「なんてことでしょう。エドワード様を困らせるなんて。紋白蝶にも困ったものですね」
ルルは右手に藤の籠を持っている。
中身は空だ。
「⋯⋯紋白蝶?」
「紋白蝶は時々、こうやって人間に悪戯をするのですよ」
「⋯⋯悪戯?」
「ええ。エドワード様はずっと紋白蝶の庭を歩かされていたでしょう?」
そしてルルは紋白蝶について教えてくれた。
リドフォードの森の紋白蝶は、人型にもなれる高位の存在で、こうやって人間を惑わし自身の領域に引き込んでしまうことがあるのだそうだ。
「そうだったのか。森の中を散歩していて綺麗な菜の花畑を見つけたので、ぐるっと一周歩いてみようと思ったんだが」
歩いても歩いても、菜の花畑に終わりが来ない。
ただただ菜の花畑の周りを歩き続けるだけで、一向に元の場所に戻れず、帰り道がわからなくなった。
そして、途方に暮れて立ち尽くしている時、ルルが現れた。
「いっその事、菜の花畑の中に入ってみようかと思い始めていたんだ」
「まあ!」
ルルが慌てたように言った。
「駄目ですよ、そんなことをしては。紋白蝶に食べられてしまいます」
「紋白蝶が、人間を食べるの?」
エドワードは驚いて目を見張った。
「そうですよ。紋白蝶は獰猛ですからね。エドワード様、どこも食べられてませんね?」
「大丈夫だよ。どこも齧られたりしていないから」
「エドワード様、紋白蝶は人間の血肉は食べません。食べるのは記憶だけですよ」
「⋯⋯記憶?」
記憶を食べる、という言葉の不思議さに、エドワードは理解が追い付かない。
菜の花畑の上を舞う様にひらひらと飛ぶ紋白蝶が、そんなことをするなんて、とても信じられなかった。
「紋白蝶は獰猛で、容赦なく記憶を貪ります。それも、一番忘れたくない幸せな記憶から奪っていくのだから質が悪い」
ルルは真剣な表情でエドワードの顔をじっと見つめた。
「どうですか? エドワード様。何か落ち着かないような、ソワソワした気持ちになったりしませんか? 大切な物を落としてしまったような、がっかりした気持ちはありませんか?」
ルルにそう言われて、エドワードは改めて自分の心に目を向けた。
何か落ち着かないような気持も、ソワソワと焦るような気持も無いし、がっかりもしていない。
「大丈夫だと思うよ。今の気持ちは、そう⋯⋯ルルに会ってほっとした気持ちでいっぱいだよ」
「そうですか、それならば良かったです」
ルルが安心したように笑ったので、エドワードはなんだか申し訳無い気持ちになった。
きっと、エドワードが中々家に帰ってこないので、心配して探しに来てくれたのだろう。
「手間をかけて済まなかった」
「まあ、エドワード様は何も悪くないのだから、謝らないで下さいな」
ルルは優しい。
いつだって、祖母が小さな孫にするように、愛情に満ちた言葉を返してくる。
そんな慈愛に満ちたルルの瞳が、不意に冷酷な色を帯びる。
「⋯⋯ルル?」
「紋白蝶です。エドワード様、私の後ろにいて下さいね」
先程から周りを飛んでいた紋白蝶のうちの一匹が、ルルの前までやってきた。
そして、真珠のようなきらめきの光に包まれたと思ったら、いつのまにか一人の男性が地面に立っていた。
「ごきげんよう、森の魔女殿⋯⋯おや、なんだかご機嫌斜めのようですね」
柔らかそうな真っ白い髪は、年老いた者のそれとは違い、艶やかで瑞々しい質感を湛えている。
肌も髪と同じく真っ白で、両目の下の白い頬には、それぞれ縦に並んだ灰黒色の斑点が2つある。
「そうね。私の大事な人を食べようとした悪い蝶がいたせいでね」
ルルがそう言い終わるや否や、ざっと強い風が吹き荒れ、菜の花畑が春の嵐に襲われた。
「くっ⋯⋯!!」
男性は両腕で顔を庇うように立ち、風の勢いから身を守るようにする。
エドワードがふと横を見ると、銀色に輝く毛並みの、鋭い爪と牙をもつ大きな獣がルルの側にいた。
ルルの背よりも遥かに大きく、狼のような姿のその獣は、ルルに甘えるように鼻先を彼女の頭に乗せた。
先程の強い風は、この獣が現れたときに吹き荒れたらしい。
「エドワード様には、今後一切手を出さないこと。約束できるかしら?」
ルルが冷酷な声で問いかけた。
男性は、一瞬、顔をひどく歪ませたあと、仮面のような温度のない笑顔を顔に貼り付けて言った。
「それはもちろん。偉大な森の魔女殿がそうお望みとあらば」
そう言って頭を下げた男性は、そのままの姿勢で消えてしまった。
と、同時に、あたりに広がっていた美しい菜の花畑もあっという間に掻き消えてしまった。
呆然と立ち尽くすエドワードの前には、リドフォードの森の木々が立ち並んでいて。
最早、そこが開けた土地だった面影すらない。
「紋白蝶は嫌いだ。あんな花畑は踏みつけて荒らしてしまえば良かった」
いつの間にか、あの大きな姿の獣は姿を消していた。
かわりに、ヴィクターがルルのそばに立っている。
「あらあら、駄目よヴィクター。紋白蝶はむやみに手を出すとひどく祟るんだから」
どうやら先程の神々しい獣が、この使い魔の本当の姿だったらしいと気付いて、エドワードはもう少しよく見ておけばよかったと残念に思った。
「⋯⋯エドワード様? どうされました?」
「いや、何でもない。ちょっとだけ、残念だなと⋯⋯」
エドワードが最後まで言い切る前に、ルルは大きな緑色の目を見張り、両手を胸の前に組んで叫んだ。
「なんてこと! 紋白蝶に食べられてしまったのですね!?」
「ほら、やっぱりあんな意地汚い蝶は花畑ごと踏み潰してしまえば良かったんだよ!」
二人の剣幕に、怖気づいたエドワードは、そうではなく、ただヴィクターの獣になった姿をじっくりと見られなくて残念に思っただけだと必死に説明した。
それを聞いたルルは、『甘いアルジェンで飾り付けウエハースを添えたアイスクリーム』を食べさせる代わりに、エドワードにフェンリルになった姿をじっくりと見せる、という取引をヴィクターに持ちかけた。
ヴィクターは、そこに『蜂蜜をたっぷり入れたミルク』も上乗せした条件で了承した。
エドワードはその後、銀色の美しい獣の毛並みを、十分に堪能したのだった。