第五章 大学街のプリンス二世 3
さて、ヒルトップ邸の奥方と軽馬車に同乗しているストロベリーブロンドの王子様はむろんミスター・ディグビーではなかった。
馬車が牧草地を抜けて橋の上へと差し掛かったところで、マチルダが面白そうに声を立てて笑う。
「ねえエレン、あなたの変装、たぶん別の意味で目立ち過ぎよ? 魔術で目晦ましをかけるわけにはいかないの?」
「そうしたいのはやまやまなのですけれど」と、ミスターではなくミス・ディグビーは白手袋を嵌めた手で器用に手綱を操りながら苦笑した。「わたくしの魔力の特色は月桂樹の匂いと似ていますからね。万が一にも露見すると厄介です」
「用心深いこと! アンディの言う通り、あなた本当に立派な諮問魔術師どのになっちゃったのねえ。あの可愛い世間知らずのミス・エレンが本当によくやったわ」
マチルダが明るい青い目を細めて、愛しげに、どことなく寂しげに微笑しながらエレンを見やった。エレンは胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。
橋を渡れば、目の前に《梟と大ガラス》が並んでいる。
辻の左手が《オーディンの大ガラス》を紋章とするモーゴン学寮。
右手が《アテネの梟》を紋章とするスペリオル学寮。
自他ともに認める犬猿の仲である二学寮の外観は双子のように似ている。
中庭を挟んだ左右に寄宿舎と教員宿舎がそれぞれ並び、正面には礼拝堂と大食堂。後庭を挟んで長細い教室棟が配されている。
異なるのはモーゴン学寮のほうにだけ、礼拝堂の三角屋根の左手に、それよりわずかに高い円塔の頂が突き出している点だ。
冠さながら頂にぎさぎさの胸壁を載せて、その下にずらっと銃眼を並べた円塔は、《モーゴン城館》の綽名で呼ばれている。
《城館》は、この学寮に代々多額の寄付を続けている数家系の爵位貴族の子弟たちの専用宿舎なのだ。
――そういえばスタンレー卿も、在学中はあの《城館》で暮らしていたのかしら……?
エレンがふとそんなことを思って視線を上向けたとき、
「コーダー伯爵家の貴公子・二世も、勿論あの《カラスの巣》の住人よ? 当然そのお兄様もね!」
と、マチルダが悪戯っぽい声音で話しかけてきた。
何かにつけてモーゴン学寮を敵対視するスペリオルの関係者は《モーゴン城館》を《カラスの巣》と呼ぶことがある――実際その円塔の胸壁のあいだには、モーゴンでは大事に保護されている大ガラスたちが常に巣をかけている。
「それはそうでしょうね。コーダー伯爵家のご兄弟ですもの」
エレンが手綱を繰りながらできるだけそっけなく応じると、マチルダがなだらかな眉をよせ、若い娘を案じる優しい年長者らしい表情を浮かべて訊ねてきた。
「ねえエレン、あなた実際どうなの?」
「どうとは、何がです?」
「だから勿論、スタンレー卿との関係よ。――セルカークのディグビー家の令嬢だったら、コーダー伯爵家との縁組が全く不可能ってほどではないはずよ?」
「御冗談をマチルダ!」と、エレンは努めて朗らかに若い飛ばした。「何度も申し上げている通り、スタンレー卿は単なる依頼人ですわ。それ以上でもそれ以下でもありません」
「じゃ、あなたはちっとも彼に恋はしていないの?」
「していませんとも」
エレンはできるだけ気楽な口調で応えた。「わたくしの生涯に恋は必要ありませんわ。諮問魔術師として、こうして自らの足で歩いていけるのですから」
「その点は本当に立派だと思うわ」と、マチルダが目を細めた。「でもねエレン、あなたが一人で歩けることと、だれかと一緒に歩きたいと願うことは、また別の問題よ?」
マチルダの声音は優しく物柔らかだった。
エレンはその声に苛立ちを感じた。
そうするうちに、いつのまにか、目指すモリソニアン大図書館の丸屋根がすぐ目の前に迫ってきていた。