第62話「彼と彼女の相違」
幼馴染み。
その言葉を吐いた瞬間、大空木葉はいささかの後悔を覚えた。
なぜなら、今の言葉を遥斗が聞いているのはわかっていたからである。
せめて、「今は」幼馴染み、と付け足しておくべきだった。
けれど、もう遅い。
木葉は横目で夜雛と歩く遥斗を見るが、そこにはもう彼の姿はなかった。おそらく物理準備室に向かうために階段か何かを使って移動しているのだろう。
たしかに今の発言には後ろめたさがある。だが、あれ以外に何と言えば良いのだろうか。
ふと考えてみるが、木葉には分からない。
バレンタインから二日ほど過ぎた、あの日。木葉は遥斗に告白をした。
十年前に初めて会ったあの日から、ずっと好きだったと。
だけど、この気持ちは木葉の一方的なものだ。遥斗が木葉のことを好きになってくれるかどうかは、遥斗にしか分からない。
だから、現時点では『幼馴染み』、その言葉が適切だと感じて口にした。結果は分からない。それが本当に適切かどうかは遥斗の感じたかたによるから。少なくとも、言った木葉自身は後悔しているが。
などと思いながら、木葉は風山の隣を歩く。
「ねえねえ、木葉ちゃん、今日さ、仕事終わったらカフェとかいかない? ちょっとだけでもいいから遊ぼうよ」
どこかすかした声音でそう言ってくる風山に、木葉は笑顔を維持しながら返答する。
「いやあ~、今日は寒いし、そんな気分じゃないですよ。できれば、また後で誘ってくださいね」
とは言うものの、木葉の心情としては、これ以上の誘いは迷惑だった。
正直、木葉はこの手の男子生徒は苦手なのだ。
転校して間もない頃に、柏崎という男子に絡まれたことがあったが、あの時は遥斗と揉めたこともあったが、結果としては流れに乗せられてそのまま遊びに行ってしまった。途中で遥斗が連れ戻しに来てくれたが。
でも、今回はそうもいかない。
なぜなら、ここ最近の遥斗はおかしいからだ。いや、彼がおかしくなるような原因を作ったのは木葉――いや、木葉たちだ。
自分たちの気持ちを遥斗にぶつけ、その返事を待っている。そんなことがあれば、誰だっておかしくなってしまう。
だからこそ、遥斗には相談できない。風山とどう距離をとっていいのか、を。
遥斗にこれ以上、迷惑をかけることはできない。
時折遥斗が、木葉と風山が話しているのを見てくるが、遥斗は別段何も言ってこない。おそらく、木葉と風山が仲良く話しているように見えているのだろう。
もしそうならば、遥斗に余計な迷惑をかけていないため、木葉としては安心できる。でも、木葉自身の心情としては、不躾にパーソナルなところにまで踏み込んでくる風山から助け出して欲しいのだ。
「…………実行スタッフが終わるまでの辛抱だから……」
つい言葉がもれてしまった。
隣を歩く風山がすかさず反応する。
「ん? 辛抱? 何か言った?」
「え、えっと、……数が多くても、辛抱強く審査の仕事を頑張んなきゃな、って言ったんですよ」
「ああ、そうだね。たしかにそうだ。技術室での審査は僕たち二人っきりの仕事なんだし、辛抱強くしっかりやらないとね」
咄嗟についた嘘を信じてくれたようだ。
だが、風山の言い方が、無性に気持ち悪く感じだ。こういうところも、彼と距離を置きたい理由のひとつだ。
木葉の好きな人――奥仲遥斗なら、決してこんなことは言わないだろう。
たぶん、「そうだな。仕事頑張ろうぜ」などと返してくるはずだ。
木葉は小さくため息を吐くと、風山に調子を合わせる。
「そ、そうですね。仕事はしっかりしないといけませんよね」
遥斗に心配をかけたくないと作った笑顔は、どこか不自然で疲れの色が滲んでいた。
***
幼馴染み、か。
俺はその言葉を頭の中で繰り返していた。
木葉が口にしたその言葉は間違いではない。たしかに俺と木葉は幼馴染みだ。
けれど、いざ実際に言われてみると、心に響くものがある。ここ最近感じているモヤモヤとした感情が一層強くなった気がした。
俺はかぶりを振って、その思考を一時中断させる。
これから河橋さんと一緒に審査の仕事をしなければいけないのだ。先ほどのことをあれこれ考えて、足を引っ張りでもしたら申し訳ない。
森閑とした廊下を、河橋さんと一緒に歩き、ようやく物理準備室までやってきた。
十畳ほどある物理準備室は暗幕で日光が遮られているため、とても薄暗かった。加えて、薬品の匂いなのか、どこか外の空気とは匂いが違うように感じだ。
俺は壁に埋め込まれているスイッチを押し、電気をつける。
準備室の中央には大きな長机が一台置かれ、その上に授業で使うと思しき数枚のプリントが置かれている。
河橋さんは手早くそれをどかすと、俺と河橋さん自身の椅子をそれぞれ用意した。
「それじゃあ、もう少しで審査開始の予定時間になりますので、はじめの方が来るまで少々待っていましょうか」
「あ、はい。そうですね」
俺は言われるがままに従い、河橋さんの隣に腰を下ろした。
河橋さんの爽やかな甘い香りが、俺の鼻腔を刺激し、いささかの緊張を覚える。ちらと横目で彼女を見やる。
河橋さんは持ってきた名簿に目を落とし、下がってきたメガネを中指でくいっと持ち上げた。彼女の容姿が整っているということもあり、その仕草はとても画になっていた。身体中から滲みる知性の雰囲気が、その仕草ひとつに凝縮されているとさえ感じた。
そんなことを胸の中で思っていると、ふと河橋さんと目があった。
「あの……何ですか?」
どこか訝しむような声音と瞳。
俺は瞬時に言い訳を考える。しかし、何も出てこない。これといった理由なく見ていたからだ。
「えっとですね……。ああ……。いやあ、なんでもないです。ただ、何となく見てました。はははは、すみません……」
気持ち悪い理由を口から吐き、俺は素直に頭を下げた。
「いえ、別に謝らなくて良いですけど、ちょっと気になったもので」
「あの、このペア決めって、河橋さんが行ったんですか?」
「はい? ええ、そうですが」
「なら、どうして河橋さんは俺とペアになったんですか? いや、別に嫌だとか言ってるわけじゃなくて、ただ純粋に何でかなあ、って思っただけで。他意なんてありませんから!」
俺はあらぬ誤解を受けないようにと、必死に付言した。更には、大きく身振り手振りをする。
「そのことですか。実はこれ、私が決めたと言っても、完全ランダムなんですよ」
「ランダム?」
「はい。あまり仲の良い人ばかりで固まると、仕事に緩みが出てしまうかなと思ったので、ランダムで決めました。メンバーをあみだくじに並べて、適当に決めたんです」
「なるほど、そういうことだったんですか」
これで合点が言った。そりゃ、完全ランダムでもなければ、河橋さんが俺と組むわけ無いからな。
「適当な仕事に見えますか?」
「……え?」
いきなり問われたその質問に、俺は小首をかしげた。
「私の仕事ぶりは、適当な仕事に見えてしまいますか?」
「それってどういう意味ですか?」
「そのままの意味です。中途半端な仕事ぶりに見えてしまうか、ということです」
そう言った河橋さんの目からは、疲労の色が浮かんでいた。
河橋さんは現行の生徒会長だ。卒後祭実行スタッフのリーダーでもある。だから当然、俺たちのしている仕事よりも多くのことをしている。卒後祭の会場スタッフとの連絡、割くことのできる予算、欠員が出た際のヘルプ。挙げればキリがないほど仕事に追われている。
そんな河橋さんの仕事ぶりが適当? 中途半端? なぜそう思うのだろうか。
「どうしてそう思うんですか?」
「自信がないんです。今まで、生徒会では書記をしてました。リーダーシップなど発揮することのない役職です。ですが、そんな私が現在生徒会長をしています。私の意思で立候補し、当選しましたが、自分の仕事ぶりがはたして適切なのかわからないのです」
そこで言葉を区切ると、河橋さんは視線を右下に固定する。
「先代の生徒会長は、それはもう仕事のできる人でした。どんな仕事にも手を抜かず、しっかりと職務をまっとうする人でした。しかし、私はどうなんでしょうか。自分と先代生徒会長を比べてみると、足元にも及ばないと感じてしまいます。今回の卒後祭実行スタッフだって、私が欠員したメンバーの体調管理をしっかりとしていれば、あなたがた萬部にご迷惑をかけることだってなかったのですから」
「別に、迷惑なんてことないですよ」
これが萬部の仕事なのだ。普段は遊んでいる代わりに、誰かに頼まれたらその仕事を受ける。それが部が存続している意味であり、条件だ。
「あら、意外にも優しいことを言ってくれるんですね、奥仲くん。私はお世話になった先輩のために、本当にこの卒後祭を良いものにしたいんです。いえ、しなければいけないんです。だから、教えてください。傍目から見て、私の仕事ぶりは適当――中途半端に見えますか?」
河橋さんの引き締まった唇から放たれたその質問への返答は、彼女の心を安心させるためには必要なものだと瞬時に悟った。
実際俺は、河橋さんは中途半端に仕事をしているとは思っていない。
だから、俺はそれを素直に口にする。
「河橋さんはきちんと仕事してますよ。中途半端なんかじゃありません。ですけど、強いて言うなら、先代の生徒会長への対抗心とか恩返しをしたいっていう気持ちが強くて、これから空回りしてしまいそうな感じはしました。だから、少しだけ肩の力を抜いて、ちょっとだけでもいいので視野を広げて仕事に望んだ方がもっと良い仕事ができるかもしれませんね」
俺ごときが何を言っているんだと思ったが、口に出した言葉は紛れもない本心だ。
布は力を入れて伸ばしていればすぐ切れる。たぶん、人間だってそうだ。肩肘張った状態で何かに臨めば、きっと変なところで切れてしまう。ミスをしてしまう。
「忠告ありがとうございます。そうですね。肝に銘じておきます」
「はい。俺も卒後祭を良いものにするように頑張りますから」
「頼もしいですね。さて、それではもう時間です。そろそろ来る頃かと」
俺たちは会話を終了し、長机を隔てて正面――扉を見つめる。
自分のことや木葉のことばかり気にしていたけれど、そんなことに気を取られている間に、河橋さんは卒後祭を良いものにしようと考えていたのだ。
なら、その依頼を引き受けた俺が、中途半端な仕事ぶりでどうするというのか。
俺は静かに息を吐くと、小さく頷いた。そして、
コンコンと木製の扉をノックする音が、物理準備室に響く。
こんにちは水崎綾人です。
今回は特別話が進んだわけではありませんでしたが、木葉がどういった思いをしているのかと言うのが垣間見えたかと思います。
それでは、また次回。




