第七章 空気精霊の帰還
「……消滅?」
トリスタンが眉根をよせてオウムみたいに繰り返す。
「幻獣って消滅するものなの?」
マチルダも意外そうに言う。「彼らは永遠の存在なのでしょう?」
エレンは聴衆を得た演台の専門家の顔で得々と頷いた。
「永遠―-とは少々違いますわ。ソロー教授のお言葉を借りれば、上位精霊や幻獣たちは、《地上に物質が存在する限りは存在し続ける、物質的には無窮の存在》なのです。けれど彼らに魂はない――われら死すべき存在が所有しているような、死後にも幽霊として残り続けるような非物質的な何かは、彼らは持ち合わせていません」
「じゃ、消滅したらそれっきりなのか?」と、トリスタンが不安にかられた子供のような顔で訊く。エレンは笑って首を横に振った。
「幻獣たちが完全に消え去るときは、地上からすべての物質の息吹が失われるときよ。――さっきわたくしが消滅という言葉で表したのは、地上での顕現が無理やりに解かれて、同じ人間にはもう二度と呼び出せなくなってしまう状態のことを言ったの。使役魔や契約魔が消滅させられる事態は、過去にあった魔術師同士の私闘では珍しくなかったらしいわ。たとえばわたくしのサラだったら――」
と、エレンは眉を歪めた。
サラはエレンと契約している輝かしい小さな火蜥蜴だ。
魔術の修行を始めた十三歳のころから常に一緒にいる伴侶が無理やり消滅させられる事態を思い浮かべるだけで胸が痛くなる。
「サラだったらどうなんだ?」と、そんなに気遣いに溢れているわけではない次兄が、鱒のフライにフォークを突きたてながら無遠慮に促す。
エレンは気を取り直して続けた。
「サラだったら、火の性の存在だから、強制的に消滅させられるとしたら、火蜥蜴を凌駕する力を備えた存在から、火以外の息吹を帯びた攻撃を正面から受けたときでしょうね。一番まずいのは水ね」
「なるほど」と、トリスタンが頷く。「それじゃ、茶色精霊を消滅させられる幻獣っていうのは、どういう種類がいるんだ?」
「茶色精霊は土の性だから、風の攻撃を正面から受けたときが一番危ないはず。風の性の幻獣というと、風乙女や人面鳥、それから有翼馬――」
「空気精霊は?」と、マチルダが尋ねる。
エレンは苦笑した。
「空気精霊は探索向きの存在ですから、敵対者を消滅させるほどの攻撃は単独では難しいと思います。伝説的なあの《風使いパーシヴァル》や、今だったら有翼馬の伴侶たるサー・フレデリック級の風の魔術師が使役するなら別ですけれど」
「サー・フレデリックっていうのは、タメシス魔術師組合の長だよな?」と、トリスタンが機敏に食いつく。「あの準男爵の」
不穏な気配を察したエレンはわざと冷ややかに応えた。
「そうよ。あの準男爵の。念のため、わたくしは彼とは個人的にも親しいほうだけど、それは彼が師匠の甥だからであってね」
「しかしエレン、準男爵だぞ? しかも魔術師なんだろう? お前はこれからの長い生涯を共にする相手にその上何を望むっていうんだ? 顔か? 顔なんか男にはついていりゃいいじゃないか!」
「お言葉ですけれどねお兄様、サーはものすごく美男子よ? 普段着のセンスはちょっとあれだけど――」
ディグビー兄妹が食卓の上に身を乗り出して不毛な言い争いを始めたとき、運河沿いに植わった楊の枝が不意に順々に巻き上がったかと思うと、南から射す陽射しが乱れて、淡金色の光を帯びたつむじ風が上部から吹き降ろしてきた。
「きゃ!」
マチルダが小さな悲鳴をあげ、籐編みの椅子の背もたれにかけてあったラヴェンダー色のジョーゼットの帽子を押さえる。
エレンははっとした。
空気精霊だ。
早くも帰ってきたのだ。
淡く光る風は、マチルダの白いほつれ毛を逆立て、トリスタンの黒髪を横嬲りに靡かせてから、エレンのストロベリーブロンドを巻き上げつつ、耳元の空気を震え慄かせた。
――指輪を見つけた。塔の上。黒い鳥が巣食う……
慄く声が消えるにつれてエレンの髪を巻き上げていた風も衰えてゆく。
最後の髪の一筋が肩に落ちたとき、白いリネンのテーブルクロスの上に、黒い小さな羽がフワリと落ちてきた。
忠実な空気精霊がつむじ風の真ん中に巻き込んできたらしい。
「――ご苦労様。助かったわ」
エレンが囁くのと同時に、耳の傍にまだ微かに残っていた淡金色の微光が滅えた。
空気精霊が消滅したのだ。
エレンは微かな胸の痛みを覚えた。
「エレン、その羽根――」
白い手でほつれ毛を撫でつけながら、マチルダが躊躇いぎみに訊ねてきた。
トリスタンは呆然と目を瞠っている。
エレンは卓上の黒い羽根をつまみ上げながら頷いた。
「大ガラスの羽根です。――わたくしたちの捜し物は、どうやら《モーゴン城館》の上階にあるようですね」