♯206 失われていい命など存在しない
ちょうどその頃、セピア・キングダムでは――。
シスターはトレイにパンと湯気が立ち昇るスープを乗せ、静かな空間をゆっくりと歩いていた。
おかげで、カツンカツンと靴の音が響き渡る。
以前にも話したかもしれないが、ここはセピア・キングダムにある地下牢――。
クールナイツを監禁していたあの地下牢である。
そんな地下牢へシスターは何をしに来たのだろうか――。
もちろん、新たにここへ監禁された者に食糧を届けに来たのである。
だが、相手はもちろん罪人――。
よって、食糧を届けるこの行為は命令違反となる。
しかし、だからといって失われていい命など存在してはならない。
だから、シスターは今日も危険を顧みず罪人に食糧を届けるのだ。
そんなことを考えている間に目的の場所へと辿り着いた。
そこは以前、ケルベロスが囚われていた場所――。
だが、今は見るに耐えないほどボロボロに成り果てたフェリスが囚われていた。
右手なんて真っ青になって血が通っていないことが見てわかるほどだ。
いったい、フェリスがどんな罪を犯したというのか――。
アピスとアペス曰く、こうである。
あの日、フェリスはクールナイツの始末を命じられてアピスとアペスと共に人間界へと足を踏み入れた。
だがその命に従う裏で、フェリスはどさくさに紛れてクールナイツもろともアピスとアペスを消し去ろうと考えていたとか――。
それを拒む形でアピスとアペスはフェリスと激しい戦闘になり、結果フェリスをここまで追いつめてしまったと――。
そして、今に至る。
だが、シスターは思う。
これはすべてアピスとアペスがでっちあげた嘘ではないかと――。
なぜなら、アピスとアペスがあまりにも無傷だったからだ。
申し訳ないが、シスターはアピスとアペスの戦闘力はフェリスよりもかなり低いと思っている。
そのフェリスと戦闘になってほぼ無傷というのがどうにも不自然なのだ。
おっと、こんなことを考えている場合ではなかった。
「フェリス様、お食事をお持ちいたしましたよ」
シスターはフェリスの前にトレイを置いた。
そのすぐ隣には同じようなトレイがひとつ――。
これは今朝、フェリスに届けた食料だ。
今持ってきたのと同じく、パンとスープを用意していたのだが見事に空になっていた。
昨日も一昨日も、毎食分パンとスープを用意していたがそのすべてが空になっていた。
どうやら、フェリスは見た目こそボロボロだが食欲だけはあるようである。
よかったよかった――。
などとは思わないシスターであった。
なぜなら、これを食べたのがフェリスではないと分かりきっていたからである。
そう思うのには2つの理由がある。
まず1つ目――。
そもそも腕を拘束された状態で器用に食事なんてできるわけがないのだ。
いやこれはケルベロスを見て感じたことであるのだが、ケルベロスより知的なフェリスならやってのけるかもしれないと思ったときもあった――。
ただ、ケルベロスよりも知的なフェリスならばおとなしくシスターに甘えて食事を摂る方がかしこいと判断するはず――。
次に2つ目――。
フェリスの口元に耳を当ててみよう。
すると、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
1日3回、ここへ食事を持って来ているがその度にフェリスの気持ちよさそうな寝息を聞いている。
「フェリス様、お食事をお持ちいたしましたよ」
再度、シスターが声をかけるがフェリスは無視。
肩を揺らして無理やり起こそうとするが、それでもフェリスは起きようとはしない。
このように何をしてもフェリスは目を覚ましてはくれないのだ。
これは明らかに異常である。
おそらく、フェリスは故意に眠らされている――。
そして、このようなことが出来る人物は容易に想像がついた。
その人物は、なぜこのようなことをするのか――。
もしかして、食事以外のときはフェリスを痛みから解放するための善意の行為ではないかと考えたときもあった。
だが、日に日にコケていくフェリスの頬を見るたびにその考えを棄却せざるを得なかった。
以上のことからフェリスはシスターの用意した食事を食べておらず、また残念ながらこれを食べたのはその人物なのであると言い切れるのだ。
シスターははぁと大きくため息をつくと、フェリスの右手に自身の手を重ねた。
もしも、フェリスが起きていたらこの右手を含む痛みに悶え苦しんでいたかもしれない。
その悶え苦しむ姿を見る度に心が締め付けられただろう。
だから、まるで痛みなど忘れてしまったかのように気持ちよく眠っていた方がお互いに幸せなのかもしれないと思ったときもあった。
だがこのままフェリスが永遠に眠り続けると、さすがに命に危険が迫る恐れがある。
このまま食事に手を付けなければ、筋肉が完全に衰えてしまう恐れもある。
それに今のフェリスは手首を頭より高い位置で拘束されており、壁に腰をかけ座っている。
そのためろくに寝返りもうてず、またおしりや太ももがずっと床に押し付けられている状態になっている。
このままでは血液の流れが悪くなり、おしりや太ももの部分の皮膚や筋肉が壊死してしまうかもしれない。
仮に命が助かったとしても、そのような身体では1人で生きていくのは無理かもしれない。
それに、ろくな治療を施されなかったこの右手はきっと手遅れ――。
二度と動かすことは叶わないだろう。
ならば、フェリスは誰かの手を借りて生きるという道から逃れられないのでは――。
「また来ますね――」
シスターはフェリスから手を離すと、空のトレイを持ってその場を去っていった。
正直、フェリスがこのような姿で帰ってきたのは想定外だった。
だが、密かに企てていた計画は無事に遂行されたのだからよしとしよう――。
第5章、完結――。




