音楽の間
「傷付いたミレーユに、付け入るようなタイミングですまない。君は気付いてなかっただろうけど、俺はずっとミレーユの事が好きだったんだ。子供の頃から……。
また何も言えないまま、誰かに奪われる前にどうしても、この事は伝えておきたかった」
子供の頃、気さくに話しかけてくれる王子様に、憧れがなかったと言えば嘘になる。
彼の事はずっと雲の上の存在だと思っていた。
貴族子女の音楽サロンでの、サイラスとのデュオ演奏の思い出はミレーユにとって今でも、大切な宝物となっている。
伯爵夫妻の許しを得て、サイラスは気分転換に、ラコスト邸の音楽の間へとミレーユを誘った。
ミレーユの母、ラコスト伯爵夫人がさまざまな楽器を弾きこなす才女である事から、ミレーユや兄弟も幼少の頃より音楽に携わってきた。
防音の分厚い扉を開けると、音楽の間へと足を踏み入れた。途端に、心が軽くなった気がした。
子供の頃家族で、小さな演奏会をした懐かしくも暖かな情景が、目の前に蘇るようだった。
ピアノやヴァイオリンなどの楽器が置いてあり、サイラスはふとチェロに目を向けた。
「チェロも置いてあるんだね」
「えぇ。家族で演奏会なども開きますので」
「俺の邸にもあるよ」
「もしかして殿下はチェロも演奏出来なさるのですか……!?聴いてみたい……」
子供の頃の音楽サロンでは、サイラスはピアノとヴァイオリンを弾いて、どちらもとても上手だった。しかしチェロが弾ける事は、ミレーユとしては初耳だった。
「では弾いてみてもいい?」
「え、今聞かせて下さるんですか!?是非聞きたいです。けど、そのような私の我儘を……」
ミレーユが弱気に言葉を霧散させると、サイラスは笑った。
「俺の演奏を聴いてもらうのがミレーユの我儘になんか当てはまらないよ。ミレーユは相変わらず可愛いな」
(かわっ……!?)
可愛いなんて、夫であるユージオにすら、長い間言って貰った記憶はなかった。今のミレーユは、サイラスと過ごすこの時間が、全てのように錯覚してしまうほど。それ程心は満たされていた。今だけはユージオの事や、この先の不安など、頭の片隅にも無くなっていた。
ミレーユが椅子に腰掛けると、サイラスがチェロの弦に弓を当てる。
室内にはチェロの心地いい低音が響き渡った。
ミレーユの心が落ち着くような選曲にしてくれたのか、心が癒されていくような感覚。
ユージオは音楽にさほど関心がなく、嫁いでからは少し音楽とは遠ざかっていた。
産まれた時からずっと音楽と共に成長してきたはずなのに、音楽で心が癒される事を知っていたはずなのに、何故だか今迄その事を忘れていた。
ミレーユがこの先どんな未来を選ぶとしても、今の夢のようなひと時は、新たな宝物となった。




