第九章 嘘つきはどちらだ? 3
――もしかしたら、フィールディング教授がわたくしへの調査依頼を受け入れたのは、諮問魔術師としての能力を買ってくれたからではなく、スタンレー卿との個人的な関係に期待してのことだったのかもしれない。
そう思うと口惜しさに全身が熱くなった。
「どうしたエレン、何をそうふくれっ面をしとる? 何かよっぽどうまくいかんことがあるのか?」と、右肩の火蜥蜴が心配そうに訊ねてくる。十三歳の少女に訊ねたのと何ら変わらない口調だ。
今や初めて出会ったときの二倍の年齢になったエレンは、小さい大事な無窮の伴侶のアイロンみたいに熱い喉を、無意識に魔力をまとわせた指先で軽く撫でた。
「大丈夫よサラ。万事順調――とはいえませんけれど。それはいつものこと!」
指になじんだ焔のように熱い火蜥蜴の微細な鱗を撫でるうちに、心の中に燃え上がりかけていた火のような怒りが少しずつ収まっていった。
――冷静になりなさいエレン・ディグビー。他人からどう思われたっていいじゃない。あなたは諮問魔術師なの。そのことに誇りを持って。
エレンが自分にそう言い聞かせていたとき、外から扉が叩かれて、緊張しきった若い――どうやら若いらしい――男の声が聞こえた。
「ミス・ディグビー、ヒギンズです。入室してよろしいでしょうか?」
「どうぞお入りになって!」
エレンは慌てて立ち上がりながら答えた。
書斎に入ってきたジョージ・ヒギンズは、階下でフィールディング学寮長の背後にいたときよりも背が高く見えた。
喪服みたいな真っ黒な服装。
長い首をぐるぐる巻きにした糊の効きすぎた白いカラー。
痩せて骨ばった面長の顔を手入れの悪そうな灰色の髪がべったりと縁取っている。
「ミスター・ヒギンズ、どうぞお座りになって」
さっきまでフィールディング教授が坐っていた肘掛椅子を示すと、ヒギンズはかっと頬を赤らめながら、
「あ、あなたがお先に」と、蚊の鳴くような声音で促した。
「あら、ありがとうございます」
礼を述べて坐りながら、エレンは心の中の《ジョージ・ヒギンズ》の項目に「念のため要注意」と書きこんだ。
ものすごくオドオドとして女性に馴れないように見えるが、どうしてなかなか、レディ・ファーストの作法は心得ている。
--こういう風に、やたらと女性に馴れないフリをして近づいてくる殿方は社交の場にも一定数いたものね……
この態度がすべて演技だとは思えないが……もしも故意にこの初心そうな――実はものすごく年長者からも全女性からも好感度の高い態度を装っているのだとしたら、もしかしたら腹に一物ある可能性もある。
ヒギンズはそんなエレンの警戒に気付かず、相変わらず薄青の目をキョドキョドとさせて落ち着かなさそうに火蜥蜴を盗み見ていた。
こちらから口を切らないことには何も始まらないようだ。
エレンは諦めて訊ねた。
「ではミスター・ヒギンズ、早速お伺いしますが、八月二日の早朝、あなたの見聞きしたことを話していただけます?」
「ええミス・ディグビー」と、ヒギンズは意外と落ち着いた態度で頷いた。「あの朝、私はいつもより少し寝坊したため、大食堂での朝食にどうにか間に合わせようと急いで身支度を整えていました」
「朝食はいつも大食堂で?」
「ええ。本来七時から九時のあいだならいつでも食事がとれるよう支度がされているのですが、学寮長が――亡くなったハミルトン教授がいつも七時半から朝食を召し上がっていため、温かい料理はみなその時間に合わせて用意されるのです」
「なるほど。そうして?」
「そうして、ちょうど身支度をしていたときに、二階から誰かの叫ぶ声が聞こえたような気がしたため、何事かと思って急いで駆けつけたのです」
「あなたのお部屋は二階ではないのですか?」
「ええ。三階です。そうして急いで降りてみると、ハミルトン教授のお部屋の前に従僕のジャック・スミッソンがいて、私を見るなり『学寮長さまが殺されています!』と叫んだのです。慌てて中へ入ってみますと、教授は居間のソファに座った姿勢でがくりと頭を垂れていて、特別研究員のミスター・エイキンが脈をとっているところでした」
「え?」
エレンは思わず声をあげた。
「……どうしました?」
ヒギンズが不審そうに眉を顰める。
エレンは慌てて表情を取り繕った。「いえね、ミスター・エイキンはソロー教授のお弟子さんみたいなもので、ご専門は魔法技術史でしょう? 専門外の方が、まるでお医者様のような対処だと思って」
「ああ」と、ヒギンズがなぜか面白くなさそうに頷いた。「彼は医者の息子なのですよ。ミスター・エイキンは私を見ると、『亡くなっている』と一言言って、フィールディング教授を呼んでくると言い置いて駆けだしていきました。前後して、特別研究員のミスター・グレハムと、助教授のミスター・バッジワースが駆けつけてきたのです」
ヒギンズは見えない何かを諳んじるように虚空を見あげながら説明した。
おそらく、ヒギンズの脳裏には、過去に見た光景が画のように再現されているのだろう。
魔力が光や音や香りの形で表出される関係で、魔術師たちは五感については極めて鋭敏な感覚と記憶力とを保持している。魔術師たちがこういう表情で何かを思い出す様子は何度も見たことがあるし、エレン自身も大抵そんな風に過去の感覚を思い出している。
この表情は本当だろう――と、エレンは信用することにした。
ハミルトン教授の私室に入った順番は、
従僕ジャック・スミッソン。
特別研究員ヘンリー・エイキン。
助教授ジョージ・ヒギンズ。
特別研究員のグレハム。
助教授のバッジワース。
ヒギンズの証言を信用するなら、そういう順番になる。
「――ありがとうございますミスター・ヒギンズ。いろいろと参考になりました。わたくしはノートをまとめたらすぐ階下へ戻りますので」
「そうですか。ではお先に失礼いたします」
ヒギンズが丁寧な礼を残して書斎を後にする。
ドアが閉まって足音が完全に遠ざかりきるのを待ってから、エレンはうーっと唸った。
「何じゃエレン、年頃の娘がつぶれたウシガエルみたいな声を出しおって」と、礼儀作法に煩い火蜥蜴が間髪入れずに咎める。
「だってサラ、これが唸らずにいられますか!」と、エレンはワインレッドの革表紙のノートをパラパラめくりながら応えた。
「今の説明、完全にミスター・エイキンの言い分と矛盾しているのよ!」
「誰じゃミスター・エイキンは」
呼び出されていないときのことは知らない火蜥蜴が長閑に訊ねる。
エレンはきっと眉を吊り上げた。
「事件関係者その一よ。――八月二日にハミルトン教授のお部屋に駆けつけた順番について、ミスター・エイキンは、『ジャック・スミッソンが叫んだあとで、真っ先にヒギンズ助教授が駆けつけた』と言っているの。でも、当のヒギンズ助教授は、ミスター・エイキンのほうが先に来てハミルトン教授の脈をとっていたと言っている」
「その順番はそんなに重要なのか?」
「分からない。でも、どちらか一方が嘘をついているとなったら、その事実は重要よ。まがりなりにも警視庁任命の諮問魔術師に訊ねられて不必要な嘘をつく理由はないもの。嘘をついていたとしたら何か理由があるはず。そこに手がかりもあるわ」
エレンは獲物を見つけた肉食獣みたいな歓喜と緊張を感じながら応えた。
問題はどちらが嘘をついているか――だ。
エイキンか?
ヒギンズか?
あるいは両方か?