第三章 大ガラスとフクロウ 3
カナルストリートを北上していた馬車は、運河がルディ川と交わる手前で右手へと折れた。
大学街の北辺をなす川沿いの大通りは、地図上の正式名称こそ「ノースローストリート」だが、カトルフォードではもっぱら「梟&大烏ストリート」あるいは「大烏&梟ストリート」と呼ばれている。
王者ペンドラゴンに次いでカトルフォードで二番目に古い学寮たる名誉を主張し合う極めて、きわめて不仲な二学寮であるスペリオルとモーゴンが、北の大辻をなすブリッジストリートを挟んで、川沿いの通りの街側の東西に並んでいるためだ。
スペリオル学寮の紋章は南方の知恵の女神アテネの象徴たるフクロウ。
モーゴン学寮の紋章は北方の叡智の男神オーディンの斥候たる大ガラス。
両学寮は敷地内に本当にその紋章である鳥たちを住まわせている。
「それでミスター・エイキン―ー」
馬車がスペリオル学寮の北壁沿いを走り始めたあたりで、エレンは気を取り直して訊ねた。「〈茶色精霊の契約指輪〉はどのような状況で紛失いたしましたの? ハミルトン教授が急死なされたときには、もうお指には嵌めていらっしゃらなかった?」
「実は、それがよく分からないのですよ」と、エイキンが情けなさそうに眉尻をさげる。
「分からないってどういうことです?」と、トリスタンが勝ち誇ったテリア犬みたいに噛みつく。「学寮付の医師が当然すぐ検死をしたのでしょう? そのとき、学寮長の指に紋章指輪があるかないかくらいさすがに気づいたのでは――ああ!」
「な、なによトリスタン?」
「どうしましたミスター・ディグビー」
エレンとエイキンが愕いて訊ねる。トリスタンは得意そうに小さい頭を持ち上げて宣言した。
「つまり、医者が犯人なのですよ!」
「……いや、残念ながらその可能性は低いと思います」と、エイキン。
「なぜですの?」
「外部の方はご存じないかもしれませんが、スペリオルの学寮長は、常日頃から〈茶色精霊の契約指輪〉を嵌めているわけではないのですよ。礼装をなさるときだけです。ハミルトン教授も普段は指には嵌めず、自室の書類机の鍵付きの引出しに収めていらしたはずです」
「その鍵は?」
「教授ご本人が首飾りにして常に持ち歩いておいででした。―-御遺体にも当然そのままありましたよ」
「でも、引出しを確かめたら指輪だけが無かったと?」
「そういうことです」
「--なるほど。なかなか複雑そうですわね」
エレンは顎に手を当てて考えこみながら頼んだ。「ミスター・エイキン、ハミルトン教授が亡くなってから、学寮のみなさまが指輪の紛失に気付かれるまでの出来事を、時系列順にざっと話していただけます?」
頼みながら手荷物の小型トランクを開け、愛用のワインレッドの革表紙のノートと鉛筆を取り出す。エイキンはちょっと意外そうに目を瞠ってから、愛想の良い笑顔で頷いた。
「もちろんよろしいですとも。気鋭の諮問魔術師どのに尋問していただけるとは光栄のかぎりです。では、まず発端からお話しますね。
先ほどもお話した通り、ハミルトン教授が亡くなっているのを始めに発見したのは、今そこでこの馬車を御している学寮付の従僕のジャック・スミッソンでした。八月二日の早朝のことです。
ハミルトン教授は独身で、夏季休暇中でも常にスペリオル学寮の教員宿舎に自室にお住まいでした。生活習慣は時計みたいに正確な方でね、日曜日以外は毎朝必ず七時半に大食堂に現れて朝食を召し上がるのに、その朝に限っていらっしゃらないから、副学寮長の――ああいや、今はもう新学寮長になったフィールディング教授が、そこのジャックに命じて様子を見に行かせたのです」
「--ハミルトン教授のお部屋に鍵は?」
「掛かっていませんでした。教授は学寮を我が家と思っているタイプの古風なカトルフォード人種ですからね。就寝時に施錠する習慣はそもそもなかったのですよ。入ったときどういう情況だったかは――おいジャック、お前から話してやってくれ!」
「へい旦那!」と、御者席から若々しい声が答える。「あの朝、わたくしは学寮長さまのお部屋のドアを外から随分ノックしたのですがね、てんでお返事がないもんで、心配になって、憚りながら勝手にドアを開けてお部屋に入ったのです。
そしたら、学寮長さまは夜のガウン姿のまま、長椅子に腰掛けて、こうガクッと頭を垂れるみたいな恰好で、両腕をだらんと下に垂らしておいででしてね、床にゴブレットが転がって、床に何だか赤っぽいものが零れているみたいだったんです。俺はてっきり血だと思っちまってね、学寮長さまがお亡くなりだ―って大きな悲鳴をあげちまったんです」
「でも、それは血ではなかったの?」
「へえお嬢様。ペンドラゴン学寮の総長閣下から贈られた上等の葡萄酒だったんで」と、御者がおぞましそうに言う。
「おいおいジャック、その話は関係ないだろう」と、エイキンが苦笑いしながら口を挟んでくる。「あの酒に全く問題がなかったことはドクター・メレディスのお墨付きだ。ハミルトン教授の死因が毒殺ではなく心臓発作であることもね。ミスター・ディグビー、ミス・エレンも、今の葡萄酒の件はそう真剣に気にしないでくださいね? スペリオルとペンドラゴンが互いを毒殺し合うほど憎しみあった歴史はカトルフォードにはありません」
「梟のライバルはあくまで大ガラスだと?」と、トリスタンが眉をあげて訊ねる。
「当然です。―-ともあれ、そういう流れでジャックはハミルトン教授が亡くなっているのをみつけました。彼が大声で叫んでくれたおかげで、夏季休暇中も宿舎に残っていた教員全員が殆ど同時にハミルトン教授のお部屋に駆けつけることができたのです」
「ミスター・エイキン、あなた自身も含めて?」
「ええ。私も他の同僚たちと一緒に、そのとき初めて教授が亡くなっているのを目にしました」
「ご同僚は他に何人?」
「私を含めて特別研究員が二人と助教授が二人です」
「わりと少ないのですね」
「休暇中ですからね。そのとき真っ先に駆けつけた助教授のミスター・ヒギンズが、私に命じてまず大食堂のフィールディング教授を呼びに行かせました。教授はいらっしゃるとすぐに、またそこのジャックに命じて、休暇中は学寮外に住んでいる学寮付医師のドクター・メレディスを呼びにやりました」
「ドクターがそのとき、ついでにヒルトップのソロー教授にもお知らせするようにとお命じになられたんでさあ!」と、御者席からジャックが言い添える。
「なるほど――」と、エレンはひとまず相槌を打った。
いつのまにか馬車がルディ川に架かる橋を渡り終え、青々とした夏草の茂る牧草地のあいだの路を走っていた。
行く手の丘のふもとに、忍冬の蔓の絡んだ画に描いたように美しい小家屋が並んでいる。ソロー教授夫妻の住まうヒルトップ邸はあの丘の中腹だ。