第六章 魔術師の手記 3
ソロー家の軽馬車は二人乗りであるため、不測の事態で三名となってしまった一行は、諦めて馬車を手近の辻馬車屋の車寄せに預けて、カナルストリートまで真昼の散歩としゃれこむことになった。
極度に人目を気にして挙動不審に陥っているトリスタンにとっては幸いなことに、マチルダお勧めの魚料理店まではさして遠くなかった。
三十分後には、三人はもう、先ほどのマチルダの言葉通り、柳の並木の枝をゆすって爽やかな川風の吹き込む屋外のテラス席で、カリカリに揚がったきつね色の鱒のフライと薄緑色に泡立つ林檎酒のグラスを前にしていた。
「――それでエレン、お前は一体なんだってそんな恰好をしているんだ?」
生真面目な牧師のトリスタンが生真面目に食前の祈りを捧げたあとで、男装の妹に眉をしかめ、不機嫌そのものの声で問いただしてくる。
早速ナイフを取り上げてホカホカの鱒のフライにとりかかろうとしていたエレンは、手をとめて簡潔に応えた。
「調査上どうしても必要だったの。――わたくしがここで例の件の調査をしているってことは、学寮の外にはできるだけ秘密にするようお願いされているのだもの! いつも通りの服装じゃあまりにも目立っちゃう」
「今だって十分目立っている!」
「大丈夫よトリスタン、確かに目立っているけれど、今の姿なら《ミス・エレン》にだけは見えないから」と、マチルダが脇からとりなしてくれる。「セルカークのディグビー一族は美男美女揃いで有名だもの。一人くらい、ミス・エレンそっくりのストロベリーブロンドの美少年がいたって誰も怪しまないわ。それよりあなたよトリスタン。エレンに頼まれて出身学寮で調べ物をなさっていたのでしょう? 一体どうして急に訪ねていらしたの?」
「ああ、そうです。そのお話がまだでしたね」と、トリスタンが気を取り直して再びあの得意顔に戻る。
そして、にんまりと笑いながら、今しも鱒のホロホロした白い身をフォークで集めて口に運ぼうとしていた妹を見やって訊ねた。
「なあエレン、兄さんが何を発見してきたと思う?」
「…………」
トリスタンはどうやら可愛い妹を求めているらしい。
エレンは熱々の白身魚を咀嚼して飲み下してから、諦めの心境で、できるだけ可愛く小首を傾げてやった。
「分からないわ兄さん。何を発見したの?」
「実はだな――」と、兄は勿体ぶった。
「お前が言う通り、わがマーストン学寮の古文書室には、内戦期に当時の王室付き魔術師、かの《風使いパーシヴァル》に仕えた秘書官ルーシャス・ルクレティスの手書きの日記が残されていたんだ!」
「あら、そうだったの!」
エレンは精一杯愕いてみせた。
--実のところ、トリスタンに、あるのかどうかさえ分からないルクレティウスの手稿の調査を頼んだのは、マーストンという地味きわまる学寮にただ一人存在する多少は有名な魔術関係者が150年前のルーシャス・ルクレティウスだけだったからに他ならない。要するに、口うるさい付添役の次兄を傍から遠ざけておくための方便に過ぎなかったのだが――得意満面の次兄本人を前にして、まさかそう言うわけにもいかない。
エレンはできるかぎり嬉しそうな笑顔をこしらえて礼を言った。
「ありがとう兄さん! とても大変な調べ物だったでしょうに、まさか本当に見つけてくれるとは思わなかったわ。その日記にはどんなことが書いてあったの?」
「喜べ妹よ」と、兄は嬉しそうに応じた。「1661年9月25日、ミクルマス付の記事に、お前の捜している《スペリオルの茶色精霊》についてしっかり書いてあった。――写してきたから読むといい。原本そのままだ」
トリスタンが愛用の黒い書類鞄からダークグレーの書類挟みをとりだし、一枚の紙片を差し出してくる。
「――ありがとう兄さん。本当に助かるわ」
エレンは一抹の申し訳なさとともに心から礼を言った。
単なる方便で、口から出まかせみたいに頼んだ雑用だったのに、生真面目な兄は半日がかりで本気で調査してくれたらしい。
「いやなに、大したことじゃないさ」
トリスタンが照れくさそうに言い、ナイフを取り上げて、冷めてしまった自分の鱒料理にとりかかった。
マチルダが微笑ましそうに眼を細めて兄妹のやりとりを眺めながら林檎酒を飲んでいる。
エレンは妙に安心しきった気分で、礼儀上いかにも興味深そうに、トリスタンの古風で流麗な筆跡で写されたルクレティウスの日記の一節に目を走らせた。
そして絶句した。
「--ねえトリスタン」
「なんだ?」
「これ、本当に原本そのままなのよね?」
「……綴りに間違いでもあったか?」
「あ、ううん。綴りはいいの。綴りじゃなくて――これ、本当に、1661年9月に、ルーシャス・ルクレティウス本人が書いた日記――なのよね?」
「そこは間違いないと思うぞ?」と、トリスタンが不機嫌に請け合った。「マーストンは文献学が盛んだからな。古文書室にイミテーションが紛れ込んでいるとは思えない」
「そうね。確かにそのとおりね」
エレンは何とかそれだけ応えた。
マチルダが心配そうに眉をよせて訊ねてくる。
「その日記には何が書いてあったの?」
「ルクレティウスが《スペリオルの茶色精霊》の召喚に立ち会ったときの記事ですよ」と、トリスタンが得意そうに答える。
「あら、じゃあ、《スペリオルの茶色精霊》って、召喚されてまだ150年しか経っていないってことなの?」と、マチルダが意外そうに言う。
「いいえ」と、エレンはまだ呆然としたまま首を横に振った。
「《スペリオルの茶色精霊》を始めに召喚したのは13世紀の小アレクシオスです。その点は間違いありません」
「え、じゃ、もしかして――茶色精霊は二体いるってことなのか!?」
「そうだったの? そんなこと、私は全く――」
「――二人とも落ち着いてください」と、エレンは自分自身を落ち着かせるために林檎酒を啜ってから続けた。「茶色精霊というのはある種の土地精霊――土や水の性で、特定の土地に根付いて常にその場所に顕現し、ある程度の範囲を自らの領域とするタイプの幻獣ですから、同一の土地に同時に二体が存在できるとは思えません」
「そうなのか? じゃ、そのルクレティウスの記事が虚偽だって、まさかそう言いたいのか?」
「いいえ、安心してトリスタン。マーストンの魔術師はたぶん嘘はついていないわ」
「じゃ、どういうことなのエレン?」と、マチルダがもどかしそうに訊ねる。「茶色精霊はまちがいなく13世紀に召喚されたんでしょう? それで、17世紀にももう一度召喚されている。だけど、二体同時には存在できない。それってどういうことなの?」
「ですから、そのままの意味ですわ」と、エレンは内心の得意さを隠してわざとそっけなく応えた。
「そのままってどういうことだよ?」と、トリスタンが焦れた子供みたいに訊ねる。
エレンは軽く片眉をあげて応えた。
「考えられる答えは一つだけ。――13世紀から17世紀のあいだに、《スペリオルの茶色精霊》は一回消滅しているんですわ」




