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「……え?」
驚きの声を上げたのはエミカだった。戸惑いの表情で野田を見つめる。
「どうするつもりなの……?」
エミカの言葉は震えていた。野田は呆れたような顔をエミカに向けた。
エミカはそこでやっと気付いた。裏切り者を引き渡すことがどういう意味なのか。
エミカは縋るような眼差しで、レイとコウを見る。二人の名前を小声で呼ぶが、二人はエミカを軽く一瞥しただけで何も答えなかった。
野田は組員の一人から小型の拳銃を受け取った。エミカの二人の名前を呼ぶ声が大きくなる。だが、二人は何も答えなかった。これから起きる出来事を静かに見届けるかのように。
野田が銃口をクリスに向けた。エミカは思わずクリスの元に駆け寄ろうとするが、コウに腕を取られ、その動きを止められる。エミカは振り向きざまにコウの顔を引っ叩いた。そしてすぐに殴ったことを後悔した。コウがとても辛そうな顔をしていることに気付いたからだ。
「……最後の言葉を聞いてやろう」
野田がクリスを見下ろし静かに言い放つ。クリスはゆっくりと顔を上げ、初めて野田の顔をまっすぐ見た。
「――野田さん。お願いがあります。どうか、彼女の見えないところで」
クリスの声は冷静だった。野田はチラリとエミカを見て、そして小さく頷いた。
「……いいだろう。立て」
野田が銃で促す。クリスはゆっくりと立ち上がった。
「……コウ、仕事は終わりだ。帰るぞ」
ようやくレイが口を開いた。コウは小さく頷きながらエミカの方を見る。エミカは顔を伏せたままボロボロと大粒の涙を流していた。コウは苦い顔で遠ざかっていくクリスの背中に視線を向ける。
「コウ」
コウの頭に一瞬浮かんだ考えを読み取ったのか、レイが低い声で言った。
「余計なことをしてみろ。俺がお前を殺すぞ」
レイの瞳は殺意に満ちていた。レイがただの脅しやはったりの手段として殺すという言葉を使わないということを、コウは良く知っていた。
「……あぁ、分かっているさ」
コウはクリスから視線を外し、エミカの手を引きながら歩き始めた。エミカは歯を食いしばって泣いていた。コウはまともにエミカの顔を見る事が出来ず、顔を背ける。
「エミカ!」
その時、突然誰かがエミカの名を呼んだ。エミカははっとした表情で振り返る。その視線の先にはクリスがいた。振り返ってこちらに顔を向けている。
「エミカ! 君には感謝しているよ! 君の言葉は口先だけのものなんかじゃない! 僕の自殺を止めてくれた時の言葉――僕に命を大事にしろと言った時の言葉――ちゃんと僕の心の中に残っている! ほんの短い間だけだったけど、君と話せて本当に……本当に良かった! 君と会えて良かった!」
そう言ってクリスはにっこりと笑った。それは年相応の穏やかな笑みだった。
「私も――」
エミカは涙声で――それでも精一杯声を張り上げて言った。
「私もクリスに会えて良かったよ!」
クリスとエミカは互いに目一杯の笑顔を向けあった。クリスはエミカに背中を向け歩いていく。クリスの姿はどんどん遠ざかっていく。エミカは自分が泣いているのか笑っているのか、もう分からなくなっていた。それでもクリスの姿を目に焼き付けておきたくて、その姿を見つめ続けた。
やがてクリスの姿は建物の裏に隠れ、見えなくなってしまった。
「絶対に……絶対に忘れないよ……」
エミカがそっと呟く。
そして今生の別れを告げる乾いた銃声が鳴り響いた。




