B@mam.com
僕のママは完璧だ。
さらりと流れる黒髪をすっきりと結い上げて、シミもシワもない肌にはうっすらと薄い化粧を施した完璧な顔で朝の挨拶をする。テーブルにはふっくらと焼きあがったマフィンとミルク。しゃきしゃきとした歯ざわりのサラダ。ぱちぱちと脂がはじけるベーコンと卵。
僕が朝どんなに早起きをしていてもそれは変わることがなかった。今は部活もしていないから早起きなんてしないけど。それどころか学校にも行ってない。あんなくだらないところ。低俗なやつらばかりだ。父譲りの僕の知能では授業すらも物足りないし、行ったところでなんの意味もないし役にも立たない。僕は学校なんて行かなくても、毎日規則正しい生活をしているし、家にはプールもジムも完備している。ママは僕が喉が渇いたと言う前に、絞りたてのオレンジジュースを差し出してくれる。勉強に疲れれば(今はロボット工学における最新の論文を制覇しているところだ)、とろけるような舌触りと上品な甘さのガトーショコラ。家の中は明るい陽の光と、清浄な空気と、ママが作るいろいろな料理の匂いに満ち溢れている。時にはママの甘酸っぱい香水の香りが一筋。学校の奴らはこんな生活ができないからあれほどまでに低俗なんだろうな。奴らが朝から「うちのばばぁが」などと品も無く罵り声をあげているのを聞くと寒気を通り越して吐き気がする。僕のママみたいな完璧なママなんてそうはいないだろうから、それも仕方がないことなのかもしれない。
「リュウくん、今日のおやつは何か食べたいものがある? アップルパイにちょうどいい林檎を買ってきたんだけど」
「うん。アップルパイでいいよ」
パイ生地からつくるアップルパイ。さくさくとしてて何層にもきれいに膨らんだアップルパイも完璧だ。ママはにっこりと微笑んでキッチンへ戻る。料理、洗濯、掃除と手早くこなしていくママ。時には僕が理解するに手間取った数式を鮮やかに解いてしまったりもする。とんとんとんとんと、サラダに使うキュウリを切っていくようにリズミカルに途切れなく。けれども、けして自分から口出しすることはなく、僕が訊いた時だけ。
僕はママと二人で一日を過ごす。父はいつでも帰りが遅い。遅いどころかこの一週間は顔も会わせていない。僕にはママがいればなんの支障もないし、父の仕事はとても大変なものなのだ。僕は父の仕事を継ぐつもりでいるし、父もそれを期待している。
僕の家庭は完璧すぎるほどに完璧だ。
「美味しい?」
アップルパイに添えられたバニラアイスがするりと皿の上で滑る。濃い目の紅茶。
「美味しいよ」
「よかった。リュウくんはいい子ね。いつでも美味しいって食べてくれるもの。ママ嬉しい」
ママの足元には尻尾を控えめに振るレトリーバーのジャック。ママに耳の後ろを掻いてもらってうっとりとしている。
僕はもう12歳なんだから、いい子っていうのもくすぐったいのだけど。
『キミ、マザコン?w』
画面に打ち出される文字。
時々、息抜きにオンラインゲームをしたりチャットしたりする。こんな失礼な奴とはもう話したくない。返事もせずに禁止グループにその名前を入れる。普段何してるか聞かれたから答えただけなのに。自分が完璧なママに恵まれなかったからといって、誰もが自分の母親の悪口を言うのが常識だとでも思ってるのだろうか。しょうがないじゃないか。僕のママは非の打ち所なんてないのだから。
リビングに下りていくと、僕のしかめ面に気づいたママが眉間にわずかな影をひそませる。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。バカな奴がいっぱいいすぎるなって思っただけ」
「ひどいことでも言われたの?」
「別に。ただ、ママの話をしたらそんな立派な母親がいるわけがないって言われただけだよ」
ママは眉間の影を消して微笑む。
「僕の年頃だと母親に不満があって当たり前なんだってさ」
「リュウくんはいい子だから」
くすくすと面白そうに笑いながら、ママは僕の耳たぶをつまむ。ママの癖。僕の頭をそっと引き寄せて髪にほお擦りをしてくれる。僕の眼を覗き込む瞳は深い紫。すみれ色。
「ほら、もう寝なくちゃ、ね? 大好きよ、ママのリュウくん」
ママはいつ眠っているんだろうと思う。父の帰りを待っているのだろうか。
完璧なママのことだからそうなのかもしれない。
朝起きると珍しく父が朝食をとっていた。いつも僕が起きる前には出勤してしまっているのに。
「リュウ、毎日ママと二人で退屈じゃないのか?」
「別に。楽しいよ」
「ママとは上手くやってるんだな」
当たり前じゃないか。何を言ってるんだろう。
「……最近、プロジェクトの一つが区切りがついて楽になったんだ。気が向いたら見学にでも来るか?」
「コーヒーのおかわりはいかがですか?」
ママが父に話し掛ける。父は手を振って断るだけでママを見ることも無い。
「……気が向いたらね」
父は大企業が運営する研究所の所長として勤務している。その研究所の見学はちょっと前までは心躍るものだった。僕の完璧な生活に不満があるとしたら、ママに対する父のこの態度だけだ。気づいたのはつい最近。父はママにあまりにも素っ気無さすぎる。ママは悲しそうな顔をするでもなくいつもどおりだけど。
『へぇ、完璧だね。キミのママ』
最近出入りしているチャットで知り合って何度か話している奴。ママの話をするのは最近は控えてたのだけど、普段ママとしか話してないから、どうしても話の内容は限られてしまう。でも、このヒトはバカにするような態度ではなかった。
『美人なんでしょう?』
「そうだね、僕が言うのもなんだけど」
『そっかぁ。ってことはさ、キミも美形なんだ?』
「そんな、僕はそんなことはないよ」
……不細工ではないとは思うけど、僕はどちらかというと父似らしい。
細面なのはママに似てると思うんだけど、がっちりした鼻や少し厚めの唇なんかは父によく似ていると言われる。強めのくせっ毛と茶色がかった瞳の色も。父だって不細工ではないけれど、美男子とはとても言えない。頑固そうに角張った顎と口元。研究所で頭脳労働していると言うよりは、肉体労働が似合いそうな顔でもある。ママは父のどこがよくて結婚したのだろう。
「……やっぱり駄目だな」
ある夜中。トイレに起きたら父の声がリビングからもれ聞こえた。話し相手は勿論ママだろう。何が駄目だっていうんだろう。ママは完璧じゃないか。息を潜めてみた。
「リュウを少し外に出すようにしろ。お前にべったりじゃないか」
「リュウくんはいい子です」
「お前の判断は聞いてないんだよ」
「……申し訳ございません」
「お前などには問題がわからないだろう。……お前に任せた私が悪いのかもしれんがな」
なんてことを。
ママの声は聞こえない。なんで怒らないの。こんな酷いこと言われているのに。父に何がわかるというんだろう。完璧なママとの僕の生活は完璧で、僕はこんなに満足しているのに。耐えられなくなってリビングのドアを開けた。
「僕のどこが駄目だっていうんだよ。ママだってそうだ。家にろくに帰ってこないやつなんかに何がわかるってんだよ」
「……リュウ」
口を間抜けに開いたままの父は、僕がまるで異星人かのように見つめた。その目つきに吐き気がする。クラスの奴らと同じ顔。お前らに一体何がわかる。僕のママがどれだけ完璧か。僕がどれだけ満足しているか。
「お前、友達もつくらないでずっと家にこもりっぱなしだそうじゃないか」
「だからなんだよ。僕が学校に行きたくないって言った時だって何も言わなかったじゃないか」
何も言わないどころか聞きもしなかったくせに。どうしてかって聞きもしなかったくせに。
「そりゃ、お前にとって学校の勉強は物足りないだろうが、学校以外の場所でも友達なり作ればいいだろう」
何もわかっちゃいない。
「必要ないだろ」
「……お父さんの仕事は確かに自分の能力が物をいうけれど、それでもお前の年では友人は必要だろう? それにお父さんの仕事だって、チームワークってものがあるんだぞ」
「バカと仲良くしたって足引っ張られるだけだよ」
僕の完璧な家庭が壊れていく。
いや、父が壊していく。
『なるほど。キミのお父さんは完璧じゃないんだね』
暗い部屋の中で浮かび上がるディスプレイに打ち出される文字。
「まあね」
『まぁ、そうそう完璧な人間なんていないだろ?』
「そりゃそうだけど、なんでママが父と結婚したのかますますわからないよ」
こいつはあれから時々、僕の話し相手になっていた。今までの奴とちがって僕をバカにしたりとかはしない。
『完璧なママにふさわしいのは完璧なパパか。……では、キミは?』
え。
「僕は、まだ子どもだし」
何秒かの間。
『そうだよね。ごめんね。悪い意味で言ったんじゃないだ』
完璧なママにふさわしいのは完璧な父。
では、完璧なママにふさわしいのは、完璧な……子ども?
「おやすみなさい。リュウくん」
ベッドに入った僕の前髪を撫で上げて。
「ママ、なんでパパと結婚したの?」
ママはちょっと首をかしげて。
「僕、学校に行ったほうがいい?」
頬にかすめるようなキスをして。
「リュウくんは、とてもいい子よ。大好き。ママのリュウくん」
「リュウ、お前、スキップしてもいいんだぞ?」
珍しく部屋に来た父が、僕が読んでいた論文をぱらぱらとめくりながらそう言った。
「パパの時代にはなかったけど、今は、優秀な子どもなら飛び級させてくれるそうじゃないか。お前、このレベルの勉強ができるならそのほうがいいかもしれないな。何にせよ、家にこもりっぱなしじゃ健康にもよくないし」
「……ジムで体力つくりはしてるよ。ママがプログラムをつくってくれてる」
「……まぁ、お前の知能なら周りの子どもが幼く見えてもしょうがないだろう。パパがお世話になった大学の教授が、研究室を見学させてくれるそうだからちょっと見てこないか?」
「今、人工知能の研究やロボット工学の研究は数十年前から格段に飛躍し、家庭用の家政婦ロボットが普及しているのは皆さんも勿論ご存知でしょう。この研究室では企業との共同研究により、そこから更に一歩進み、見た目も人間と寸分変わらないものの開発が」
見学っていったって、見学ツアーじゃないか。なんでこんなところに来たのか、どう聞いても説明とは関係のないおしゃべりばかり囁きあってる女子達や、おそらく意味なんてわかってないだろうに、ガイドが指差す方向を首振り人形のように追って見てるだけの少し弱そうな男子。これだけ噛み砕いた説明をしてるにも関わらず理解できないのか。こいつら。自然な動作をこなすために必要な関節部品の開発、微妙な力加減を可能にするための神経回路、それらのデータを解析中のモニタを指差して「これで人工知能を開発してるんだぜ」などと、得意げに小鼻をふくらませながら隣の女子に耳打ちする奴。父は一体こんなツアーに僕を参加させてどうだって言うんだろう。あくびをかみ殺すのが辛い。培養液中に浮遊する人工皮膚や人工眼球のサンプルに、大げさに吐く真似なんて低俗すぎる。彼らと僕の共通点といえば、「なんでこんなところに来ちゃったんだろう」って部分だけだ。
「どうだい? ちょっと難しかったかな」
父がお世話になったという教授が、ツアーの終了後に声をかけてきた。
「……とてもいい勉強になりました」
僕だって社交辞令くらいは言える。
「見てのとおり、このツアーは高校生を対象としたツアーだからね」
道理で奴らの平均身長が高いわけだ。
「機会があれば、教授のラボも是非ゆっくり見学してみたいと思いました」
「……私のラボもツアーに組み込まれていたはずだが?」
「えぇ、ただツアーは視覚的にインパクトの強い人工眼球などの生体化学分野がメインに構成されているようで、教授の専門である人工知能部分はあまり時間をとっていませんでしたから。コンピューターばかりだと地味に見えるからでしょうか」
「見た目が人間に近いロボット」研究はあらゆる研究分野を統合してなし得るものだ。研究分野は細分化され、そのエキスパート達が集まり構成される。ツアーではまるで一つの研究をしている建物の中を渡り歩いてるかのように見学プログラムが組まれているが、実際はいくつもの独立した研究室を渡り歩いているのだ。
「お父さんから私の研究分野を聞いていたのかい?」
よれた白衣をなで肩にひっかけるように着ている教授は顎を人差し指で掻きながら言った。薄い肩はハンガーみたいだなと思った。
「いえ、3ヶ月前に教授がScienceで発表した論文を読ませていただきました。父も連名でしたし」
通常、連名で出される論文は、実際につくりあげた人間の名が最初にくる。実際はその論文のファーストオーサー、連名のトップに名前が来ているのは父で、教授はラストオーサーだったけど。
「君、あの論文理解できたのかい?」
……読んだと言っている人間に理解できたかなんて失礼なんじゃないのか。
「いやはや。失礼ながら、君のお父さんから話を聞いたときは親の欲目かと思っていたが。噂にたがわず、君が最高傑作だと言うのは真実だったんだねぇ」
父は一体ここで何を僕に学べと言うのだろう。
「教授に私の論文の概要を聞かせたらしいな」
どこか得意げな苦笑いをしながら父が言った。
「スキップさせるなら是非自分の研究室に来るように言っていたよ」
「つまんないツアーだったよ。時間の無駄だった。知ってることばかりだ」
「そりゃ、最先端のものはそうそう公開はしないさ」
鼻を鳴らす僕に、肩をすくめてみせて。
「だったら、私の研究室に今度は見学にくるといい」
「なにしてるの? ママ」
ママは、暗いキッチンで背筋をぴんと伸ばしたまま座っていた。じっと動かずに。ジャックはその足元にうずくまって眠っているようだった。
今夜も父は出張でいない。ママはなんでこんな時間まで起きてるんだろう。
「リュウくん、どうしたの?」
月明かりが差し込むキッチンの薄暗さの中で、ママの顔が僕に向けられる。うっすらと輝くすみれ色の瞳。
「あんまり寝付けなくて」
最近、遅くまで寝付けないことが多い。喉が渇いたから何か飲み物をと思ってキッチンに来たところだった。
「あら。じゃあ、ミルクを温めましょうね」
ママはテーブルや椅子にぶつかることもなく、すぅっと冷蔵庫までたどり着く。片手鍋にミルクを注ぎ、火にかける。砂糖をスプーンに何杯か。随分目が慣れるほどここにいたんだな。僕はキッチンの明かりをつけた。突然の明るさはわかっていても目をしばたかせる。ジャックも首を振りながら起きてきた。まぶしさにまばたきしていると、ありがとうとママが微笑んだ。いつもどおり。何をしていたのと、もう一度聞いても首をかしげて微笑むだけだった。
こんな暗がりで、じっと動かずに、一体何を思っていたんだろう。
鍋からミルクが吹き零れた。
ママは、動じることなく火を消して鍋を持ち上げ、サッと零れたミルクをふき取る。
鍋からミルクが何滴かママの手にかかったように見えた。
「大丈夫?」
「何?」
慌ててママの手をとると、やっぱりこぼれたミルクの跡が残っていた。冷やさなきゃと、水道の水を出し、その手をもっていく。赤くはなっていないみたいだ。
「痛くない?」
「大丈夫よ。リュウくん。ちょっとだけだったから熱くなかったもの」
飲んだら寝ましょうねと渡されたミルクは、なかなか飲めないほど熱かった。
ママだって疲れてるのかもしれない。父は全くママのことを見もしない。まるでいないみたいな態度。
『パパも色々と考えることがあるんじゃないのかい?』
「そりゃそうだけど、ちょっと酷いよ。ママは何も悪いことしてないんだから」
『君にはまだわからないかもしれないけど、大人同士のことだってあるんだし。どっちかが一方的に悪いってことはないと思うよ』
「……ママに悪いことなんてないよ」
『ああ、気を悪くしたらごめんね。でも、そんなに完璧じゃなくてもいいんじゃない? 完璧じゃなくたって、ママのことは好きだろう? そうじゃないのかい?』
「そんなことはないけど」
誰もそんな話なんかしてないじゃないか。でもまぁ、相手は僕のママを直接見てるわけじゃないし。僕を直接知ってるわけでもないんだし。今まで話してきた相手よりずっとマシだから、この程度でむっとしたりなんかしない。それほどは。
『もしかしたらさ、パパは君とママがあんまり仲がいいからやきもちでもやいてるんじゃない?』
「やきもち?」
『そうそう。だからさ、ちょっとパパの研究室とか行ってみたら? 君がパパと仲良くしてあげればパパもママに優しくするかもよ?』
そういうものなんだろうか。それってすごく子どもみたいじゃないか。
それでも一応試しに父の研究所を訪ねてみることにした。突然だけど、この間来いって言ったばかりだし。何度か行った事あるからというか、最近は行ってなかったけど、小さい頃はよく通っていた。ベルトの上に腹肉が乗っているガードマンのおじさんが「久しぶりだな」と、僕の頭をぐしゃぐしゃとかきまわして通してくれた。本当なら来訪者は事前に許可がないと入れないことになっていて、セキュリティには厳しいはずだった。花形産業の基盤となる研究所なんだからそれも当然だろう。
父の部屋の場所に向かう。廊下に面する曇りガラスのドアをあければ秘書室があり、その向こうが父の部屋だ。父の部屋は近代的な研究所のほかの場所とのつくりとは違い、父の好みで重厚な飾り模様のついた木材のドアを使っていた。秘書は席をはずしているようだった。まだあの秘書を使っているのだろうか。ちょっとけばけばしくて僕はあまり好きじゃないからほっとした。なんだってあの秘書はいつも猫撫で声で僕に話し掛けるんだろう。僕がまだ赤ちゃんだとでも思ってるのだろうか。秘書のデスクを通り過ぎるとき、なにかいい匂いがした。父の部屋のドアをノックする。僕であることをドア越しに告げると、秘書がスーツのジャケットのすそを引っ張りながら笑顔を張り付かせてドアを開けてくれた。ほんのちょっぴりだけ赤い頬。ふわっと湿った空気とともに流れてきた香り。
あまりにもつけすぎているのか強い香りだけど。
「来るなら前もって行ってくれれば迎えをよこしたのに」
「別に一人でこれるから。……都合悪かった?」
「いや、一時間後に来客があるんだ。それまでなら付き合うが、その後は別の誰かに案内させよう」
「あの秘書の人は嫌だよ」
「どうして」
「臭いから」
あまりに見開いた目にこっちが吹きだしそうになった。
「失礼だろう」
聞こえていないかどうか伺っているのか、父はドアの向こうにちらちらと目をやった。
「つけすぎなんだよ。香水。ママみたいにちょっとだけにしたらいいのにさ。……せっかく同じ香水なんだから」
父は眉をひそめて。先に目をそらすもんか。じっと見つめてやる。
「……あいつは香水なんてつけていたか?」
「適当に一人で見て回るからいいよ。このIDカード借りるよ」
父の胸のカードを奪い、さっさと部屋を出た。最低だ。
下っ端の研究員なら入れない部屋もあるはずだ。でも父のIDカードならかなりの部屋に入ることができる。もっとも、全員知らない人ばかりの部屋なら不審がられるだろうか。まぁ、いい。別にそんなにあちこち見たいわけじゃない。研究施設を見たくてきたわけじゃない。父と仲良くしたくてきたわけじゃない。
片っ端からドアを開け、一通り眺めた。殆ど通り過ぎるだけな勢いで見て回ったけど。それでもやっぱり久しぶりに来たここで繰り広げられている光景はわくわくさせるものだった。勉強だって、父の仕事と同じことをしたいってのだって、押し付けられたわけじゃない。僕はやっぱりこういうのが好きなんだと思った。父の顔を見たくはないけど、ここが今世界で最先端の技術を誇っている研究施設なのは誰もが知っていることだ。ツアーでの説明にもあったようにいまや各家庭には家政婦ロボットが普及している。シルエットは人間と同じものすらある。ただ、それの肌はマネキンと変わらず、動作もぎこちない。ぎくしゃくと動き表情を変えないロボットが夜中うろうろしてる様が不評だし、まだ高価すぎる。大体の家庭に普及しているのは昔ながらの機能的デザインのロボットが殆どだ。大学の研究室で培養されていた人工皮膚や関節を備えたロボットなんて、まだどんな金持ちも手に入れてないことだろう。でも、ここの研究所ではその「完璧に人間に見えるロボット」の開発を続けているはず。毛細血管さながらに複雑にからみあったコードとメタルに輝く骨格をもった肘から上の部分だけが実験台の上に突き出ている。そのテスト動作は、オーケストラの指揮者のように滑らかだった。腰から下だけの骨格が歩き、しゃがみ、跳ねる。この技術は義足や義手に既に使われている。もっとも、本来はそっちがメインの目的だったのだろうけど。生体工学分野スペースの匂いはちょっと苦手だ。培養液の匂いにあふれている。
知らない人ばかりの部屋だったら追い出されるかもとも思ったが、なぜかみんな僕の顔を知っているようだった。ちょっと驚いた顔をして「ああ、所長の息子さんか。見学かい?」と笑った。父は僕の写真でもみせびらかして歩いてるのだろうか。全然イメージに合わないけど。
のんきにそう思った。最後に見た部屋のドアを開けるまで。
直径20センチほどのガラスの円筒の中に満たされた培養液の中には、茶色の瞳の人工眼球。
それが6本。神経を30センチほど伸ばしたままぷかぷかと浮かぶ眼球が二つずつ入ってる。
幅が40センチほどの水槽の中には、目と鼻、口の部分に切り込みの入ったマスクがマネキンの台座らしきものに張り付いたまま沈められている。
その横には、そのマスクを最終的につけるであろう骨格のみの頭部。
同じように腕の骨格。足の骨格。胴体の骨格。腕と胴体をつなぎあわせた上半身だけの骨格。
既に人工皮膚が貼り付けられている腕だけが、肘から上にコードを這わせたまま動いている。滑らかに。その動作をチェックしながら、キーボードを叩く研究員達。
僕の存在にはまだ誰も気づいてない。
彼らは、僕を見ながらチェックしているというのに。
部屋の一番広いスペースには歩行動作チェックを受けている『僕』がいる。
どうやって家までたどりついたのか覚えていない。玄関のドアを叩き開け、トイレに駆け込んだ。昼に食べたパスタが変わり果てた姿で出てきた。これは消化しているということだ。それに少し安心を一瞬覚えるけど、果たして最新のロボットは、消化機能も備えているのだろうか。今まで読み漁った論文が頭の中をかけめぐる。胃液は? 涙は? 鼻水は? そこまで研究は進んでいるの?
「そりゃ、最先端のものはそうそう公開はしないさ」
父の言葉が耳鳴りとともにこだまする。
ふらふらとトイレを出て、自分のベッドに倒れこんだ。
ぶぃぃいんっとどこからか機械音。
寒気とともに辺りを見回すと、PCが起動していた。つけっぱなしで出かけたんだったろうか。
メッセンジャーソフトまで立ち上がってる。
ちかちかと、メッセージが送られているのがわかった。
『やぁ、元気かい? この間はちょっときつい言い方したかなと思って』
『どうしたの?』
『退席中かな?』
次々と打ち出されるメッセージをぼんやりと眺めた。
ノックの音。ママだ。
「リュウくん? どうしたの? パパの研究所に行ってたんでしょう? 入っていい?」
ドアをあけると、いつものママ。結い上げた黒髪、ふんわりとかすかに漂う甘酸っぱい香り。眉を心配げにひそめ、首をかしげたママは、僕の顔をみるなり、いっそう眉間のしわを深くした。
「泣いてたの? 具合悪いの? 嫌なことがあったの?」
しゃくりあげて言葉が出ない僕の肩を軽く押し、ベッドに座らせてくれた。ママは横に座り、いつものように耳たぶを軽くつまんでから、そっと頭を抱きかかえてくれた。髪を手櫛ですきながら撫でてくれる。
あの部屋で見た『僕』には、まだ髪の毛はついていなかった。これから茶色のくせっ毛を植え付けられるのだろうか。
首の後ろからはまだコードがにょっきりと生えていた。素っ裸で、歩行時の関節の動き、そのなめらかさをチェックされていた。僕の眼からみても、それは合格ラインだっただろう。肘、腰、膝あらゆるところからコードが生えていなければ、鏡の中の僕となんらかわらない。
ママの柔らかな指先の感触。シャツの首元から覗く鎖骨から伸びる首の筋肉のライン。頬を押し付けた胸からは規則正しい鼓動の音。
僕と同じ。僕はママと同じはずだ。
とんとんと優しく背中を叩き続けるリズムに呼吸が合ってくる。
「落ち着いてきた? ミルクを温めましょうか」
「……パパの研究所に行ってきたよ」
「ええ」
「……僕がいた。僕とそっくりなロボット」
「……そう」
「なんで僕とそっくりなロボットなんて作るんだろう。気持ち悪いよ」
とんとんと叩く手が止まった。
「ミルクを温めましょう? ナッツ入りのマフィンも。リュウくん、好きでしょう?」
ぎゅうっとママに強く抱きついた後に、頷いてみせた。
「大好きよ。ママのリュウくん」
ママは僕の頭にほお擦りしながら抱き返してくれた。
ジャックがシッポを振りながら、ママの膝に顎を乗せて無邪気に見上げている。
「ジャックが仲間に入れてって顔してるね」
そう言ってちょっと笑った。
ママはジャックを引き連れて、キッチンへ向かった。涙の乾いた跡がちょっと痒くて、軽く引っかきながらモニタに向かった。
「ああ、ごめん。今帰ったとこ。立ち上げたままで出かけちゃったみたい」
『出かけてたんだ? もしかしてお父さんの研究所?』
「行かなきゃよかったよ」
『なんで?』
「ちょっとは仲良くなろうかと思ったら最低だった」
『随分穏やかじゃないね』
「だってさ、僕そっくりのロボットとか作ってたんだよ?」
『君そっくりって? 今そんなロボットって作れるものなの?』
ふん。最先端の技術の秘密なんて知るものか。
「どういう神経かわからないよ。僕そっくりのを作るなんて。一瞬僕までロボットなのかと思ったくらい」
『ほんとはそうだったりしてw』
ずきんと胸が痛んだ。
『どうしたの? なんか悪いこといった?』
「べつに」
『君がロボットかもって? やだなぁ。冗談に決まってるじゃないか』
「わかってるよ」
『君、自分の爪切ったことある? 床屋に行ったことは?』
「あるにきまってるだろ?」
『ほら、ロボットの爪や髪が伸びるわけないじゃん。それともそこまで今のロボットって進化してるの?』
「さぁ? 知らないけど。そこまではないだろうね」
『怪我をしたことは? 血が出たことは?』
「だからわかってるってば。冗談なのは」
『心配ならさ、指を切ってみたらいいんじゃない?』
「少ししつこいよ。わかってるってば」
『ごめんごめん。まぁ、君のママみたいに完璧なら、ロボットみたいとかも思うかもだけど』
「ごめん。ちょっと疲れてるから落ちるね」
なんで今日に限って、こいつはこんなに失礼なんだろう。PCの電源を落として部屋を出た。
キッチンからは、とんとんとんと小気味よくナッツを刻む音が聞こえてくる。オーブン皿には、生地の入ったマフィンの型が並んでる。
とんとんとんとん。
ママは僕が後ろに立ってるのに気づかない。ジャックはいつもどおりママの足元にうずくまってる。
とんとんとんとん。
この包丁で、僕の指を切ったら。
すぅっと、ちょっとだけ。
血は、ちゃんと出るだろうか。
「ママ、もう少しでできる?」
とんとんとんとん。
「ママ?」
とんとんとんとん。
「どうしたの? ママったら」
とん。
ママがゆっくりと振り向いた。僕の顔に気がつくと、にっこりといつもの微笑み。
ママ。
ママ。
「……ママ?」
「もうちょっと待ってね。このナッツをかけて後は焼くだけだから。先にミルク飲む?」
ママの人差し指が切り落とされている。
刻んだナッツの中に、爪の半分ほどもついた指先の欠片。
「ママ、指が」
ゆっくりと視線を、まな板と包丁のある手元に戻すママ。
「……ああ、大丈夫よ。痛くないから」
その断面は、つるりとした肌色で。
さっきまで僕の髪をすいていた柔らかな指先。
僕の肌と同じ感触。
同じ筈。
「血、出てないね」
「ええ」
「痛くないの?」
「痛くないわ」
完璧な僕のママ。
そのママの指先が欠けている。
「もっと切っても、痛くないかな」
「さあ」
「血、出ないかな」
「……出ないわ」
「見せて」
ママは不思議そうに首を傾げてみせる。ああ、いつもどおりに。
がりっ。
まな板におかれたママの指先に包丁が食い込む。人差し指の第一関節。
関節の部分で止まったらしい。
血は、出ない。
ママは、クッキングはさみをとりだした。
鶏がらのスープを作るときに、骨ごと鶏肉を切り落としてるのを見たことがある。
すとん。
床に、ママの指先が転がった。
「もっと」
すとん。
今度は中指の先。
その次は薬指。
「そんな先っちょじゃなくて」
第二関節。
断面は、肌色だけではなく、赤い血管らしきものの断面も見える。
けれど、血は、出ない。
手首。
ごりごり、めき。
ぱちぱちっと火花が散った。
けれど、血は、出ない。
「ママ、痛い?」
「いいえ」
完璧なママ。
僕の完璧なママ。
床に転がるその指先のかけた手首。
がりがりと肘に食い込むはさみ。
ジャックが、きゅぅうんと細い声をあげ、転がる手首を鼻先でつついた。
完璧なママ。
完璧な僕の家庭。
『完璧なママにふさわしいのは完璧なパパか。……では、キミは?』
では、僕は?
まな板にのる包丁をつかむ。
ママは止めようとして。
僕の手をつかもうとして。
でも、そのママの腕にはもう手首がなかった。
血が、吹き上げた。
しぶきがキッチンの窓に弧を描いて飛び散る。
僕の肘の内側から手首にかけて走った傷口から、どくん、どくんと脈打つリズムにあわせて吹き出る。
腕は熱いのに、すぅっと首の後ろが冷たくなった。
目の前にキッチンの床が広がっていて、僕は倒れているんだなってわかった。
ごぉごぉと響く耳鳴り。
「リュウくん、リュウくん」
ママの声が遠くから聞こえる。
重たい目蓋をこじ開けると、タオルで僕の腕を縛りつけようとしていた。
けど、片手ではなかなか上手くいかなくて。
「大丈夫だからね。リュウくん。大丈夫だからね」
僕は太ってはいないけど、身長はもうママの顎まで来ていた。
ママは僕を背負って走っている。
どうして車を使わないんだろうとぼんやりと思った。
細く頼りなげなママの背中は、それでも、心地よかった。
「すぐ病院につくから。リュウくん、大丈夫だから」
すぐ近くのかかりつけの病院に向かっているのだとわかった。
そんなわずかな時間だったのに、いきなり雨が降り出した。
ママの肘と手首からパチパチと音がする。
僕にその腕があたらないように、傷ついていない腕だけで僕を支えていた。
「全く。なんだってこんな馬鹿な真似を」
もう三度目の父のつぶやきにうんざりした。
出血がひどかったけれど、神経に傷はついてないとのことだった。
僕は、空模様の壁紙が貼られた病室のベッドに横たわっている。
「ママは?」
4回繰り返して、やっと父はそれに答えてくれた。
「研究所だよ。プログラムも調整しなくては。全くなんだって……」
父が今開発しているのは、子どもの遊び相手ロボットらしい。
その前に開発していたのは、母親の代わりもできる家政婦ロボット。
ママは、そのプロトタイプ1号だった。
僕を産んだ母は、僕が1歳になる直前に事故で死んでしまった。父の書斎に隠されていたアルバムには、ママそっくりの『母』が、赤ん坊の僕を抱いて写っている。
車の運転ができない母は、父がいない晩に高熱を出した僕を抱えて雨の中病院へ走ったことがあると父が呟いた。ママはそれを知っていたのだろうか。そう聞くと、なんでロボット相手に思い出話なんてしなきゃならん、と不愉快そうに話を打ち切った。
病院から戻ると部屋のPCはまた電源がついていた。
『やぁ、無事でよかった』
「君、誰?」
『いやだな。今更。ずっと一緒だったじゃないか。君の友達だよ』
「友達?」
『そう。君はママのことばっかりだったけどね。僕だって君のママと同じなのに』
PCの電源を即座に落としてそのまま窓から投げ捨てた。
「リュウくん、おやつできたわよ」
湯気を立てるホットミルク。バニラアイスを添えたアップルパイ。
さらりと流れる黒髪をすっきりと結い上げて、シミもシワもない肌にはうっすらと薄い化粧を施した完璧な顔で今日もママは微笑んでいる。ジャックは僕の膝に顎をのせて座っている。僕は父の勧め通りにスキップして大学に通い始めた。中学校よりはまだマシ。
僕のママは今も完璧だ。
けれど、もう僕の耳たぶをつかんではくれない。
「大好き。ママのリュウくん」
そう、言ってはくれない。




