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「…………」
クリスは通話の切れたスマートフォンを茫然と眺める。そして無言のまま、それをエミカに返した。
車内に重い沈黙が続く。やがて車が静かに停止し、運転席からホセが顔を覗かせる。
「着いたぞ、クリス」
ホセの言葉にクリスは無言で頷く。傍らに置いてあったアタッシュケースを手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
「君もここで降りるんだ」
バックドアを開けながらクリスが振り返る。エミカは怯えた表情で頷きながら、車を降りた。
その場所は海沿いにある大きな倉庫だった。潮の香がエミカの鼻腔をくすぐる。倉庫に明かりはついておらず、日が沈みかけていることもあり、辺りはかなり薄暗かった。
クリスがバックドアを閉めると車は二人を置いて走り出した。
「ついてきて」
クリスが歩き始める。エミカもその後をついていく。
コンクリートで舗装された砂浜の先には大量のテトラポッドが敷き詰められ、その奥で波が穏やかに揺れている。向かいには大量のコンテナが並ぶ港が見える。
クリスは波打ち際のコンクリートブロックに座り込んだ。エミカも黙ってその隣に座る。
「さっきはゴメンね。怖がらせるようなこと言って」
クリスはエミカの方に顔を向けた。柔らかな表情で微笑んでいる。
「君を殺す気はないよ。マリアの友達にひどいことはしない」
クリスはそう言ってアタッシュケースを地面に置いてゆっくりと開く。ケースの中にはトランシーバーと、いくつもの小さいレバースイッチが付いた機械が納められていた。クリスがそのうちの一つを押し上げると、隅に付けられたランプが緑色に光った。
「そういえばさっき言いそびれたね。マリアがドラッグを始めた理由」
クリスが両足を広げて、海に視線を投げる。エミカはそんなクリスを見つめながら頷いた。
「マリアの父親がギャングのボスって知ってた?」
突然のクリスの言葉。エミカは一瞬間をおいて、小さく驚きの声を上げる。
「えっ、そうだったの? そんなこと一言も――」
「実はマリア自身にも知らされていなかったんだ」
クリスはすっと目を細めながら言葉を続ける。
「それがある日、どんなきっかけかは知らないけど、知ってしまったんだ。それで自分が犯罪者の娘だってことにすごくショックを受けたみたいで――学校をさぼってふらふらと街をうろついていたらしいんだ。そして売人に目を付けられ、ハーブに手を出してしまった」
「あなたは知ってたの?」
「あぁ。マリアから話してくれたよ。多分僕に裏社会の人間の匂いを感じたんだろうね。だから気軽に話してくれた。君に知られて嫌われたくないって話もね」
クリスがエミカを見つめる。
「そんな……私、そんなことでマリアを嫌ったりなんて……。もしかして私、知らないうちにマリアを追い詰めてたの?」
エミカは悲しそうな表情で自分の膝に視線を落とす。クリスは、違うよ、と小さく呟きながら首を振った。
「最終的に彼女を追い詰めてしまったのは僕だ」
クリスの言葉に、エミカは驚いた表情でクリスを見る。
「何度目かに会った時に、僕は彼女に言ったんだ。もう真愛会には来ないでくれって」
「え……どうして……?」
エミカの問いにクリスは暗い表情で口を開いた。
「この作戦の為だよ。真愛会に巣食う悪魔共を皆殺しにする計画。おそらく作戦の途中で奴らは何かしらのアクションを起こすと踏んでいたんだ。だから彼女には真愛会から遠ざかっていてほしかったんだ。僕らが親しい関係だというのは羽山さんも知っていたから」
クリスは顔を伏せる。その眼には涙が溢れていた。
「それから彼女は真愛会に来ることはなくなった。でも僕は、直前で踏みとどまっていた彼女の心をズタズタにしてしまったんだ。次に彼女の姿を見た時は、もう路上で冷たくなっていた」
クリスは嗚咽を漏らして泣いた。涙を流しながら力無く首を傾け、エミカを見つめる。
「本当は僕に泣く資格なんて無い。マリアを最終的に地獄に突き落としたのは僕なんだから」
「……どうして、どうしてこんな計画を立てたの?」
エミカは悲しみと怒りの入り混じった表情でクリスを見つめる。
「どうして殺人なんて手段を選んだの? 他に方法は無かったの? 相手は悪い奴なんだから警察に頼るとかいくらでも――」
「やめてくれ」
クリスは頭を振りながら言った。
「君には理解できないよ。僕は在留資格の無い不法滞在者。存在しているだけで罪なんだ。君とは違う。君は周りから愛される美しい世界の一部だが、僕は肥溜めのように腐った裏社会の一部にしかなれないんだ」
クリスは吐き捨てるようにして言うと、ゆっくりとした動作でアタッシュケースを指差した。
「これは爆弾の起爆装置だ。今向かいの港でホセが爆弾を設置している。このレバーを操作することで、港にいる屑共を地獄に送ってやれるんだ」
クリスはエミカをじっと見つめる。その顔からは年相応の穏やかさが消え失せ、感情の無い機械のような無機質さで覆われていた。
「君が操作するかい? マリアの仇はもう僕が吹き飛ばしちゃったけど、あそこにいる連中も同等の屑ばかりだ。君もマリアの仇を取りたかったんだろう? 一緒に奴らを皆殺しにしようよ」
淡々とした口調で告げるクリスを、エミカはまっすぐに睨みつける。そして無言で首を横に振った。クリスは首を傾げる。
「……どうして? 何も遠慮することは無いんだよ? 誰も君を咎めやしない。マリアも喜んでくれるよ」
「マリアを――」
エミカは立ち上がり、クリスを見下ろしながら言った。
「マリアを――犯罪を犯す理由なんかにしないで……! 人を殺す理由なんかにしないでよ!!」
エミカの言葉にクリスは言葉を失う。そのまっすぐな瞳を見続ける事が出来ず、思わず目をそらした。
しばらくの間、沈黙が続いた。やがてそれをかき消すようにトランシーバーから男の声が聞こえてきた。
『クリス、準備は終わった。いつでもいいぞ』
その声はホセだった。クリスはエミカを一瞥した後、トランシーバーを手に取り、応答する。
「分かった。始めよう。自由のために」
『自由のために』
クリスはトランシーバーを地面に置き、機械のレバーを次々に押し上げていく。
エミカはクリスに一歩近付く。その動きに反応するようにクリスは銃を取り出し、エミカに突きつけた。
「……そこで大人しく見ていてくれ。もう引き返すことは出来ない。ここまで来て、失敗は許されないんだ」
クリスが冷たい声で言いながら、最後のレバーをひねり上げた。
向かいに見える港が一瞬大きく輝く。次の瞬間、すさまじい轟音と煙が辺り一面を覆いつくした。
突然の爆発にエミカは思わず両手で耳を覆う。クリスは爆炎の上がる港を眺めながら、静かに立ち上がった。
「さぁ、最後の一人だ。来てみろよ、ハンター。絶対に邪魔はさせない」
そう言い放つクリスの口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。




