第五章 大学街のプリンス二世 1
探索に出した空気精霊は日暮れと同時に戻ってきた。
エレンにとっては幸いなことに、丘とルディ川のあいだの建物からは――今いるヒルトップ邸も含めて――どこからも、〈茶色精霊の契約指輪〉は発見されなかった。
直後に呼ばれた夕食の席で、エレンは厳格な付添人である次兄のトリスタンに、「明日は別行動をしたい」と申し出た。
次兄の反応は予想通りだった。
くっきりとした眉根をこれでもかとばかり寄せ、濃い睫に縁取られた灰色の眸で剣呑に睨みつけてくる。エレンはひょいと片眉をあげて訊ねた。
「やっぱり反対する?」
「――当たり前だろう!」と、間髪入れずに怒鳴り返してくる。「嫁入り前の若い娘を独りで大図書館に? 冗談じゃない! そんな噂が世間に知れたらセルカークのディグビー家の常識が疑われる! 叔母にそんな放埓を許す家系だなんて醜聞が広がったらいずれ生まれる僕の娘の婚姻にだって差し支えるはずだ!」
「あなた、生まれるのは娘だって今から決めつけているの?」と、妹は呆れて肩を竦めた。「安心してよトリスタン。わたくしはもう歩いているだけで殿方から秋波を向けられる若い娘ってほどでもないから。あなたの言う通りそろそろ嫁き遅れよ?」
「--そういう卑下はやめろ! ちょっとばかり齢は重ねていようとお前はまだまだきれいだ。と・も・か・く! 僕は断じて反対だ。わざわざ教区を副牧師に任せて付添としてやってきたのに、妹を独りでモリソニアン大図書館になんか行かせられるものか。あそこには独身の若い男しかいないんだぞ?」
「いやいやミスター・ディグビー、大図書館には独身の若くない男も沢山いるよ?」と、暖炉を背にした上座の椅子で静かに鶏肉を切り分けていたソロー教授が面白そうに口を挟む。
「あなたね、それじゃ何の安心材料にもなりませんわ」と、マチルダが呆れ声で応じる。「エレン、そもそもどうしてあなた、一人で図書館に行きたいの?」
水を向けられたエレンはここぞとばかりに答えた。
「一人で行きたいわけじゃありませんわ。時間も限られていることですから、調査は手分けして進めたいというだけで」
「ほう」と、ソロー教授が興味深そうに応じる。「すると、ミスター・ディグビーに付添以外の仕事を頼みたいと?」
「僕に?」と、トリスタンが意外そうに応じる。「そうだったのかエレン?」
「そうなのよ兄さん」と、エレンはここぞとばかりに可愛い妹ぶった。「どうしてもあなたに助けてもらいたいことがあるの」
「そういうことなら早くそう言いなさい」と、トリスタンがとても嬉しそうに応える。「兄さんに何をして欲しいんだい?」
「実はね――」と、エレンは小首を傾げた。「マーストン学寮内の書庫で、かの有名な魔術師ルクレティウスについて調べて貰いたいの」
かの有名な、という部分を強調して告げると、トリスタンは無言で目を逸らした。
「ほほう」と、代わりのように上座からソロー教授が口を挟む。「ルクレティウスというと、内戦期のあのルーシャス・ルクレティウスかね? 〈風使いパーシヴァル〉の秘書官を務めていた?」
「そ、そうですよね勿論!」と、トリスタンが縋りつくように叫ぶ。「そうなんだろエレン、その、ああ――ルーカス?・ルクレティウスについて調べて欲しいんだな?」
「そういえばルクレティウスはマーストン学寮の出身だったね」と、ソロー教授が専門の話題の始まった専門家らしい、ミルクの皿を前にした老猫みたいなご機嫌さで相槌をうつ。エレンはほくほく顔で頷いた。
「そうなんですの! ですから、そういう人物の個人的な手記なんかは、モリソニアンではなく案外出身学寮に残されているかもしれませんでしょ? あの有名なマーストン出身の魔術師が〈スペリオルの茶色精霊〉について何か書き残していたかいなかったか、それを何とか調べて貰いたいの。すごく面倒で難しい調査になるとは思うんだけど――」
エレンが顔を伏せて心許なそうに呟くと、トリスタンは兄さんらしい鷹揚な笑顔を浮かべて頷いた。
「分かった分かった、そういう事情なら仕方がない。僕がどうにかやってみるよ。しかし、そうするとお前がモリソニアンに行くのは別の日にしたほうが――」
「あら、それなら大丈夫よ」と、今まで静かに成り行きを見守っていたマチルダが助け船を出してくれる。「付添婦人は私が引き受けるわ。ちょうど街に出てお買い物もしたかったし。ね、トリスタン、それでどうかしら?」
「あなたがお引き受けくださるなら、もちろん何の不足もありませんとも!」と、トリスタンが慌てて応じる。マチルダは老いてなお愛らしい顔に花のような笑いを浮かべ、悪戯っぽい目つきでちらっとエレンを見た。
エレンは無言で目配せをして内心の感謝を伝えた。