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方言版 津軽藩以前  作者: かんから
大千同盟 元亀二年(1571)晩夏
80/105

二子殺し 4/5

 翌日……八木橋の右頬は(あけ)くはれてら()。彼は朝餉の(めえ)に参上す、為信さ腹案()伝え(しかへ)にきた。既に膳は(めえ)にある。“後じゃまね(/\)が” と訊くばって()、八木橋は今がいという。


 「なんぼか、森岡殿のいね()時がいのだ。」


 なるほど。まんた(_/)叩かれるのが嫌なのだ。八木橋はしゃべり(/\)出す。


 「鼎丸様さは、大浦家(/\)継いでいだだぎます。」


  森岡(/\)屈すたのか。


 「いえ、(ちげ)えんです。殿は石川城()()っていだだぎ、新だに“津軽郡代” ば名乗りへじ(/\)ゃ。」



 “津軽郡代”


 かつて南部の代官津軽()治めるにかって( ̄\)名乗った役職だ。最初は津村氏、後に石川高信、次子の政信が名乗る。



「殿は津軽郡代どすて別の()()興す。大浦家は津軽郡代()忠義ば尽ぐす。こいだば(/\)んだべ(/\)。」



……八木橋は、すげえ(/\)ことば(/\)考えてら()。郡代の名乗りは信直公()許す()得ねばまい(/\)ばって()、話とすては悪くね。


 別の()ば興すんだば()……津軽郡代の大浦為信。いや、(ちげ)え。津軽()治めるのだ。




    “津軽為信” であるべきだ。




 この案は詳すく詰められ、(ふろ)間での評議()移る。為信という大人物が先頭さ立つことは変わんねく()、鼎丸の大浦家当主とすての地位も保たれる。多くの者が(わったど)賛同すた。


 たんだ( ̄\)(ふと)人、森岡のみ反対する。


 “実際は殿が力()持ったまま。鼎丸様は置き人形。だまされねぞ”


 森岡は唾()吐き、(ふろ)間から立ち去った。




 “為信も、俗物だな”


 彼の心っこは、為信より離れた。

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