序章
四月も後半になると、次第にだらけてくるものだ。
最初は、必至で気を張っているが、段々と、慣れてくると、手の抜き方を覚えてしまう。しかし、それは、決して、非難されるべき事柄ではない。何故なら、心底、面倒だからだ。新学期、新年度になって、最初は、皆、今年こそはと意気込むものだ。だけども、それが一週間、二週間となると、次第に面倒になってくる。一度、決めた事のはずなのに、何故だか、そうやって努力するのが、面倒になってくるのだ。
仕方ない。どれだけ意気込んだって、愛煙家がいきなり禁煙なんて出来ないように、一回、その味を知ってしまうと、なかなか抜け出す事は難しいものだ。特に、だらけるというのは、酒が苦手でも、煙が苦手でも、誰でも陥ってしまう依存性の高い薬だ。
だが、八島大輝は、手を抜いているわけには行かない。
絶対に、だらけている訳には行かないのだ。
「はっ、はっ……」
小刻みに息を吐きながら、日も開け切らない早朝から、彼はロードワークに励んでいた。
コースは、八島神社の正面石段を駆け下り、そのまま、学校まで走る。それから、山の山麓を回り、神社裏手の駐車場から上がっていくという五キロほどのジョギングコースだ。
尤も、彼の走りをジョギングとは一般的には言わないだろう。
距離は、五キロほどなので、大した事ないように思えるかもしれない。
だが、そのコースの高低差は五十メートル、傾斜角二十度の坂を上り下りする。その上、大輝の着ている服は、ジャージだとか陸上の競技用の服ではなく、非常に走りにくい、袴、そして、足袋に草履という格好だ。この格好で、一切、土を付けることなく、一時間程度で走破するのだから、恐るべき健脚で、恐ろしい鍛錬である。
「おはよう」
「あ、神社の坊ちゃんかい。おはようさん」
途中、自転車を漕いで、入り組んだ路地まで、軽快な調子で、牛乳配達をしている、牛乳屋のおっちゃんと出会った。気さくな感じで、軽快な挨拶すると、彼からも、軽快な気分の弾む挨拶を返してきてくれた。
段々と日の照る時間が長くなり、既に、景色は、黒から瑠璃へと変わっている。そんな早くなった夜明けの街は、静かで、余計な雑音など一つもしない。まだ、街全体が静まり返っていた。
「ほら、これ!」
「ありがと!」
牛乳屋のおっちゃんは、白く栄養のある牛乳を、大輝にくれた。
貰ったばっかりの、昔ながらのビンの中に封入された牛乳を、腰に手を当てて、大輝は一気に呷った。冷たい感覚が、温まった体に、爽快感が電気のように突き抜けていく。
渇いた喉には、嬉しい一本だった。
「ぷはー!」
オヤジの一服のような感じに、ダサい掛け声を上げる大輝。
「おっちゃん、ありがと。また」
「あいよ、気をつけてなー」
空きビンを、おっちゃんに返して、大輝は再び走り出した。牛乳屋は、大輝とは別の方向、商店街の方へと向かって、軽快なベルを鳴らしながら、自転車を漕いでいく。
大きく山麓を一周するように走り、裏の駐車場から、再び神社へと戻る。
表の参道は、二百段を越える石段だ。毎日、上り下りしていたら、当然、体力も付く。だが、それ以上に、今は、大輝は体力が必要だった。四月の頭、二年の新学期を迎えてすぐ、わき腹をナイフでぐっさりと刺されるという事件に遭遇、その後、傷も塞がりきらない内に、真剣でやり合うというような、医者が見たら、そのまま、卒倒しそうなことを、やってしまったのだ。
今では、すっかり傷も塞がったが、糸は、まだ残っている。走ると、少し突っ張りが感じるのだが、いつまでも、そんな些細な事に気を使ってはいられない。入院中に出来なかった修行、そして、落ちた体力の分、それを全力で取り戻すべく、大輝は、こんな風に、この所、毎日、朝日と共に起床し、ロードワークと剣術の修行を続けているのだ。
「ふう……」
大輝の家である、八島神社には、本殿と拝殿、そして、神楽舞台と道場がある。
この道場には、白髪の老人が、木刀を地面について、佇んでいた。
八島元治。大輝の祖父にして、この神社の神主だ。
その皺だらけな顔に、笑みを浮かべて、木刀を一振り、大輝に投げつけてきた。持ち手に垢の着いた、ずっと使い込んできた大輝愛用の木刀である。大輝も言葉を返さない。無言で手に取り、大輝は、正眼に構える。祖父は、自然体。だらりと左手に刀を下げた体勢を取る。
言葉が無くても、解る。
打ち込んで来い、と言っているのだ。
「………」
「………」
祖父の全身から放つ、威圧感。老獪という、十七の大輝では絶対に辿り着けない境地。
自分は、相手に対して、どんな攻撃をするのか。そして、その返し技は何があるのか。 じっくりと大輝は考える。
また、同時に相手は、どんな攻撃を仕掛けてくるのか。
相手の動きを注意深く捉えながら、考えを纏めた大輝は一歩を踏み出した。
「せいやっ!」
初手を譲られたという舐められ方。正統派な正眼からの、面打ち。
しかし、元治の方は、滑らかな動きで避けた。ちょっと、上体を反らすだけ。
それだけで、大輝の剣線から、身を逃した。見切られている。相手は、一歩も動いていない。だが、それは予想している。大輝は後ろ足に力を込め、一気に開放した。跳躍と共に、首元へ向かって、必殺の突きを放つ。
「甘いわ」
「な!」
短く、元治は笑った。その笑顔は、憎たらしくて、腹立たしい。
左足を軸足にして、半回転。いつの間にか、祖父は、右手に木刀を持っていた。
回避したついでに、その回転を最大限に利用した刃が襲い掛かってきた。
「くっ!」
腕の力に遠心力を乗せた一撃。
先日、足の骨折から退院したばかりとは思えない、軽やかで、滑らかな、動き。
「やばっ!」
木刀とはいえ、材質は樫の木だ。金属のアルミなんかより、数段、硬くて、丈夫である。下手をしたら、痛いではすまない。思わず、頭を下げた。数ミリ上を木刀が掠めて行く。風圧だけで、髪の毛が切れた。大輝の太刀筋では、こうはいかない。それだけ鋭いのだ。
だが、ここから反撃が出来る。
一回、攻撃に使った腕を戻して、再び振れるようにするには、手を胸元に戻さなければならない。その一瞬の隙。その隙を、先に手を戻した大輝は狙う。
手首を返して、振り上げてやる。
「だから、甘いんじゃ」
「え?」
大輝は、天井を見ていた。
「あれ?」
「まだまだ、修行が足らんの」
そして、そんな大輝の顔を、祖父が、覗き込んでいた。これ以上ないだろう笑顔で。その口元に蓄えられた真っ白な髭が、面白おかしく吊り上っている。
大輝の頭の中では、振り上げた剣の一撃で、相手の持つ木刀を跳ね飛ばす。それから、腕を最大限に振るった一撃を、どこでも良いから見舞う心算であった。
「上ばっかり気にして、足元がお留守者じゃったからのー」
「……卑怯だぞ、クソジジイ。足払いなんぞ掛けやがって」
上の剣をどうにかすることばかりを考えて、足がお留守になっていた。
首を引っ込めて、バランスを崩したところへ、思いっきり足払いを掛けられたのだろう。そして、見事に引っかかった大輝は、転倒。梁がむき出しの天井を見ているという按配だ。
「あー、最近、耳が遠くなってのー。何か、負け犬が吼えとるわ」
「………」
色々と暴言を吐きたいが、ぐっと堪えた。
仕方ない。負けたのは事実だ。負けた以上、何も敗者に何も言う権利はない。木刀だから、祖父と孫の模擬戦だから、命は無事だが、実際に真剣の、戦場なら、今頃、大輝に命はない。敗者は死者。死者は口を開かない。
大輝たちの剣術は、実際の斬り合い、戦場での立ち回りを想定している。いつ何時、襲われる事があるかもしれない。そんな実践的で、相手を無力化するために作られた術理の数々。
「卑怯だろうが、なんだろうが、勝てば官軍じゃ。よもや、忘れたとは言わさんぞ」
「解ってら……」
その真髄は、殺す事だけではない。
相手の急所を打ち抜き、気絶させること。四肢を跳ね飛ばすということでもある。
反論した、大輝に、元治は笑った。
「いーや、解っとらん。文句を言うのが、その証拠じゃ」
この八島神社には、何故か、武術が伝わっている。元々、神社を守るために、門兵が使っていた武術らしいのだが、詳しいことは、現代を生きている大輝には知る由もない。
今時、それを鍛錬するのも、時代錯誤かもしれないが、大輝は、それなりに気に入っている。こういう風に、何かに打ち込んでいる間は、頭がすっきりするのだ。
ただ、この武術について、確実に言えるのは、世の中の武道家が見たら、卒倒すること間違いない武術だということ。そもそも、防具を付ける事を想定せず、武器、もしくは拳打と蹴脚で戦う、この正規の名前もなければ、型もない喧嘩殺法は、敵を倒すことに主眼が置かれており、怪我では済まない事も技も多いので、非常に危ないということ。
少なくとも、現代武術が持つ「道」の精神なんて、微塵もない。
「つか、大輝、お主なぜに、正面から、向かってきた?」
「……病み上がりなら、正面からでも、ぶん殴れると思った」
祖父の上から目線の質問に、大輝は、下から睨みつけて答えた。
「あてが外れて残念じゃったのー」
確かに、祖父は、先日足を骨折して、大輝同様に退院したばかり。だが、簡単に大輝を倒して見せた。体力も筋力も、大輝の方が全盛だというのに。いまだに、大輝は、祖父から一本取ったためしがない。大体、突っかかって行って、負けている。
「時には、逃げるのも選択肢じゃぞ」
「そんなせこい事、出来るかよ……」
プイッと顔を背ける大輝。視界には、丁寧に磨かれた床がある。木目が、何故だか、こちらを見つめ返しているようで、どうにも不快だった。
「カーッ!」
耳元に、思いっきり大声で、喝を入れられた。
痰の絡んだ祖父の声は、キンキンと耳に響き渡る。
「耳元で、喚くな!」
「普段から、『俺は、剣士じゃない』とか言って、外法も厭わんのに、いざ、自分が負けたら、『卑怯なのは、ダメだ』なんぞ、通じると思っとるんか!」
「………」
大輝は、黙り込んだ。悔しいくらいに正論だ。
大輝は、剣士でもなければ、道の精神に満ち溢れているわけでもない。それは、祖父も同じなので、戦いの場においては卑怯な手も厭わない。時に、信仰と言うのは、何事に変えても、守らねばならない大事なものなのである。
だから、卑怯の謗りを受けても、絶対に勝て。それが、この神社に伝わる武術の真髄だ。
「守るためには、戦わんというのが、一番の必勝法じゃ」
「………」
「戦いから逃げても、ワシらは侍じゃないからの。じゃかあ、それは、罪でも弱さでも、恥でもないんじゃ。気骨は買うが、それだけじゃ勝てんの」
祖父は、木刀を腰に納めた。
「ほれ、そろそろ飯の時間じゃ。そのみっともない顔を戻しておかんかい」
「……解ったよ」
「素直で良いの」
十分すぎるくらいのハンデを貰っているはずなのに、一向に勝てない。
「あの、クソジジイ……」
「口が汚いです、大輝さま……」
「にしても、強いのじゃな、主様の老父殿は」
天井を見上げて悪態を突く大輝に、横から涼しげな声が、二つ聞こえてきた。
顔を横に向ければ、そこには、千早と緋袴という見事な巫女の姿で、黒髪の女の子と、銀色のした小さな女の子が、きちんとした正座で、座っていた。孫を打ちのめした、祖父と入れ替わりに入ってきたのだろう。
「もう、お爺様ったら、酷いことをします」
黒髪の巫女、大輝の従妹である、八島長閑は、ズキズキと痛む大輝の頭を、ゆっくりと自分のひざの上に導いた。温かな彼女の体温が、後頭部に伝わる。どんな高級な枕よりも寝心地が良い。顔に掛かる艶やかな黒髪からは、良いにおいが漂ってくる。
じっと、自分の顔が、長閑の瞳に映りこんでいる。
相変わらず、従妹と並んで歩けば、姉妹に間違われるくらいに、コンプレックスの塊である可愛らしい顔だ。もっと、祖父に似て、精悍な顔つきの方が、大輝自身は、男らしくて良いと思っている。そんな優しい彼の顔は、亡き母、八島葛葉に似ている。
じっと見つめる従妹のほほを寝転んだまま、撫でる。
「良いんだ。あのジジイは、まだ俺じゃ勝てない……」
悔しげにひっくり返されても手放さなかった木刀を、ぎゅっと握り締める。
「だけど、だからかな。すごく、目指すべき相手が解る」
「そうですか。大輝さまに大事無くて、私は嬉しいです」
負けたから、そこで終りではない。負けたから、もっと上を目指そうと思う。
特に、大輝は幸福だろう。同じ流派で、同じ場所に、目指すべき、最高の存在が居るのだから。その存在から、これからも所作を学び、技術を学び、全てを吸収して、八島大輝は、八島元治を一人の戦士として、いつか越える事を望む。
「しかしのー」
そんな決意に水を差すような口調で、銀色の髪の少女が言ってきた。
「本当に、越えられるのかの? 主様は強いが、老父殿の強さは」
その発言に、むっと来た大輝は、彼女の頭から生えている三角の形をした耳を、優しく抓り挙げてやった。人間にはないはずの耳からは、獣特有の体温が伝わってくる。
「いたた、痛い、痛い、離してくりゃれや、主様!」
「生意気なこと言うからだ。葛葉」
ぐいぐいと引っ張るたびに、彼女はのた打ち回る。それが逆に、自分で自分の耳を傷めているとも知らずに。適当な所で、彼女の三角耳を最後に思いっきり引っ張って、大輝は、優しく手を離した。葛葉は、痛みに、耳を押さえて蹲る。
「相変わらず、酷いのじゃ。へそを曲げるぞ……」
恨みがましく言う、葛葉の銀色の頭を大輝は優しく撫でまわす。
「馬鹿いうな。俺と、お前と、二人で、ジジイを越えるんだ」
大輝の宣言に、葛葉は、ぱあっと顔をほころばせた。
「主様は、優しいのじゃ!」
そのまま、勢いよく寝転がったままの大輝へと飛び掛る。三角の狐耳を生やした彼女を少年は優しく抱きとめた。腕の中で、暴れ回る狐耳少女の体温が胴着越しに伝わる。
葛葉は、人間ではない。
正式な銘を、小狐丸葛葉。大輝の愛刀にして、佩刀の、この神社の御神刀である。
曰く、最強の一振りを決める刀剣たちの戦い、刀剣譚へと出場するために、人の身を賜り、大輝と共に戦う事を決めた日本刀なのだ。作者である三条宗近が、守り神である稲荷明神と打ったためなのかどうか、それは定かではないが、彼女の耳は、狐の耳だ。
「よしよし、良い子だ」
そんな愛刀を抱えたまま、大輝は立ち上がる。
「さて、朝食にするか」
「はい、準備の方は整っております」
折り目正しく、袖を踏まないようにして一礼する長閑。彼女と、そして、愛刀と共に、大輝は今日も一日を始める。長閑の作った朝食を食べて、今日も学校である。