胸が痛くともあなたの言葉を聞き続ける
「今日も紫藤先生かっこよかったねー」
その言葉が、雪乃の胸に突き刺さった。
「そうかな」
「だってさ、普段スーツのジャケット着てるのに今日はベストだよ?反則でしょ?」
「…何にも反してないと思うけど」
興奮して鼻の穴を膨らませる巴に対し、ややあきれ気味の雪乃。
ベストで出勤することが禁じられている学校など、あるものか。雪乃はため息をついた。
隣を歩く巴は目を輝かせて、まだ紫藤先生の何たるやを熱く語っている。オールバックでキメる髪型が最高だの、板書するときの腰の角度がどうだのと、まるでアイドルの話をするかのようだ。
巴はくるくる回ったり、時折スキップをしながら飛び跳ねるように歩いている。雪乃はそれをやっかむでも止めるでもなく、おとなしく隣を歩いていた。
「はー。なんで雪乃はわからないかな、紫藤先生の良さが」
ここ最近の巴の決まり文句だ。紫藤孝道という教師が新年度から雪乃たちのクラスを受け持つようになってからというもの、巴の口から幾度となく発せられた言葉である。
紫藤孝道。学内でも貴重な爽やかなルックスから、女子に絶大な人気を誇っている数学教師。だからなんだ、と雪乃は声を大にして言いたくなるのを思いとどまった。
「紫藤先生ってさ、結婚してないよね。指輪してないし。チャンスだと思わない?」
「まさか巴、本気で言ってる?犯罪だからね」
「あはは!まあね。でも、それは今すぐの話でしょ。あたしが卒業しちゃえば問題ないって」
「そもそも、紫藤先生に恋人がいないとも限らないじゃない」
「それなら、いるとも限らないってことでしょ」
ああ言えばこう言う、とはまさにこのことだ。
雪乃は目を閉じた。巴は拳を握り締めて、なおも興奮しながら言う。
「あたしが紫藤先生をゲットしてやるからね!見ててよ雪乃!」
燃え盛る炎が背後に見えそうなほどの、熱意がこもった言葉だった。
拳を振り回しながら歩く巴は完全に周囲から浮き立っていて、すれ違う人々がじろりと視線を向けるほどである。
「はいはい」
「はいはいって、ちゃんと聞いてるー?」
「聞いてるよ、ちゃんと」
そう。雪乃は誰よりもこの言葉を聞いている。
それがどんなに嫌なことだとしても、逃れることはできない。
「巴って、鈍いよね」
「えー?あたしの勘は鋭いんだからね!だからずばり、紫藤先生に恋人はいない!」
「そういうことじゃないんだけど…」
「じゃあどういうことー?」
ぼそりと呟いたつもりが、案外大きい声となってこぼれてしまったようだ。相変わらずと言える巴からの返事に、少なからず困惑する。
毎日のように、大切な親友との会話に混ざり込んでくる異物。それが紫藤孝道だった。異物は最初こそ小さかったが、今では大きな岩のごとく、存在感を示している。
なぜ。よりにもよって、あいつが自分たちのクラスの担任になってしまったのか。雪乃は運命を呪った。
若干ミーハーなところのある巴が好きなタイプの顔立ちだということは、紫藤を見たときすぐにわかった。巴の目の輝きが、それを教えてくれたからだ。
ずっと隣にいたのに、背後からいきなり刺されてしまったような感覚。大量出血しながら、なんとか這いずって隣にいる毎日。そして、その出血量は日々確実に増えている。
私のほうが、よく見ている。
私のほうが、よくわかっている。
私のほうが、私のほうが、私のほうが。
歯を食い縛る。
拳を握り締める。
唇を噛み締める。
それでも、何をしても、雪乃の想いは、届くことはない。
何も知らない親友を見つめ、雪乃はただ微笑むのだった。