第六章 魔術師の手記 1
「それじゃミスター・ディグビー、昼にまたね」
大図書館の正門の前で軽馬車を停めると、マチルダが面白そうに言い置いて、エレンが降りたあとの御者席へと移った。これから一人で買い物を愉しむつもりらしい。
エレンはー―今は《ミスター・ディグビー》は、昨日ソロー教授が手に入れてくれたスペリオルの学寮長の署名入りの入館許可証を携えてモリソニアン大図書館に入った。
南カトルフォードでは《ディグビー》という家名はそこまで珍しくもない。
ストロベリーブロンドの美貌の娘でさえなければ、「あの有名なタメシスの令嬢諮問魔術師」と露見する心配はないのだ。
受付の図書館員は、吃驚するほど美しい《ミスター・T・ディグビー》の顔を惚れ惚れと眺めてから、愛想よく笑って入館を許可してくれた。
モリソニアンの大閲覧室は円蓋の下の円形のホールだ。
周囲をぐるりと三層の歩廊がとりまいて、三層の書棚がびっしりと並んでいる。
頭上の円い天窓から四筋の淡い金色を帯びた陽光が閲覧席へと射しこんで、ずらりと並んだ黒く艶やかな閲覧机の表面を鏡のように輝かせている。
――ああ、久しぶりだわ……
その広く静謐な智の殿堂の空気に、エレンは一抹の切なさを含んだ愛おしさを覚えた。四年前、この図書館にはソロー教授に連れられてほんの数回だけ来たことがあった。
それぞれの学寮のガウンを羽織った老若の男たち――自らを叡智と理性の徒ともって任じる学徒たちが一心に読書に耽る様に、三年間の夫捜しの賑やかな社交に疲れ果てていた若いエレンの心は焼けつくような憧憬と妬ましさを感じたのだった。
――わたくしはこの世界で生きたいと思った。……この世界でもどの世界でもいい。ドレスと子供と私的な社交と、家の中の金銭のやりくりと、そういうことだけで成り立つ《女の世界》の外で、世の中の大きな仕組みとつながって生きたいと思ったのだわ……
ぼんやりとそんなことを考えながら大閲覧室を見回す。
夏季休暇の最中のことで閲覧机に向かっている学徒の姿は疎らだった。
幸いこちらを注目している者は誰もない。
エレンはすばやく左右を見回してから、書棚のあいだの狭い階段をのぼって最上階の歩廊へと向かった。
三層目の歩廊には東西南北に小さな小部屋が配されて、出窓から眼下を見晴るかすことができる。四年前のエレンのように、《殿方たち》に連れられてきた見学の奥方や御令嬢のために設けられた《展望室》と呼ばれる一種の居間である。
エレンは迷わず北側の《展望室》へと向かった。
幸いそこにも人気はなかった。床に敷かれたクリーム色にくすんだピンクの薔薇模様のカーペットに格子状の出窓の影が落ちている。
エレンはそろそろと出窓へ歩み寄ると、音を立てないよう慎重に窓をあけた。
途端、埃と煤と馬糞の臭いを微かに帯びた街中らしい空気が静謐な室内にどっと流れ込んできた。
エレンはすばやく背後を見回すと、両腕で空気を抱くようにして命じた。
「空気精霊。わが魔力を与える。陽があるあいだだけ顕現しなさい」
途端、エレンの腕の中にぽうっと淡金色の光が生じて、耳元で微風が慄いた。
――お呼びか女主人……
「ええ。探索を命じます。捜すものは銀製の指輪で、地琥珀が嵌めこまれ、土の息吹を色濃く帯びているはずです――」
エレンはそこで言葉を切り、人の形を取り始めた淡金色の光の塊を抱いた姿勢のまま眼下に目をやった。
すぐ右手に高々と聳えているのは《ペンドラゴンの時計塔》だ。
さほど広からぬ市街の向こうにルディ川の水面が煌めき、橋の手前にスペリオルとモーゴン、二学寮の真四角の敷地が見える。
――学寮内をすべて細かく探索するとなると、日中に一か所が限度でしょうね……
今腕の中で光っている淡金色の色合いは、光の形で表出した場合のエレンの魔力の特色である。
その色合いは晩夏の陽光ときわめてよく似ている。
幸い今日は風の強い日で、青空を雲が流れるたびに、ごく淡い金色を帯びた本物の晩夏の陽光が射しこんでは消えてゆくのだった。
こういう天気の日であれば、光の形でエレンの魔力を与えられた空気精霊が日中に室内をよぎったところで怪しむ者は滅多にいないはずだ。
――もしばれたとしたら……そのときはそのときよ!
エレンはエレンらしい思い切りの良さを発揮して腹を決めると、腕のなかで次第に輝きを増していくシャンパンゴールドの光の塊に向かって囁くように命じた。
「まずはあの右手の壁の内を。大ガラスの巣食う塔のある壁のうちをくまなく捜しなさい。できるかぎり陽光のなかを飛ぶように」
スペリオルの敵対者は定石からいったら当然モーゴンだ。
定石通りの一手を命じるなり、
――承った……
耳元でまた微風が慄いたかと思うと、エレンの腕のなかから淡い光の塊が滑り出し、外の陽光と交じり合いながらモーゴン学寮の方角へまっすぐに飛んでいった。
一仕事終えたエレンはほっと溜息をつくと、とりあえず窓を閉め、《スペリオルの茶色精霊》関係の書籍を漁りにかかった。
これはこれで本当に必要な調査なのだ。