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方言版 津軽藩以前  作者: かんから
弘前城炎上 寛永4年(1627)夏
102/105

エピローグ

 津軽為信の戦いは続いた。

領域()着実に(ふろ)げ、民ば安寧(あずま)しくすために働いた。


 たばって()為信() ”悪” と()(ふと)……滝本重行は徹底すて抗い続けた。大光寺城が陥落すた後も南部信直()説得すたり、あろうことか敵方の安東愛季ばも()巻き込んで為信()たんげ(/\)追い詰めた。特に六羽川合戦だば()、為信は死んでおかすくねか(/\)った。そこば(/\)田中という武将が身()挺すて救ったと(しか)へられてら()


 さらに滝本は津軽家の内側さも()仕掛けた。大光寺家臣()……森岡という(ふと)がおり、実は津軽家臣の森岡と親戚だんた()。密かに滝本はその繋がり()たどり、病床の森岡信治()(しか)へ続けた。”為信はまね(/\)はんで()ろ。鼎丸ど保丸()殺すたのは奴の計画だ”


 最初は彼も信ずねかった。だばって()変わってまった()為信のやり方……いくねえ(/\)戦さの数々。万次党など()代表される下衆ども()用いて敵方の民()たぶらがすたり、家々(かまど)()()つけたりひでえ(/\)有様。さらにしゃべれ(/\)ば為信の(ちけ)()座す ”沼田祐光” とかいう信用できね(/\)人物(ふと)。これら()()ると、かつての大浦家とはかけ離れてまった()。……いや、すでに大浦家ではねく(/\)、津軽家なんだばって()


 ……たんげ(_/)ゃべら(/\)れると、まんず(/\)そうだんた( ̄\)風に()えてく。へば()ここで滝本が(しか)へる。証拠があると。それは沼田が仲間(けやぐ)()送った手紙だった。確かに奴の字っこ。殺害の計画について書き記すてちゃあ()

 森岡は板垣ら(ちけ)(ふと)()集め(かでて)、出家すた戌姫の元()訪ねだ。かつての大浦家()取り戻すために、まんず(_/)は俗さ戻り、先頭となる婿(もこ)()めとってほすい()と。


 ……だばって()、戌姫は拒否すた。


 ”(わあ)は主人()不幸にすた。いま(わあ)のでぎるごどは、あらだなる不幸()増やさね()ごど”


 だとこでごうすて戦で親()失っ(ねぐし)子供ら(わらはんど)()寺さ(/\)集め(たがらせ)て、僧侶(ぼんず)らど共に(かでて)育ててらん(/\)だと。これはもちろん子供ら(わらはんど)のためだし、なによりも恨み()主人()向がわせね()ためだ。罪()主人()背負わせね(/\)ためだ。


 森岡や板垣らは閉口すた。そのうち森岡信治は病没す、へずねえ(/\)信治の想いは、息子(わらし)の信元()受け継がれた。信元も決すてこのままではまね(/\)()てら()。彼は板垣らとむったど(/\)語らい、津軽の地()正道へど直す機会ばうかがい続けた。

 

 するとどうだべか。為信のやり方さまね(/\)(さか)ぶ者(ふと)人いた。為信の嫡男、信建だ。信建は疑問に()った。(とっちゃ)は卍や錫杖の絵柄()軍旗()使る。ばって()それはうわべっこで、神仏()信ずてら()姿()なんも()たことね。同ず人命なんだはんで()、勝づだめに容赦すね(とっちゃ)のやり方……。

 んだば(/\)、真剣に仏門の教え()(とっちゃ)()説い(しかへ)てめようか……いや、まね()じゃ。仏門が命()救う道だば()なすて(_/)僧侶(ぼんず)である乳井らは敵ば(/\)容赦ねく()斬り殺す為信()従ってらんだ()。……だば()、耶蘇会というものが大坂()あるらすい。その教え()研究するか。


 為信ばまね(/\)()(ふと)同士。互いに(ちけ)づくのは自然なことだびょん()。信元らは信建と親すくなり、津軽家中ででったら(/\)だ勢力()持ち始める。


 為信も家中の不穏な(いぐねえ)空気()察すた。そこで関ヶ原への出陣前、先手()打った。信元()殺しへと、小笠原()命ずたのだ。……小笠原は老骨()打って、役目()成す遂げた。その仕事()()まうと、跡()残さねえ()いねく(/\)なった。その後の彼()知る(ふと)いね()


 このことさ(/\)、板垣らは激怒すた。為信が遠地()出陣すたのち、仲間(けやぐ)らと共に(かでて)当時の津軽家本拠である堀越の新城()攻撃すた。そすて見事のっとったのだ。かの地は結果的に二度も災い()見舞われたばって()……大坂の信建が戻りさえすれば、津軽は正道()戻る。


 だばって()、関ヶ原のでったら(/\)だ戦いは一日で()まった。


 残されてまった()板垣らは自害する。最後まで正義だと()いながら、あの世()去った。


 為信と通ず合うことはできね(/\)まま。


  …………


 慶長十二年(1607)十月、息子の信建が死去。同年十二月、為信もこの世()去った。

その真相は、為信が信建と二人で酒()呑みかわす、瓶()毒ば(/\)入れちゃあ()。後への憂いばねく(\/)すためにとった策であり、己への罰でもあったという。


 …………


 為信の死後、次代()担ったのは三男の信枚と家老の兼平綱則。亡き兄の遺子(わらし)との騒動もあったばって()、なんとかこれば(/\)収める。民が安心すて(あずましく)暮らせるよう、領国経営()真剣に取り組んだ。そすて父の偉業も記録()残すことも大切だと()ったはんで()、家来()命ずて藩史編纂も始めた。


 すると、彼ら(あらんど)はしゃべる(/\)。鼎丸と保丸のことば書くのはまね()びょん()。なすてかと問うと、為信が大浦家()盗ん(がめ)たと(しか)へるのはまね(/\)。加えてしゃべる(/\)だば()戌姫ともずっと仲良かったとすべぎであるす、小笠原()っこ(_/)のませて森岡()殺させたというのも酷すぎる。


 だばって()信枚は命ずる。ありのまま書きへと(/\)。家来らは仕方ねく()従い、完成までわん()()か。


 …………


 寛永四年(1627)九月。弘前城の天守閣()雷が落ちた。

倉にあった火薬()引火す、爆発音とともにずんぶ(/\)砕け散った。藩史も同ずだ。

…………五十年たち、改めで藩史()作るべという動きがでた。すでに為信存命中のことば(/\)知る(ふと)はねく(/\)、さまざまな資料()掻い摘んでなんとか作るべとす。こった(_/)経緯があるはんで()、津軽の歴史が正すく(しか)へられてねえ(/\)のは当然だびょん()

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