死に賜う 1/5
元亀二年、五月五日。去年のこの日に石川高信は亡くなった。当時どすちゃあ七十ば超す大往生だ。
彼がいねくなってから、南部家は様変わりすた。当主の晴政公は信直ば殺すべとし、逆に殺されかける。その後で九戸兄弟が三戸ば制す、病床の晴政ば傀儡としちゃあ。
当日は、快晴だった。雲一つねく、風もね。植えたばかりの稲、背筋ば伸ばすて水辺さ立ってら。草むらは、甘え蜜の香りっこす。
一方で……堀越の別荘からは、線香の匂いが漂う。……そこは高信公が隠居場にと建てた。将来的には津軽の中心とすて、石川家の本拠ば置くことになるんた。
ここで今、一周忌の法要が執り行われる。喪主の石川政信ば筆頭に、大光寺光愛、千徳政氏、大浦為信……以下津軽の名士らが集う。
朝より経が絶えねく流れた。頭の中では在りし日のことば考えてらのが、いや脳裏の先さは為信が。はたすて、為信の言葉っこは本当なのか。兄信直の一筆と養女ば差す出すことにより落着ば見たが、まんだ疑わすく思う者もいる。
……昼にさすかかり、日は高く昇る。ここで所用があるはんでと、千徳ら数名が帰り支度ば始めた。大光寺は彼らに問う。顔っこはいたってなんもねえ。
「食事ばともにでぎねえのは、残念至極。どんだ訳だか。」
千徳は答える。
「いやはや、田植え後の祝い事だっきゃ。毎年この日だはんで、領主どすては絶対に欠がせねんだ。」
領地経営の基本は米。米ば疎かにするものは苦すみば得る。特に千徳の治める領地は、津軽有数の穀倉地帯。重要視すて当然だ。
千徳らは東へと去ってく。
……残った者は、堀越の別荘にで昼餉さ入る。法要だとこで、魚や肉は出ね。ただす酒は出る。宴会になることは予想ができ、津軽衆の結束ば高めるにいい折であった。
広間の上座さ政信一人、先頭左側は大光寺、右側さ為信が座す。