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小夜時雨奇譚

 その庭には金木犀が咲いておりました。

 初秋のまだ夏の暑さの名残りに時雨がその庭に降っていたのを今も覚えております。

 湿り気を帯びた土の匂いと共に金木犀のよい匂いが部屋に漂い、私はその香りと目の前の男性に陶酔しておりました。

 この家の跡取りで私の未来の旦那様になると言う方とのお見合いの席のこと、私は一目でその方に心奪われてしまったのです。

 これが私の初恋―――。

 

 美男子で文武両道の旦那様はお殿様の覚えもめでたく順風満帆の人生を謳歌され、将来の出世は約束されていると言うのに大層謙遜され、その物腰の柔和さがまた嫌味なく下々にも同僚にも受けが大変よろしかったので、私には本当に勿体ないほどの良縁でございました。

 私の様な成り上がりの娘と結婚してくれるのですからこれ以上の幸せはございません。私の父は大層喜んで名家に嫁ぐ私の為にと用意した持参金は大名のお姫様にも負けず劣らずのものでありました。

 こう申しては何ですが、旦那様の生家は先祖代々の名家であらせられたのですが、お金には大変困窮しておられたご様子で、父は一人娘の私をぜひとも名家に嫁がせたく、かなり裏では口にするのも憚られるような取引があった様にございます。私は詳しく存じ上げませんが、多額の金子が動いていたのではないかと推測ながら思った次第にございます。

 正式な婚儀は後々とし、私は行儀見習いも兼ねて旦那様の生家に身を寄せることと相成りました。

 律儀な旦那様は祝言を上げるまではと、私を大切に想ってくださるのがとてもうれしかったのですが、寝間まで別々なのには少し残念でなりませんでした。正式に夫婦ではないとは言え、お互い許嫁で夫婦も同然なのですが、女の口からそれを言うのもはしたなく憚られること故、旦那様の良しなにお言葉に添う良き妻になろうと努力致しました。

 旦那様の誠実さを信じ、けして私以外の女を囲うことはないだろうと信じておりました。

 そう、あの夜までは……。


 深夜に不浄に立った私は、旦那様のお部屋に細々と明かりが漏れているのに気が付きました。その夜は夕刻からの時雨で蒸し暑い晩でした。

 秋にもなり少し涼しくなって来たかと思えば、時折肌が汗ばむほど生暖かい夜もあり、今年の気候は少し変わっていると、その程度にしか思ってはおりませんでした。

 その夜もそんな晩だったのです。

 時雨のあとは必ずと言っていいほど湿った土の匂いとむせ返るほどの金木犀の香りが辺りを包んでいました。そろそろ花の季節も終わりと言うのに、この庭の金木犀は今も変わらず満開に咲き乱れ、その芳香を辺りに漂わせておりました。

 旦那様がお休みになれないのなら私でお慰め出来ないかとはしたなくもお部屋を訪ねようとして、私はその部屋に旦那様以外の人の気配を感じ取りました。

 そっと耳を欹てて中を窺うと、どうやら女がいる様子で旦那様と睦言に耽っているではありませんか。私は全身の血が沸騰するほどの怒りに体を震わせそこを離れました。

 私を大切にしていてくださって遠ざけているのだと思っていたのに、こともあろうに私以外の女と、妻となる私がいる家で過ごすなど許すことが出来ませんでした。

 屋敷に出入りしている商家の者か?またはお端た務めの女か?と勘ぐってしまい、そんな身分もない様な女にも見くびられたのかと思うと悔しくて堪らなくなり、私はその女の正体を掴んでやろうと翌日の深夜に旦那様の部屋の近くで寝ずの番を致しました。

 時雨が土と金木犀の匂いを一層強くした頃、その女はやって参りました。

「……若様……あちきにございます……若様……」

 どこかの遊郭から来たのでしょうか、目元の濃い化粧に洗練された優雅な物腰。女は庭から旦那様の部屋の障子を軽く叩くと、その障子はすぐに開いて女が中に滑り込んで入って行きました。

 私はあの女がどうやってこの屋敷に来たのかが不思議でなりませんでした。明らかにこの家に努める女衆などではありません。どこかの遊女であろうとは思うのですが、遊郭に努める女は年季が明けるか身請けをされるまで遊郭からけして出ることは出来ないと厳しい決まりごとがございました。しかもどう見ても一人で来たとしか思えず、足抜けではと考えましたが、だとしたら夜毎旦那様の部屋に訪れるのもおかしなこと。追っ手がかかり捕まれば厳しい処罰をされ一生遊郭から出て来れなくなると聞いておりましたので、足抜けしたなら逃げるのが筋でございましょう?なのにその女は夜毎やって来るのでございます。

 遊女であろうと足抜けであろうと、とにかく私は旦那様に近づく女が許せませんでした。

 即刻、父に話すと父は大変立腹してすぐさま祝言を上げる様に旦那様の生家に申し入れ、私と旦那様の祝言が慌ただしく執り行われることと相成り、私は正式に旦那様の妻となりました。

 きっと旦那様はこの婚儀を快く思われておらず、お家の為にと私との祝言を上げてくれたのかも知れません。それでも私は旦那様を手放したくはなかったんです。酷い女と思われても仕方ありませんわね。

 

 その初夜の共寝にあの女は凝りもせずやって参りました。

「……若様……あちきにございます……若様……」

 旦那様は寝たふりをして障子を開けはしませんでした。女の声はとてもか細く弱々しかったので、私も気づかぬふりをしておりますと、小半時で女はいなくなりました。

 しかし、女は夜毎やって来るのでございます。障子を叩き、会いたい、恨めしいとさめざめと泣きながら繰り返し小半時もするといなくなるのでございます。夜毎それが続いている間に季節は冬になろうかという頃になっておりました。

 その頃私は旦那様のややを身ごもり幸せの絶頂にあったのでございますが、悪阻に大変苦しんでおりました。ほんの少しの匂いが鼻をついて苦しくなってしまい、気分が優れず部屋で休んでおりますと、私はあることに気付いたのです。

 最近朝晩の冷え込みが厳しくなって来たかと思うと深夜にはしっとりとした熱を孕む生暖かさとむせ返る金木犀の香り。

 庭に面した障子を開けると、そこには金木犀が秋の頃と変わらず群生しておりました。私はそれを見て訳もなくとても恐ろしくてなって身が竦んだのを覚えています。

 

 具合の悪さに加えて夜毎の女の来訪に私もいいかげん腹が立ち、女に一言、忠告しようと立ち上がり障子に手をかけました。旦那様はお止になりましたが私はそれを聞かずに一気に開けると、私は信じられない光景に言葉を失っていました。

 そこには土に汚れた着物を纏い、髪を振り乱した女の姿があったのです。その女は肩から胸の下までざっくりと刀傷がありそこから血が流れておりました。

 声を出すことも出来ず私は腰を抜かしてしまいへたり込むと、その女は部屋に入り旦那様を捕えると無理やり旦那様を轢きずって庭の暗闇に消えて行きました。

 あとに残ったのは湿った土の匂いとむせ返る金木犀の芳香……。

 我に返った私はすぐさま家人を叩き起こし、庭を捜索させると下人が金木犀の群生の中で事切れた旦那様の亡きがらを発見したのでございます。

 土の中から這い出て来たかの様な白骨の女がその旦那様の体をしっかりと抱きしめてけして離さなかったのでございます。

 土の中から女の死体と旦那様の刀が血糊のついたまま発見されました。さすがに縁起が良くないとその刀を手放したのでございますが名刀であったため人の手を渡り歩き、刀はいつしか妖刀と呼ばれるようになっておりました。

 刀によって斬られた女のすすり泣く声が時折するのだそうにございます。


 後に分かったのでございますが、旦那様は遊女と恋仲になり、女は足抜けをして旦那様の元へ逃げて来たのですが、まだお若かった旦那様はお家の外聞を憚り女と揉めた末、誤って斬り殺してしまったとか……。世間に知れるのを恐れ旦那様は庭の金木犀の下に女の死体を埋めたのでございます。

 女はその土の中から夜毎恋しい男に会いに来ていたのでしょう……。それとも旦那様の後悔と女への憐憫があの女を土の中から呼んだのかもしれません。

 どうして旦那様が亡くなったのにそんなことが分かるのか不思議に思われますか?もちろん旦那様に伺ったからに決まっています。

 私はあの後心労で旦那様のややを流してしまいました。愛しい旦那様とそのややまで失って途方に暮れ悲しみに泣き暮らしておりました。旦那様にお会いしたくてお会いしたくて毎日焦がれておりますと、時雨と共に湿った土の匂いと金木犀の香りが辺りに立ち込めまして、それと共に障子を叩く音がするのでございます。

「開けておく……私だ……愛しい妻よ、開けておくれ……」と、か細く言うのでございます。

 旦那様が私の元に帰って来てくれたんです。ややを一緒に連れて……。

 お信じになられません?私がどうかしてしまった気狂いの女とでもお思いで?そう思われてもしかたありません。なら、このままここにいて確かめられるとよろしゅうございます。外は時雨が降って参りました。ほら土の湿った匂いが濃くなって参りましたでしょう?金木犀の香りも……。もうすぐやって来ますわ。私の真実の愛が旦那様とややをこの世に呼び戻しているのですもの。ほら、聞こえません?微かに障子を叩いているでしょう?嗚呼……おかえりなさい旦那様、私の坊や……。


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