第八章 地道に聞き込み調査を 1
空気精霊が思いがけず素早く帰ってきた翌日、ヒルトップ邸の台所は朝から忙しかった。
邸で唯一の住み込みの家内使用人であるキッチン兼パーラー兼そのほか諸々メイドのドロレスは、早朝から竈に火を熾してスコーン生地を捏ねているし、マチルダはフリル一杯の花柄のエプロン姿で一口サイズの胡瓜のサンドウィッチを拵えている。
エレンはいつもの仕事着の上にマチルダから借りた白いレースのエプロンをかけ、がしがしと渾身の力をこめて、さっき出来上がったばかりのレモンパイの上に乗せるためのクリームのホイップに集中していた。
忙しいのは台所ばかりではない。
玄関ホールの左手のさほど広くない食堂では、ソロー教授とトリスタンが不器用な手つきで、あまり磨きのよくない銀器を二人してせっせと磨いているし、庭先では通いの庭師のジャック爺さんが金魚草をチョキチョキ摘んで大きな花束を拵えている。
「ねえ奥様、今日のお客様は四名なのですよね?」と、清潔な樫板の調理台の上でスコーン生地をザクザク切り分けながらドロレスが嬉しそうに訊ねる。
「ええ、そうよ」と、マチルダが薄切りパンにバターを塗りながら答える。「主賓は新学寮長のフィールディング教授。ヒギンズ助教授とドクター・メレディスと、それからミスター・エイキンよ」
「なんだ、四人目はミスター・エイキンなんですか」と、ドロレスはちょっとがっかりしたように応えたが、すぐに気を取り直して、血色の良い顔をニコニコさせながら、バターを塗った天板に四角く切ったスコーン生地を並べにかかった。「このお邸にこんなに沢山お客様がいらっしゃるのは久しぶりですねえ! エレンお嬢様とミスター・ディグビーが遊びに来てくださったおかげですよ」
嬉しそうに話しながら竈へ向かうメイドの肩越しに、エレンとマチルダは密かな目配せを交わし合った。
今日の御茶会は、名目上は「新婚のミスター・ディグビーの歓迎会《新妻抜き》」だが、実際には、ソロー教授が御膳立てした個別の聞き取り調査のための会だ。
事件関係者のうちで、ソロー教授邸に個人的に招かれてもおかしくないメンバーが、とりあえず呼び集められている。
「おーいマチルダ、食器は終わったよ――! 僕たち次は何をすればいいかな――?」
食堂からソロー教授に呼ばれて、マチルダが慌てて両手をエプロンで拭って台所を出てゆく。「アンディ、お願いだから少しは自分で考えてよ!」
「あの台詞を教授に言えるのはマチルダだけね!」
ようやく完成したホイップクリームを絞り袋に詰めながらエレンは思わず笑った。
「奥様の言う通りですよ、男ってものは全く!」と、ドロレスがぶつぶつ言い、ふと小窓のほうを見やって小首を傾げた。「おや、もうこんな刻限ですか。エレンお嬢様、お手伝いをありがとうございます。あとはわたくしが仕上げますから、お二階でお着換えなさってくださいな。お湯はもう支度してあります。あとでお髪のための鏝を持っていきますからね」
「ありがとうドロレス。それじゃお願いするわ」
料理の仕上げをドロレスにゆだねたエレンは、二階の寝室で手早く身支度にかかった。
今日着るのは、今年の夏服では一番上等のハイウェストのミントグリーンのドレスだ。
サッシュだけは新調で、ドレスより青みの強い緑の透き通ったチュール地に星みたいな銀色のスパンコールが散らしてある。
そのサッシュを胸の前で結んで、弛まないように背中側へ回そうと四苦八苦しているところに、ちょうどドロレスが鏝を持ってきてくれた。
「あらあらお嬢様、それじゃリボンが歪んでしまいますって。ハイ後ろを向いて。ほらこれで綺麗です。お髪を巻き毛にしてあげましょうか?」
「ありがとうドロレス。大丈夫よ。ミセス・ソローのお着換えを手伝ってさしあげて」
鏝を受け取って自分で髪を巻きながら、エレンは笑って答えた。
こんな風に世話を焼かれていると、故郷の邸で暮らしていた十二歳の少女に戻ったような気がしてくる。
――だけどわたくしは十二歳じゃないわ。十二歳の子供は本物の真珠の首飾りなんかつけられないもの!
軽く巻いたストロベリーブロンドをふくらみのあるシニヨンに結い上げ、ミルクみたいに白い首に真珠の首飾りをかけながら、エレンはなんともいえない人生の充足感みたいなものを感じていた。
手ごたえのある仕事をしていることと、人から頼りにされていること――自分が順調に齢を重ねていることが妙に嬉しかった。