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方言版 津軽藩以前  作者: かんから
大光寺の戦い 天正四年(1576)正月
95/105

見果てぬ夢 4/5

 天正三年(1575)春、田植えっこしまっ(/\)て余裕あるんた()ころ。南部信直()対す、九戸政実らはまんた(/\)反旗()翻すた。裏では安東氏が資金()()て、大浦と九戸の連携も成立させてら()


 そすて……晴れ渡る吉日、八月一三日。

大浦為信は三千の兵()(たから)せ、大光寺()出陣するべとする。沼田祐光はもちろん、後に大浦三家老と()ばる兼平綱則、森岡信元、小笠原信浄もいる。知恵者の八木橋や仏門の乳井ら含む大浦家臣団はここさ(/\)集ま(かだ)った。さらに浅瀬石の千徳政氏も(かだ)る。


 敵は大光寺城の城代、滝本重行。武勇知略()優れ、為信()倒すべと企む相手。田舎館の千徳政武も滝本さ味方した(かだった)。千徳は本家と分家で対立してまっ(/\)た。


 辰の刻、大浦軍は真新すい()()掲げた。以前の様に南部の旗は使え|《\》ね。二羽鶴の文様は、ずんぶ(/\)燃やすた。


 ……白地()(あけ)く描かれたのは、錫杖の(さきた)。岩木山の加護()預かり、津軽()征することば(/\)示す。何百も掲げられ、新生大浦家の初陣()飾った。


 そった(_/)中、小笠原は一本の旗ば(/\)持参すた。丸められら中は()えねえし、わん()つか()古びてら()んた感じだ。為信は “構わね” としゃべり(/\)、改めさせた。


 褐色()なってら()布地()、黒い墨で “卍” が描かれてら()。小笠原はしゃべっ(/\)た。


 「津軽()(がめ)るごどは、万次の意思だ。」


 為信は許すた。何百もの錫杖の中()、一本だけ馬鹿でけえ(/\) “卍” の旗が掲げられる。


 大浦軍は出陣すた。


 第一陣は大光寺より南西の館田口()乳井らが七百。

 第二陣は南東の唐竹山()小笠原ら八百。

 第三陣の五百は北さ(/\)座す、田舎館千徳からの援軍()遮断。


 そすて本陣の千兵は大光寺より真西()位置する館田林()置かれた。兼平や森岡、八木橋らもここさ(/\)いる。


 (とお)けより大光寺()包囲してるばって()城さ(/\)向かうべとすると、田が(ふろ)がってら()。水で満た(うるか)され、泥で足っことられるびょん()

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