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方言版 津軽藩以前  作者: かんから
堀越騒動 元亀二年(1571)春
57/105

死に賜う 1/5

 元亀二年、五月五日。去年のこの日に石川高信は()くなった。当時どすちゃあ七十()超す大往生だ。

 

 彼がいねくなってから、南部家は様変わりすた。当主の晴政公は信直()殺すべとし、逆に殺されかける。その後で九戸兄弟が三戸()制す、病床の晴政()傀儡としちゃあ()


 当日は、快晴だった。雲(ふと)つねく、風もね()。植えたばかりの稲、背筋()伸ばすて水辺()立ってら()。草むらは、(あめ)え蜜の香りっこす。


 一方で……堀越の別荘からは、線香の匂いが漂う。……そこは高信公が隠居場にと建てた。将来的には津軽の中心とすて、石川家の本拠()置くことになるんた。


 ここで今、一周忌の法要が執り行われる。喪主の石川政信()筆頭に、大光寺光愛、千徳政氏、大浦為信……以下津軽の名士らが集う(たがる)


 朝より経が絶えねく流れた。頭の中では在りし日のことば(/\)考えてら()のが、いや脳裏の先さは為信が。はたすて、為信の言葉っこは本当なのか。兄信直の一筆と養女(めのこ)()差す出すことにより落着ば()たが、まんだ(_/)疑わすく思う(ふと)もいる。


 ……昼にさすかかり、日は(たけ)く昇る。ここで所用があるはんで()と、千徳ら数名が帰り支度()始めた。大光寺は彼らに問う。(つら)っこはいたってなんも(_/)ねえ()


 「食事ばともに(かでて)でぎねえ()のは、残念至極。どんだ訳だか()。」


 千徳は答える。


 「いやはや、田植え後の祝い事だっきゃ()。毎年この日だはんで()、領主どすては絶対に欠がせねんだ(_/)。」


 領地経営の基本は米。米ば(/\)疎かにするものは苦すみ(へずねさ)ば得る。特に千徳の治める領地は、津軽有数の穀倉地帯。重要視すて当然だ。


 千徳らは東へと去ってく。


 ……残った者は、堀越の別荘にで昼餉()()る。法要だとこで、魚や肉は出ね。ただす酒は出る。宴会になることは予想ができ、津軽衆の結束()高めるにいい折であった。


 広間の上座さ政信一人、先頭左側は大光寺、右側()為信が座す。


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