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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ハカセ印のかゆみ止め

作者: 伊湖美樹

「これが今回の分のかゆみ止めだ。用法をきちんと守って使ってくれたまえ」

 私は、紙幣の束と交換でハカセから手渡しされたかゆみ止めの薬を手渡しで受け取る。

 ラベルも貼られていない軟膏のボトルを、直ぐにカバンにしまい込んだ。



 ハカセと皆が呼ぶ彼は医者ではないし、薬剤師でもない。

 きちんと役所の許可を得て開業しているわけではない、という意味では。


 ハカセは新薬の研究者である、と自らは名乗っている。そして『臨床試験』と称して、かゆみ止めの薬を売っている。

 それが本当にちゃんとした臨床試験だとはとうてい思えないのだが、指摘するものはいない。ハカセが作るかゆみ止めの薬は、市販あるいは処方箋で手に入る一般の薬よりもはるかに良く効くと評判であったからだ。


 なにかのトラブルでハカセが薬を販売できなくなるようなことがあれば、自分が二度と薬が手に入らなくなることはもちろん、同じハカセ印の薬を使っていた人間からも強い恨みを買うことになるからだ。

 小さい町の閉じられたサークルの中での怨恨は、村八分という形で恐ろしい効果を発揮することを利用者の皆が知っていた。

 そんなわけだから、このかゆみ止めの薬に関しては、誰も文句を言うことはなかった。


 ハカセのかゆみ止めが本当に新薬として承認されれば、誰はばかることなく堂々と薬を買うことが出来るし、健康保険も利くのに。などと思いながらも、私はハカセ印の薬を常用していた。



 私は長い間、体中のかゆみに悩まされ続けていた。市販されている薬を全て試し、皮膚科をはしごしても、このかゆみが治まることがなかった。

 耐えがたいかゆみに悩まされ続ける中、口コミから知った『ハカセ印のかゆみ止め』により、私はようやくかゆみのない生活に戻ることが出来た。


 今ではハカセの薬なしでは生きていけない。


 ◇


 そんなある日。

 私は自動車を走らせて、ハカセの家に急いでいた。


 予定していなかった連勤が続いたせいで、ハカセ印のかゆみ止めが尽きてしまったのだ。仕方なく市販薬を塗りたくってきたが、一回でチューブ一つを使い果たしたにも関わらずかゆみは治まらない。

 とうとう堪えきれず、私は勤務時間の隙間、本来は睡眠時間に充てるべき時間に薬を買いに出たのである。


 体中を絶え間なくむしばむかゆみと、連勤の疲労、睡眠不足も重なって、集中力が無くなっていたのだろう。私は注意も減速もせずに交差点に入り、



 ——横の道路からバイクが急に飛び出してきた!


 私はとっさにブレーキを踏み込んだ。

 耳をつんざくブレーキ音。

 タイヤをアスファルトの道路に削りつつ、私の車はどうにか止まることができた。


 ——だがしかし、ニアミスしたバイクのほうは、ハンドルを切り損なって電柱に全身を強く打って、道路上にピクリとも動かずに横たわっていた。

 彼の首は、曲がってはいけない方向に曲がっていた。



 私は恐怖に顔から血が引いていくのを感じていた。

 間接的にとはいえ死亡事故に関わってしまったことに、私は恐怖した。

 せめてもの救いは、交差点で一時停止を無視してきたのはバイクのほうであったことか。


 私は通報するよりも先に、バイクの人物の状況を確認することにした。そして私は思わぬ事態に驚愕した。




 彼は、やはり絶命していた。


 しかしそれよりも不味いことは、彼が、ハカセ——今まさに私が薬を買いに行こうとしていた人物だったからである。




 そこでまず私を恐怖させたのは、『私がハカセの死亡事故にかかわった』と町の人に知られた場合のことである。


 ハカセがこうなってしまった以上、彼の作る薬は二度と手に入らない。


 私自身もそうだが、彼の薬を使っていた多くの人たちも、ハカセの死に関わっていた私を非常に強く恨むことになろうだろう。交通法規上で悪いのはハカセのほうだと言っても、彼らの感情は私を絶対に許さないと確信できた。私自身が同じ立場でもそうする。

 狭い町である。私を恨む人々は私を責め、暴言を吐き、彼らの周りにいる人たちにも私の罪を訴え続けるだろう。

 そうなれば、私はもうこの町に住んではいられなくなる。


 想像すると、体中に非常に強いかゆみが襲ってきた。かゆい。かゆくて頭がおかしくなりそうだった。



 私は思考を巡らせた。罪の意識にかゆみ、疲労、睡眠不足などが重なって回らぬ頭で至った結論は——ハカセをこのままにして、この場を立ち去ること。つまり逃避だった。

 ハカセはバイクの操作を誤って単独事故で死んだ、そう結論してくれることを神に願い、私は車でその場を後にした。


 ◇


 次の日。私は、自宅のベッドでずっと横になっていた。


 ハカセが死んだあの事故から職場に戻ると、どうも同僚達が私を見る目がおかしい。鏡を見せられると、確かに私の顔は見るからに不健康な土気色に沈んでいた。なんやかんやの末、私は体調不良という理由で早退させられ、翌日も休んでよいことになった。


 だが、こうして横になっていてもまるで休めていない。というか昨夜から一睡もできていない。


 ハカセの事故を放置して逃げたことがいつばれるのか不安になっているから、というのも多少はあるだろう。だがそれ以上に、体がかゆいのだ、かゆくてかゆくて、とても眠ることなんてできない。


 かゆい。かゆすぎる。かゆくて頭がおかしくなりそうだ。薬。薬が欲しい。ハカセ印のかゆみ止め、あれが無ければ、私は生きていけない。


 かゆみの果てに、私は不意に思い出す。ハカセはあの薬をいつも、自宅の冷蔵庫の奥に隠していたことを。

 それにハカセは窓を開けっぱなしにする癖があり、外出時でも閉め忘れることが度々あった。

 ハカセは一人暮らしで、今は家に誰もいないはずだ。


 今なら、ハカセの家から薬を盗み出すこともできるかもしれない。


 我に返ると、私は車に乗り、ハカセの家への道を急いでいた。罪の意識は驚くほどなかった。ただ、私と同じようなことを考えている者が他にいないかが不安で、睡眠不足とかゆみでぐちゃくちゃした思考のままに、先を急いだ。

 そして、サイレンの音に気づいたときに、ようやく、私はパトカーに追われていることに気づいた。


 ——事故のことがばれたのか?


 と、脳が判断を下すよりも先に、私は動転のあまりアクセルを踏み込んでしまい——カーブを曲がり損ねて、車は電柱に衝突し、私の意識はそれで消えた。


 ◇


「それでは先生、私のかゆみは、皮膚の問題ではなかったというのですか」


 私は病院のベッドの上で、先生——ちゃんとした大きな病院の医者に問い返した。


「その通りです。あなたが感じていたかゆみの原因はストレスによるものです。なので通常の薬ではあまり効果がありません。ステロイド系の塗り薬などならある程度の効果はありますが、やはり一番の対処はストレスをなくすことです」


 医者の言葉に、納得できる自分がいた。仕事のストレス、狭い町での近所づきあいなど、ストレスには事欠かない生活が続いていた自覚はあった。


「ですが、ハカセが処方してくれた薬は、すごく効きましたよ」


「ええ、そのようですね。というかハカセとあなた方が呼ぶ人物が製造していたあの薬を特に愛用していたのは、あなたと同じようにストレス性のかゆみを持つ方々だったのですが」


 同席していた警察官が答える。


「『ハカセ印のかゆみ止め』と呼ばれるあの薬には、麻薬の成分が含まれていたのですよ」


「はぁ? ——麻薬、ですか」

 思わぬ事に、私はオウム返ししてしまった。


「ええ。麻薬の効果によりストレスが緩和され、かゆみがおさまっていたということです」


 確かに思い起こせば、仕事の制で受けていたストレスも、かゆみ止めが聞いている間は幾分か和らいでいたという実感がある。

 それに、かゆみ止めが切れたときに、無性に薬が欲しくなることがあったが、あれもひょっとすれば麻薬の中毒症状だったのかもしれない。


 警察官はそれから私の知らなかった背景を説明してくれた。ハカセと呼ばれていた人物が実は暴力団の紐付きの医者であったこと、ハカセが薬を作るのに使っていた麻薬などはその暴力団から提供されていたものだということ。


 そしてあの交通事故があった日、実はあのときハカセの家は警察による家宅捜索が行われており、ハカセは逮捕を恐れて逃げているところであったということ。


 そのことを聞いて、私は自らの過ちに絶望した。


 ハカセが隠していた薬など、とうに警察が押収している。薬を盗みだそうとしても無駄だったのだ。

 いやそれ以前に、ハカセが警官に追われるようになった時点で、彼はもう薬を作ることなどできなくなっていた。私の起こした事故など関係なしに。

 ハカセが事故死したときに、おとなしく通報していれば、それで終わっていただけの事なのに。いったい私はどうして、こんな選択をしてしまったのか!



 警察官からの取り調べに、私は全てを話した。

 ハカセのバイク事故にニアミスしたことについても白状した。警察でもブレーキ痕から単独事故でないことに薄々気づいていたようで、私は警察官から叱責を受けることになった。

 そして事情聴衆を追えた警察官と医者が立ち去りそうになるのを、私は慌てて呼び止めた。


「それで、私の体のかゆみは、いつ収まるのでしょうか」


 二人は、互いの顔を見合わせた。医者が私の元に戻ってきて言う。


「先ほども説明したはずですが。残念ながら、あなたの体はあなたが起こした事故のために脊椎の神経が損傷しており、もう首から下は何も感じなくなっているのですよ」


「ですが先生、かゆいんですよ、体中が。先ほどからもかゆくてかゆくて、手が動かないから掻くこともできなくて、もう死ぬほど苦しいんです。先生、お願いです、どうかハカセ印のかゆみ止めを私の体中に塗ってください」


「残念ながらそれはできません。麻薬を使ったあの薬を使うことができないのはもちろんですが、例えあの薬を塗ったとしてもあなたのかゆみは収まることはないでしょう。あなたの感じているそれは、ファントムペイン、あるいは幻痛と呼ばれるものの一種で、存在しないはずのかゆみなのです。実際にかゆくなっている訳ではないので薬を塗っても効果はありません」


 精神的なストレスが主な原因なのでストレスが消えればかゆみも治まるはず、と医者は心なし小さな声でぼやいた。……こんなざまの私に心が晴れる日が来ることなど二度とないだろうと、医者はその態度で雄弁に伝えていた。

 今度こそ医者と警察官は病室を出て行ったあと、私はベッドの上に一人取り残された。



 かゆい。かゆすぎる。だが、体が動かず何もできない。いっそ死んでしまえれば楽になれるのに、自分を殺すことすらできない。

 私はただ、かゆさにむしばまれながらベッドの上で一生を終えるしかないようだ。

 私は、かゆみを止めるためならば、なんでもするだろう。

 だが、私にとっての救いは、もはや訪れない。


 私はこれからずっと、かゆみを感じ続けることになるのだ……。

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