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第五章 大学街のプリンス二世 2

 ヒルトップ邸が所有する唯一の車は一頭立ての軽馬車(ギグ)だ。

 この馬車は御者席を含めて二人乗りだから、エレンとマチルダとトリスタンが同時に出かけることは不可能だった。


「それならまずミスター・ディグビーと私が一緒に出掛けるよ」と、朝食の席でソロー教授が申し出てくれた。「学寮(カレッジ)にもちょっと顔を出したいしね。帰りは私が御してきて、そのあとでマチルダ、あなたとミス・エレンが出かければいい」

「ああ、それはいいですね!」と、その場の最高権力者の言うことにはつねに追随するトリスタンが満面の笑顔で頷く。「僕は帰りには適当な馬車を見つけますよ」

 朝食のあとで、トリスタンはソロー教授と連れ立って得意満面で邸を出て行った。

 軽馬車(ギグ)は石段を下った先にあるソロー家所有のごく小さな菜園の傍の車庫にあるのだ。



 夫と客人が出立するのを見送ったあとで、マチルダが興味深そうに訊ねてくる。

「それでエレン、あなた、どういう思惑でお兄様を追っ払いたいの? まさか、カトルフォードの貴公子(プリンス)・二世と密かな逢引きでもするつもりじゃないでしょうね?」

「何です? その貴公子・二世って」

「あら知らないの? モーゴン学寮に在籍している爵位貴族の次男坊よ」と、マチルダが言葉を切り、何となく人の悪い笑顔を浮かべてエレンを見あげてくる。「要するにアーノルド・キャルスメイン」


「え?」エレンは瞠目した。「キャルスメインって、つまりコーダー伯爵家の?」


「ええその通りよ」と、マチルダが満足そうに頷く。「八年前まで在籍していたお兄様のスタンレー卿の綽名が《カトルフォードの貴公子(プリンス)》だったの。だからお気の毒なミスター・キャルスメインは《貴公子・二世》。―-一世のほうのお名前は、あなたよく知っているんじゃない?」

 マチルダが明るい青い目をキラキラと輝かせて訊ねてくる。

 カメオの浮彫めいた繊細な貌に浮かんでいるのは溢れんばかりの好奇心だ。

 エレンは内心でげんなりした。

「――スタンレー卿のお名前は、勿論よく存じています。卿のお母さまのレディ・アメリアから三月に仕事の依頼を受けましたからね」

「それで彼と一緒に事件を解決したのでしょう? あのモーゴン学寮のボート倶楽部のキャプテンだった最高にハンサムな貴公子(プリンス)と! ねえエレン、私たちお友達でしょ? どうかなんでも正直に打ち明けて頂戴」

 マチルダが再び言葉を切り、やたら真剣な顔つきでエレンの両手を握りしめながら訊ねてきた。


「卿とはどういう関係なの?」


「――単なる依頼人です」

 エレンはあらんかぎりの忍耐力を全身からかき集めて応えた。「トリスタンを追い払ったのは、だれと逢引きするためでもなく、彼がいたらこれから着る服装に猛反対されることが目に見えていたからですわ」

「あら」と、猫みたいに気の変わりやすいマチルダが興味深そうに小首を傾げる。「そんなに派手な格好なの?」

「派手――ではないですわね」と、エレンは勿体ぶって応えた。「ごく目立たない服装ではあります。大図書館では一番目立たない服装かもしれません」




 一時間後――


 丘裾の小家屋(コテージ)の庭先で鶏の卵を集めていた十七歳のメアリーは、ヒルトップ邸所有の軽馬車がカラカラと軽快な車輪の音を立てて大橋へと向かっていくのを目にした。


 乗っているのは綺麗なラヴェンダー色のジョーゼットの帽子を被ったミセス・ソローと、思わずハッと息を飲むほどハンサムな見慣れない若者だった。

 白いカラーと白いクラバット。襞の多い白いシャツに灰色のウェストコートを重ねて、手綱を取る手には白い手袋まで嵌めている。



 ――うわあ、王子様(プリンス)みたい……


 

 少女がうっとり見送るうちに馬車はたちまち牧草地のあいだを抜けて遠ざかっていってしまった。

 そこに隣家であるドクター・メレディス邸のメイドが柘植の生垣越しに心配そうに声をかけてくる。


「メアリーお嬢さん、どうしました? ずいぶんぼんやりしちまって、どこかお具合でも?」 


「あ、いえ、何でもないのよ」と、少女は慌てて応じてから、ぐっと息を飲み、意を決したように小声で訊ねた。「――あのね、今さっきヒルトップ邸の奥様が軽馬車で川向うへ行かれたようなのだけれどね」

「ふんふん」

「そのね、御者席に乗っていらっしゃる若い方が、全然知らない方だったのよ。すごく、すごーくハンサムな、王子様みたいな若い方だったんだけど!」

 恥じらいを忘れたメアリーが拳を握りしめて力説すると、年配のメイドは気の毒そうに首を傾げて応えた。

「ああ、そりゃきっとミスター・ディグビーですよ。四年前までヒルトップ邸に住み込んでいらした付添女性(コンパニオン)? なのかな? とにかくあのお邸にいらしたミス・エレン・ディグビーっていう大層きれいなお嬢様がいましてね。そのお兄様です」

「あらそうなの」と、三年前にこの小家屋に引っ越してきたメアリーは期待を込めて訊ねた。「ミスター・ディグビーは何をしている方?」

「牧師さんだって聞きましたよ。妹さんも連れて、ヒルトップの教授にご結婚の報告にいらしたって話です」

「ああそう」

 メアリーは一気に興味を失った。


 たとえどんなに美青年でも――輝くばかりのストロベリーブロンドをふさふさと垂らした夢の王子様みたいな牧師様でも――既婚者に用はない。

 花の命は短いのだ。若さが最も価値をもつあいだに最も高い獲物を吊り上げなければ。

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