第31話「転校生と怯える遥斗」
お前は…覚えている…
お前の名前は…
「花美……静夏」
遥斗の声は、小さく擦れ、今にも消えてしまいそうなものだった。
「どうしてお前がここに…」
それが遥斗の素直な気持ちだった。
なぜなら静夏は高校入学と同時に神ケ谷市から離れ、遠いところへ引っ越したからだ。
もう、会うことは無いと思っていた静夏との出会いは遥斗にとって「悪夢」と言う言葉以外では表すことは出来なかった。
「どうしてって引っ越してきたんだよ。こっちに」
静夏から発せられる声に身体が反応し、気持ち悪くなる。
悪い夢を見ているようだった。
泥沼にはまったまま動けなくなるような感覚。
気持ち悪いそれしか表現できない。
「遥斗くん…どうしたんですか?」
雅も不安そうに遥斗を見る。
「あれ、彼女?」
静夏が口を動かす。
「ち、違う…」
ゆっくりと首を左右に振る。
今にも倒れそうな身体を気力で保ちながら言う。
「何?まだあの時のこと気にしてるの?」
――あの時のこと
それはきっと中学二年生の時のあの出来事のことだろう。
遥斗が中学時代を嘲笑と哀れみの中で過ごした原因となったあの事件のことだろう。
遥斗の脳内では静夏の質問への返答を必死に検索していた。
当たり障りの無い回答、嘲笑されない回答次々と脳内で答えを探していく。
ようやく掴みかけた安心出来る場所。
それを壊したくない。遥斗は心から願った。
「そ、そんなの全然気にしてないよ」
遥斗の導き出した回答だ。
未だ静夏に対する警戒心は解けない。
二人の間にただならぬ空気を感じた雅は、遥斗に声をかけた。
「は、遥斗くん。そろそろ…」
その声で我に帰った遥斗は雅を少しの間見つめた。
今の自分が決して壊したくないものの一部を。
「そ、そうだな。じゃあな、花美」
言うと、静夏の横を通り抜けて駅を目指そうとする。
すると、
「ちょっと待ってよ」
優しくも、遥斗にとっては恐怖の声が聞こえる。
「奥仲って確か緑ヶ丘高校だったよね?」
「そ、それが何か?」
「私、来週からそっちに転校するから。よろしくね」
電撃が身体を貫通するかのような感覚が走った。
悪夢は終わっていなかった。
静夏が転校してくると言うことは顔を合わせる機会が増えるかもしれないと言うことだ。もっと言えば同じクラスになる可能性だってあるわけだ。
その瞬間。わずかだが遥斗の両足から若干の力が抜け、バランスを崩した。
「だ、大丈夫ですか?遥斗くん」
遥斗を介抱するかのように雅は遥斗に手を貸す。静夏を横目で睨みながら。
雅には遥斗に昔どんなことがあったかなんて分からない。でも、今目の前にいるこの花美静夏なる人物が関係していることは容易に想像出来た。
睨まれた事に気付いた静夏は少しだけ両肩を竦ませ、おどけて見せた。
「そ、その時はそうだな」
遥斗は言葉を紡ぎ雅と一緒にその場を去った。
静夏と離れ少したった時だった。
雅が突然言い出した。
「すみません。電車の時間が間に合いそうも無いので、私走りますね。遥斗くんはここまででいいです。今日はありがとうございました。体調も悪そうなのでゆっくり休んでくださいね」
言うと雅は小走りで駅の方へ走り出した。
これは雅なりの優しさだった。多分自分がいると遥斗は今、強がってどんどん自分を苦しめてしまう。そう思ったのだ。
一方、遥斗はおぼつかない足取りでゆっくりと一歩一歩前へ進んだ。
◇
「ただいま…」
力ない声が玄関先にこだまする。
そのまま何も言わずに自分の部屋を目指した。
部屋に着くと向かう場所は自分のベッド一択だった。
遥斗は悪夢から覚めるために寝ることにした。
この悪夢がすべて夢で、明日になったら全部夢であったと笑えることを願って。
◇
遥斗は廊下を歩いていた。文化祭実行委員の仕事があるのだ。
廊下の角を曲がり会議室を目指す。
ガラガラと会議室の扉を開けるとそこには、木葉と雅だけが立っていた。
「どうしたんだ?」
いつものように彼女らに声をかける。
「「…」」
返事はない。
なにか様子がおかしい、そう思い彼女らの方へ歩み寄っていく。
そして彼女らは遥斗から遠ざかるように後ろに下がる。
「お、おい本当にどうしたんだよ?」
さらに歩み寄る。
だが、また遠ざかられる。
その時だった。
――クスっ…
さらっと流れた乾いた鼻笑いだった。
それは、また一つ、また一つと増えていく。その笑いは木葉、雅から発せられたのだ。
あたりを見れば人が増えていく。莉奈先輩、須藤、香織、神崎、津上などいろいろな人が遥斗を囲んで立ち尽くしている。
その誰もが遥斗のことを見てクスクスと笑っている。
「な、何だよ…何がおかしいんだよ?」
誰も答えてくれない、ただ笑っているだけだ。
彼らの後ろには誰かが立っているのが微かに見えた。
ようく目を凝らしてそれを見つめる。
よくわからない。黒くぼやけているのだ。
だが、すぐに分かった。
遥斗を囲んで立っていた人間が両側に分かれ道を作った。
その道を通ってその影が遥斗の方へ歩み寄る。
その顔には見覚えがあった。
ついさっき出会ったばかりの人物だ。
「あんたとなんか付き合う訳ないでしょ…」
含み笑いを浮かべた声が放たれた。
「――っ」
クスクスクスと再び広がる笑い声。
全身が凍るような感覚が蘇る。
「なんで、この学校に…?」
口角を少し釣り上げ言う。
「言ったじゃない。来週からそっちの学校に転校するって」
「――っ」
笑い声は続いている。
その中には木葉も雅もいる。
「木葉、雅…?」
不自然に冷たい目をしていた。俺の知っている彼女たちではない。
どこか、冷たく嘲笑しているその目。中学時代に経験したあの目だ。
先に木葉が口を開いた。
「遥斗…ごめん。面白いわ…」
「――なっ」
続けて雅も口を開いた。
「遥斗くんいや、セクハラくん。哀れですね…」
「そんな…」
遥斗は床に両の膝を突き、頭を落とした。
彼女たちからの言葉は遥斗にとって絶望的なものだった。
「遥斗…もう話しかけないで。私まで馬鹿みたい思われるじゃん」
「私もです。セクハラくん。これからは部員でもなんでもない他人と言うことで」
遥斗に背を向け歩き出す二人。
それを遥斗は必死で追いかけようと足を動かす。だが、動かない。
必死に足に動くように命令をしてもまるでいうことを聞かない。
「ちょっと、待って、待ってくれよ…。木葉、雅…待って…」
手を伸ばすが彼女たちには届かなかった。
真っ暗に閉鎖された空間には嘲笑の笑い声だけが響いた。
「嘘だ…そんなの。何なんだ、こんなの…嘘だ、嘘だ、嘘だぁぁぁぁぁ」
どこまでも響いていく遥斗の叫び声。無情な響きは留まることを知らなかった。
「大丈夫?お兄ちゃん」
遥斗のすぐ横には妹の楓が心配そうな表情で立っていた。
当の遥斗はベッドの上だ。
「夢…か…」
気づけば寝汗をひどくかいていた。
シーツ、枕、パジャマともにグッショリだ。
遥斗は額の汗を自らの腕で拭う。
「はぁ、はぁ、はぁ。悪夢だ…」
月曜の朝。時刻は7時30分。普段ならば楓は中学校に向かっている時間のはずだ。
「お前学校は?」
「お兄ちゃんがうなされてたから心配で見に来たんだよ?大丈夫ならもう行くから」
言われて気付いたが、確かに楓は中学の制服を着ていた。
楓はそう言うとそそくさと遥斗の部屋をあとにし、学校へと向かった。
「俺も準備しなきゃ…」
と、ベッドから降りようとした時だった。
俺の脳内で土曜の帰り道の出来事とさっきの夢がフラッシュバックした。
今週は花美静夏が転校してくると宣言した週だ。
それにさっきの夢。静夏が転校してくればさっきの夢が正夢になる可能性だってある。
ゆっくりとベッドから出て、制服に着替え始める。
確かに怖い。もう学校には行きたくない。
だが、学校に行かない理由にはならない。遥斗は気乗りしないが、さらに準備を進めていく。
朝食もいつもどおりに取り、いつもどおりに家を出た。
そう、いつもどおりなのだ。このままいつもどおりを続ければきっと何もないはず。そう願って。
◇
朝のホームルームが始まった。
いつもどおりに遥斗の隣には木葉が座った。
薫先生は何やらニコニコしながら教室に入ってきた。
そして、教卓の後ろに立つとこう言った。
「今日はまず、みんなに言っておかなければならないことがある」
ざわめき始める教室内。
同時に生唾を飲む遥斗。
「実は。転校生が来ている」
歓喜にも似た声が教室内に響いた。
転校生。その言葉は遥斗の心に深く響いた。
「では、入ってきたまえ」
薫先生が言うと、教室のドアが開かれ一人の女子生徒が入ってきた。
案の定、遥斗の予想は当たっていたわけで、入ってきたのは花美静夏だった。
彼女は持ち前の清楚な雰囲気で既に教室内の男子の心をわし掴みしているようだった。
あちこちから男子たちの叫び声が聞こえる。
これは木葉が転校してきたときと非常に酷似していた。
「――っ」
隣の席の木葉も後ろの席の須藤も誰も遥斗の様子に気付くことなく転校生へと拍手を送る。
「それでは自己紹介を頼む」
薫先生が指示を出した。
すると静夏は美しい文字を黒板に披露した。
丁寧に均一に揃ったその文字は『花美静夏』と書かれていた。
「花美静夏です。中学の時まではこっちに住んでいました。皆さんと早く仲良くなりたいので、是非声をかけてください。かけてくれれば嬉しいです」
最後にニコっと微笑み静夏の自己紹介は気持ちの悪いくらい完璧に終了した。
三十五人学級であるこのクラスは、縦に6列ずつ机を綺麗に並べると誰一人隣がいない人物が存在する。
静かの転校により三十六人学級へとなった今、その隙間には静夏が入る事になる。
が、その隣のいない人物というのは――
クラス展示お化け屋敷のリーダーこと須藤大樹だ。すなわち俺の後ろの席ということになる。
朝から気になってはいたが、今日から須藤の席の隣には机が置かれていたのだ。
「では、花美は2列目の後ろから2番目のあの空いている席に座ってくれ」
「はい」
短く簡潔に答えた静夏は机につくため徐々に遥斗のいる方へ近づいていく。
そう、徐々に、徐々に。
そうして、ついに俺のすぐ隣まできた時だった。
「――よろしく…」
「――えっ………」
小さく放たれたその言葉は、恐らく遥斗の耳にしか聞こえていない。
遥斗はそのまま振り向くことも出来ずに前を直視した状態で座り硬直した。
その間にも静夏は与えられた席に座っていた。
周りの生徒が一斉に静夏に目をやる中、木葉だけは遥斗の異変に気づいていた。
◇
放課後。遥斗は文化祭実行委員の仕事へと向かうべく教室ないで準備をしていた。
すぐ後ろの席には静夏がいる。彼女は文化祭の仕事が無いので帰る準備をしているのだ。
鞄に荷物を詰めている遥斗に木葉が声をかける。
「遥斗、このあと話があるんだけどいい?」
優しく、いつおどおりの大空木葉だ。
だが、遥斗の目は宙を泳いだ。
「え、あ、いや…実行委員あるから…じゃあな」
返答もしどろもどろでどこか挙動不審だ。
言うと遥斗は会議室へと足早に向かっていった。
会議室には既に雅が仕事をしていた。いつもと変わらない様子で。
遥斗も机の上に乗せられた無数のプリントをパソコンに写し、更には文化祭のプログラム表のデザインも作成していた。
パソコン作業だけだと目が痛くなるそう思っていた時もあった。
だが今は、この作業にすら安心感を抱ける自分がいた。この作業をひたすらすれば現実から逃れられる。そう思って。
それにも限界という名の疲労が襲ってくる。遥斗の集中力が切れ始め身体が休憩を欲していた。
仕方なく休憩を取ると、雅が遥斗のもとへ歩み寄ってきた。
「この前は大丈夫でしたか?」
雅もいつもと優しく変わらない態度だった。だが、それが逆に怖かったりした。
「あ、うん。大丈夫だったよ。ごめんな、心配かけて…」
やっとのことで雅に話せた。雅は不審がるように遥斗を見るがやがて「なら良かったです」と言って自分の席に戻ってしまった。
雅は自分の席に戻るとあることを呟いた。
「遥斗くん…なんか変…」
今日も仕事を終え、文化祭実行委員事務係は帰宅の準備を始めた。
当然遥斗も例外ではなく帰宅の準備をする。
「遥斗くん、今日も一緒に帰りましょ?――ってあれ?」
雅が気付く頃には遥斗の姿はもう会議室からなくなっていた。
次の日も、その次の日も遥斗の行動は挙動不審という言葉が似合うものだった。
当然、木葉も雅も不自然に思うものばかりだった。
文化祭を前日に控えたそんなある日のことだった。
雅は折り入って木葉に文化祭の準備のあと時間を裂いてもらうことにした。
場所は、駅近くのファーストフード店だ。
「ごめん、みやびん待った?」
雅は首を左右に振る。
「いいえ、私も今来たところだから」
二人は向かい合って座り話し始めた。
「それでどうしたの?」
まずは木葉から切り出した。
「実は…」
と、雅の口が厳かに開かれた。
「遥斗くんのことなんですけど」
「ああ…」
木葉の表情が若干変化したのを雅は見逃さなかった。
「何か知ってるんですか?」
思い切って問うてみる。
「最近、遥斗様子がおかしくて。共同不審というか、何かにおびえているような…」
「はい、実行委員の仕事をしているときもです」
注文したファーストフードを口にしながら考作を開始した。
二人の思っていることは見事に一致し、会話はさらに深いところへと向かっていった。
「何かあったのかな?」
「そう言えば…」
雅は先週末にあった出来事を話した。
自分と遥斗が休日に出かけ、その帰り道にとある女子と出会いその後から遥斗の様子が急変したということを。
「確かその人は今週うちの学校に転校するとかって言ってました…」
「そうなんだ…」
木葉は顎に手を当て考える仕草をしてみせた。
「あ、もしかして…」
木葉は一声上げるとある事について思い出した。
「何か心当たりがあるんですか?」
雅は真剣な眼差しで尋ねる。
「うん、まあ…。あれは、私がこの学校に転校してきた初日のことだったんだけど――」
それは、木葉がこの学校に転校して来た
初日のことだった。
まだ転校してきて間もなかった木葉は唯一の心の支えの遥斗を玄関先で待っていたことがあった。
その時の遥斗は自分に話しかけてくる女子に対して警戒心しか抱いていなかった。
聞くところによると昔、自分に告白をしてくれた女の子に自分も好きだったと気持ちを伝えたところ、それはクラスの何人かが仕組んだドッキリ計画で、それに自分はまんまとはまった。
そしてそれ以来、遥斗の残りの中学校生活は嘲笑と哀れみでいっぱいだったのだと。
すべて話し終える頃には雅の顔には、言語では表現できないような悲しみの表情が浮き出ていた。
「そんな…遥斗くん可哀想…」
木葉の気持ちも全くの同感だ。
その話を最初に聞いたときも思ったが、これは本当に酷い。
奥仲遥斗という人物が優しいから故にこのような卑劣な行為の犠牲になってしまう現実にも悲しいものを覚えた。
「私もそう思うよ…」
注文したファーストフードはそれ以降手をつけず、残したままで店を出た。
辺はすっかり夜だった。
「どうしましょうか…?」
雅がうつむきながら、力ない声で木葉に聞く。きっと、遥斗の過去を知って同情しているのだろう。
「多分…」
木葉は重い口調でゆっくりと口を動かした。
「私たちに出来ることは無いと思うの…」
「そんな…」
雅の声がそれを受け入られないことを表していた。
だが、木葉の言葉はまだ終わっていなかった。
「これは、遥斗が自分で解決しないと前に進めない問題だと思うの…これは遥斗自信の力で解決しなきゃいけない問題…」
木葉は言い切った。
「じゃあ、私たちは…」
木葉が諭すように言う。
まるで、子供を見守る母のように。
「私とみやびんは遥斗が解決出来るように力を貸すの。少しでも遥斗が解決しやすいように…」
うつむいている雅の手をそっと取り優しく見つめる。
「木葉ちゃん…」
そのまま、雅は神ケ谷駅に、木葉は自宅を目指して歩みだした。
夜道を歩いている木葉にはある考えがあった。
「遥斗はこのままでは何も解決出来ない。何かきっかけがないと…」
そう言うと、木葉はある場所の前で立ち止まった。
そこは大空木葉本人の自宅ではない。
その隣の家。
奥仲遥斗の家の前だった――。
こんにちは水崎綾人です。
ついに新キャです。前話の最後で登場した遥斗にとっては中学校生活を潰してくれた最悪な人物です。ここに来て新キャラで唯一ダーキーな人が出てきました。
今後、遥斗がどうなるのか?静夏とはどうなるのか?それぞれが気になります。ついに膜が上がろうとする文化祭。それが一体どうなるのかもお楽しみください。
次話もお楽しみに!




