1 森の中の小さな家
「すまない⋯⋯」
両手に割れた皿のかけらを持ち、申し訳なさそうに伏せた目の長い睫毛を揺らしながら、エドワードは小さな声で言った。
17歳ですでに成人しているエドワードだが、そんな風に打ちひしがれた様子でしゃがんでいると、なんだか頼りない子供のように見える。
「まあ!」
慌てて駆け寄り、エドワードの手に怪我が無いことを確認すると、ルルは思わず安堵のため息をついた。
「お怪我はないようですね。良かったです。それにしても一体、どうしてこんなことに?」
床には、割れた皿の破片と、こんがりを通り越してやや焦げたパンが落ちていた。
パンの表面に、割れた皿のかけらが乗っている。
残念だがこのパンはもう食べられない。
「ルルが起きてくる前に、せめてパンくらい焼いておこうと思って⋯⋯」
「まあ⋯⋯!」
ルルは頬を染め、心から嬉しそうに言う。
「エドワード様はなんてお優しいのでしょう!」
「だが、かえって迷惑をかけることになってしまった⋯⋯」
「いいえ! 全く迷惑などではありません! そうですね、これは今日一日を占う儀式だと思えば良いのです!」
「儀式?」
「はい!東の果ての国では、年の初めに地面に皿を投げつけて、その年の吉兆を占う儀式があるそうです」
「皿を地面に?」
「はい。今回のこれも、それと同じようなものだと思えば良いのです。ほら、こんなにも大胆かつ粉々に割れているのですから、今日はきっと良い日になるに違いありません!」
そう言いつつ、ルルは魔法で割れた皿とパンを片付けた。
ルルは魔女だ。
このリドフォードの森に、使い魔のヴィクターと暮らしている。
「⋯⋯ったく、使えねぇ王子だな」
一連の出来事をすぐ横で見ていたヴィクターが、呆れたように呟いた。
使い魔のヴィクターは、今は幼い子供の姿をしているが、本来の姿は大きなフェンリルだ。
主人であるルルに咎められても、ちっとも反省した素振りを見せない。
それどころか、少し呆れたような表情で言うのだ。
「ルルは、本当に王子様に甘いよね」
「まぁ、何を言うのヴィクター。エドワード様は病み上がりなのに、一生懸命頑張ってパンを焼こうとしてくださったのよ」
使い魔を叱る主人としてはいささか威厳の無い言い方だが、ルルはいつもこんな感じなのだ。
ルルはヴィクターにすこぶる甘い。
「さてと、素敵な一日が約束されたことだし、今日は久しぶりにパンケーキを焼きましょうか。焼きたての熱々にメイプルシロップとバターを乗せて食べましょう。ヴィクターは飲み物の用意をお願いしますね。エドワード様は、お庭のミントを摘んできて頂けますか?」
「わかった」
エドワードはこくりと頷くと、扉を開け庭へ出ていった。
庭にはルルが育てているたくさんのハーブや薬草が生えている。
「ルル」
ヴィクターが思い詰めたような、少し切実な表情で問いかける。
「あの王子をいつまでここに置いておくつもりなの?」
突然の質問に、ルルは一瞬困ったような表情をしたが、すぐにいつものふわりとした優しい微笑みを浮かべた。
「そんな怖い顔で寂しいことを言わないで、ヴィクター。エドワード様がどんなに辛い目にあったか、貴方だってわかっているでしょう?」
エドワードは元王子だ。
アルグランド王国の亡くなった側妃の息子で、ほんの少し前までは第一王子だった。
だが、第二王子との王太子指名争いに負け、王族から外された上、リドフォードの森の入り口に捨てられてしまった。
高熱に意識を失い、大きな樫の木の根元に寄りかかっていたエドワードを最初に見つけたのは、森に住む妖精達だった。
手のひらに乗るくらい小さな妖精たちが、光る羽をいつもよりさらに光らせながら、ルルとヴィクターの住む森の家に飛んで来て言った。
「森の入り口の大きな樫の木の根元に、人の子が倒れているの」
「このままだと死んでしまうかも」
ルルは不安を口にする妖精たちの案内で、急ぎ森の入り口に駆けつけた。
そしてエドワードを保護し、家に連れ帰った。
それから、嫌そうな顔をするヴィクターをなだめすかしながら治癒魔法をかけ、甲斐甲斐しく世話をした。
その甲斐あって、ようやくエドワードはベッドから降りられるようになったのだ。
病が癒えたとはいえ、今の彼にはここを出て一人で生きていくことは無理だろう。
そもそも元気になったからといって、生粋の王族であった彼には、この森はおろか市井で暮らすのに必要なスキルは全く身についていない。
リドフォードの森。別名「惑いの森」は、妖精や精霊、魔獣が棲む、とても危険な森として知られている。
エドワードの生まれた国、アルグランド王国の北に位置し、隣国フォレスタ公国との間に広がる森が自然の国境となっていて、両国の民が行き来する際は森を迂回することになる。
かつては王国の軍隊が森を通って公国に攻め込もうとしたり、またその逆もあったのだが、軍勢が相手国にまともにたどり着くことは一度としてなかった。
森に入った軍勢は、何日も森を彷徨った挙句、いつの間にか森の入り口に戻ってしまう。
何度試そうが結果は同じ。
そういった経緯もあり、リドフォードの森は「惑いの森」と呼ばれるようになった。
リドフォードの森の奥深く、水の精霊が棲む小さな泉のほとりに、ルルとヴィクターが住む「森の家」がある。
二人暮らしには十分な広さのその家は、ルルが移り住む前は「森の魔女」ポーシャが住んでいた。
ポーシャは品の良い老婦人で、突然現れたルルとヴィクターを快く迎え入れてくれた。
しばらくは三人で家族のように穏やかな時間を過ごしていたが、ポーシャが老衰で亡くなった後、ルルが「森の魔女」の名を引き継いだ。
「森の魔女」の仕事は、薬草を調合し、病や傷に良く効く薬を作って、森を訪ねてくる商人に売ることだ。
商人は「森の魔女の薬」としてそれを森の外の村や町で売る。
「森の魔女の薬」はとても効き目が良いので、良い商売になるのだ。
そうやって生計を立てながら、森の奥でひっそりと暮らしていたのに。
突然現れたエドワードは、ヴィクターにとって、この平穏な日々が脅かされるような、心を騒めかせる存在だった。
心優しいルルは、エドワードを放り出すなんてことは絶対にしないとわかっているのだ。
わかっているのに、どうしてもその不安から、ヴィクターはエドワードを邪険に扱ってしまう。
「可愛いヴィクター。そんな拗ねたような顔をしないで。今朝のお茶には、貴方が好きなキラキラ光る銀色のお砂糖を入れて飲みましょうね」
「⋯⋯アルジェンなんかでごまかされないから」
アルジェンは、星の祝福を受けた銀色の貝殻をすり潰したものでコーティングした、キラキラと光る砂糖の粒だ。
ほんのりとした甘い味と、ほんの少しだけ爽やかな柑橘系の香りがするので、ヴィクターはとても気に入っている。
「ふふっ。そうね、では、とっておきのベリーのジャムも出さないと。さて、そろそろエドワード様が庭から戻ってくるだろうから、パンケーキを焼き始めないとね」
そう言いながら手にしていたエプロンを身に着けると、ルルはキッチンの作業台へと向かう。
(あの王子がダメにしたパンは、焼いておいた最後のパンだった。だから今朝はもう他のものを食べるしかなかったんだ)
でも、ルルはそんなこと全くおくびにも出さず、まるで「良いことがあったから特別に」パンケーキを焼くのだと言わんばかりだ。
ヴィクターには、そんなルルの優しさを無駄にすることなんてできるはずもなかった。
なんだかんだ文句を言いつつも、ヴィクターはルルのそういう優しさが大好きなのだった。
(⋯⋯ルルの一番好きな茶葉で淹れよう)
ヴィクターもまた、良いことがあった時にだけ飲む、葡萄の香りのする特別なお茶の準備を始めた。