第五章 桜下決着
久しぶりにぐっすりと寝られた気がする。
目を覚ましてみると、予報は大きく外れ、昨日まで空を覆いつくしていた鉛色の沈んだ雲はどこかへ行ってしまい、澄み切った青色の空が広がっていた。東の空へと昇った太陽は、八島神社の鎮守の森の緑を纏って、境内に優しい光を振りまいている。
「うーん……」
左の脇腹を庇うように、体の筋を伸ばす。
昨夜、大きな穴を開けられた腹は、傷口を申し訳程度に塞いでいる。決して完治したわけではない。縫合もしておらず、包帯を解けばまた出血するだろう。そんな危険な状態だが、それでも大輝は立ち上がった。
「大輝さま、お体は?」
起きて床に居なかった大輝を探しに来たのか、雨上がりでぬかるんだ場所を避けながら、玄関から長閑が出てきた。夜を徹して看病してくれたのだろう。目の下にはうっすらと隈が入り、目も赤く充血している。目をしぱしぱと瞬かせながら、朱塗りの鳥居に刺さったままだった矢を抜く。地面に刺さっていた矢は、雨で刺さっていた方が抉れて、泥の中に転がっていた。それも膝を丁寧に折り、しゃがんで回収する。
「朝食の準備が整っておりますが、いかがですか?」
そう言えば、結局、昨日は夕飯を食べていない。自覚したら、途端に腹の虫が大暴れし始めた。日暮れと同時に九条先生の決闘になってしまったから、夕食を食べ損ねたのだ。こんな大怪我を負ったときまで、食事に頭が向くのは、健康の証拠だろう。
「そうだな、食べるよ」
「解りました。たっぷり食べて、体力を付けてくださいね」
そう言って食卓に出された朝餉は、まさにご馳走だった。何時に起きて準備をしたのか、それくらいの量である。メニューもいつも朝食に食べている、美味しいが簡素なものと違って、それこそ行事や式典の時しか食べないような質になっている。
とてもではないが、朝食の量と質ではない。
「おいおい、とてもじゃないけど、これ三人では……」
「貴人さんと五十鈴さんも昨夜、お泊りになられましたので、七人分」
五人で食べる七人分の食事ということか。小狐丸が一人で三人分なので、七人分の食事である。手際良く作って並べていく、長閑の主婦スキルを心の底から褒める。
美味しそうな匂いに惹かれて、続々と起きてきた。
「朝飯、ごちそうになっていいのか?」
「ふふ、ありがとう。大輝」
「やっぱり巫女は最高なのじゃ!」
ご馳走を見た時の反応は三者三様だが、そのいずれにもお母さん独特の威圧感を混ぜて、「顔を洗ってきなさい。ご飯はそれからです」ときっぱり長閑は告げた。三人とも起きてすぐの顔は酷いものだった。それを整えて戻ってくると、いつも二人だった食卓に五人が付く。二人で向かい合っていた食事が、不満だったわけではない。だが、寂しく感じなかったわけではない。賑やかになった朝の食事は、ご馳走の味を何倍にも増幅させる。
ただ、すぐに食事とはならない。
ちゃんと食事の前に、「イタダキマス」が必要だ。ただ、宗教の施設である以上、略式でもそれなりの時間がかかる。貴人などは、意地汚く鼻を鳴らして、漂う匂いを独占しようと動いているし、小狐丸はどれから食べようか、口から滝のような涎を零している。
「全ての惠に感謝して」
「全ての惠に感謝して」
小狐丸と貴人などは、早く手をつけたくて子供のように落ち着きなく、ソワソワと手を擦り合わせている。そこへ行くと五十鈴は、食べたいのを我慢している事を表情に一切、表さず淡々と大輝の祝詞に続いている。長閑は言わずもがな。
「それを糧として、我々は頂く」
「それを糧として、我々は頂く」
いい加減、鼻腔をくすぐる良い匂いに狐娘と、貴人が耐え切れなくなった当りで、
「頂きます」
「頂きます」
ようやく終わった。
そこからはまさに戦場であった。
「から揚げ、頂き!」
スパッと鶏肉の山へ箸を入れる貴人を妨害し、小狐丸が奪い取って口の中へ。二人も長閑の家事スキルは知る所だから、我先にと箸を伸ばしてご馳走にありつこうとする。景気良く、元気良く、皆が箸を伸ばす。貴人と小狐丸は競い合うように荒っぽいが、他の三人は、丁寧に二人が争う隙を縫って、食事にありついている。
量と質のある食事は、大輝の胃と体を癒していく。
元気の良い食事は、大輝の心と魂を癒していく。
久しぶりに心の底から笑っている気がする。いつも眉間に皺を寄せ、無愛想な顔で、可愛い顔を台無しにしていたのだが、今の大輝は本当に女の子のように見えるほど、優しく笑っていた。それに反応したのが一人いたので、思いっきり殴りつけたのだが、また、懲りずに飛び掛ってきた。
どこをどう走ったのか。
九条かさねは、愛車の運転席で必死に考えていた。
自分のしでかしてしまった大変な出来事から、逃げたい一心で、闇雲に、出鱈目に、ただ只管に奔り続けて、朝日が昇ったのを確認したときには、大阪湾を望んでいた。雨の上がった後の東の空には、黒い雨雲が残っているが、望む西の空は雲ひとつない快晴である。
フロンドガラスを貫いて入ってくる黄金に輝く太陽は、痛いほどに目に染みた。
後部座席に乗せた小烏丸は、じっと目を開けたまま、深夜にも関わらず、息荒く運転を続けた九条かさねを出会ったときと同じ、無気力な目で見ていた。
「…ぅう」
唸る。
その目は、まるで難詰するような、批判するような、まるで腰抜けと言われているようだった。たかが刀の精霊、そんな非現実的で、非科学的な存在を認めたくは無かったが、こうやって人の体温を感じて、質量を感じるのだから疑えなかった。
「ひっく……」
泣く。
絶妙に落ちそうで落ちないバランスを保つ眼鏡の奥は、涙で汚れていた。
昨日、自分は何をした。それを自覚すると泣かずには居られなかった。初めて受け持ったクラスの生徒をナイフで刺したのだ。死んだのか、その確認もしないままに、同居していると聞いていた従妹の放つ矢に追い立てられて、逃げてきた。
「ああ……」
呻く。
頭の中に、大学の講義で習った刑法の条文が、自分の意識とは関係なく廻り始める。傷害、傷害致死、暴行、殺人。自分の築き上げてきたキャリアなんて、ちっぽけなモノである。そんなキャリアよりも、相手が教え子だったと言う事。小烏丸に言われるままに、彼を襲った、自分を酷く恥じていた。
(復讐は、果たせたか…?)
心臓が跳ね上がるほど、冷たい声で心の中の教え子が問うてきた。
顔は冷たく青白く、今にも死にそうな顔をしている。
(これで、満足か…?)
自分が死にそうにも関わらず、そんな事を聞いてくる。
自分を殺そうとした人間にまで、そんな優しい言葉を掛けてくるということが信じられなかった。しっかりと雨の中で見据えた彼の顔は、どこまでも凛々しかった。
「これからどうするのですか?」
のっぺりとした抑揚のない、しかし、威圧感のある声で、後部座席の小烏丸が聞いてきた。かさねは、その問いに答えられない。
罪を犯してしまったのだ。
実家に逃げる。無理だ。寝たきりの祖母の介護を続ける祖父に、負担は掛けられない。両親を早くに亡くしてしまって、自分を二人で育ててくれたのだ。そんな二人の元へ人殺しをしておいて、のうのうと戻るのか。無理だ。
自宅に戻る。もっと無理だ。既に警察が踏み込んでいる可能性の方が高い。僅かばかりの給料で借りた小さな部屋へ戻った瞬間に、桜の代紋を掲げて逮捕状とともに遣ってくるに決まっている。
なら、どうすればいい。どう考えても終わっている。
彼女の思考を邪魔するように、助手席に置いていた携帯電話が鳴り始めた。もう警察が自分へと辿り着いたのか。目撃者がいるのだから、無理もない話である。そんな不安を持って、フリップを開く。
見慣れた番号。
見慣れた名前。
原田仁介の名前が、無機質な電子光で書かれていた。
「教授……」
震える手で、電話に出る。
「教授……」
『おお、九条君。随分と迷惑を掛けたみたいだね。無事に今日退院できたよ』
腹を真一文字に切り裂くような大怪我だったはずだ。それがたったの二日で退院できるとは、本当に大丈夫なのだろうか。もしかしたら病院を抜け出してきたのではないだろうか。不安になって訊いてみる。
「教授、もう怪我は大丈夫なんですか…」
『なに、腹の皮と筋肉を薄く切っただけだったからな、二日で退院できたのだ』
その事にまた別の意味の涙を流し始めた。
『おいおい、泣くな。私はこうして無事だったんだからな』
「だ、だって、教授が死んだら、わた、し、わた、し……」
遂にしゃくりあげながら泣いてしまった。
『ささやかだが、看病のお礼をしたくてね。六時ごろに、今からメールする場所に来てくれないかね』
「は、はい!」
かさねは、まるで小学生が答えるように、元気良く返事をして電話を切った。すぐに教授からメールが到着する。大学時代に良く行っていた京都市郊外、鞍馬山の寺だ。廃寺となっていたのだが、教授は取り壊されることなく残っていた伽藍や回廊などを利用して、キャンプを開催したこともある。毎年、行われるキャンプは友達も多く出来て、非常に楽しかった事を思い出した。それを教授自ら誘ってくれたのだ。
彼女は、嬉しさに負けて、自分の罪を押し流していた。
「何だって、今朝方退院した?」
病院の受付カウンターを叩いて、五十鈴は大きく憤慨した。浅い怪我だとは聞いていたが、二日で退院できるような大した怪我でなかった事は意外だった。警察も被害者が生きているとなった今、盗難事件に重きを置いて捜査しているという。
「落ち着け、五十鈴」
日曜の朝と言うことで少ないが、八島市総合病院には入院患者への見舞い客や、休日診療を受けに来た人たちでロビーには、それなりに人が居る。大声を上げた五十鈴へ一斉に、視線が突き刺さる。
その詰問するような視線をうざったく払いつつ、声を潜めて受付の病院事務の女性と話を続ける。ビン底のような分厚い眼鏡から突き刺さる眼光に怯みつつも、彼女は二人の質問に、事務的な口調で答える。
「ええ、今朝方、お医者様たちの制止を振り切って、退院されました」
「振り切って? まだ完治していなかったんですか?」
「いえ、縫合は終わっていましたし、傷も塞がっていたと思います。ただ、抜糸はまだの予定でしたし、何分、老齢でしたから大事を取って欲しかったのだと思います」
ガリガリと二人揃って頭を掻く。
「どこへ行ったとかは」
「解りません」
「だよなー」
退院後の患者の動向までは、病院が関知するところではない。事務の人の反応は当然の者と言える。
朝食の後、すぐに五十鈴の下へと昨夜、大輝が頼んだ捜査依頼の結果が届いた。ドンな風に調べたのかは与り知らぬ所だが、確かに原田仁介の入院先を突き止め、開院したばかりの八島市総合病院へと駆けつけたのだが、一足遅かったようだ。
完全に八方塞がりである。
いつまでも病院の中で、ギャアギャアと喧しく騒いでいるわけにはいかないので、一旦八島神社へと戻る。依頼を果たせなかった申し訳なさから、五十鈴はずっと俯いたままだ。
客間で五つの湯飲みを前に、ちびりちびりと緑茶を啜りながら、何か良いアイディアは出ないかと唸っている。三人揃えば、文殊の知恵というが、五人揃っても、全く良い知恵が生まれない。警察なら、ここで非常線なんかを張って市内全域、府内全域を探索できるのだろうが、生憎とそんな組織力は高校生四人と刀一振りは持ち合わせていない。
「あの教授が行きそうなところか……」
ポツリと大輝が鈍痛の走った左の脇腹を押さえながら、呟いた。その痛みをかみ殺す綺麗な顔を、貴人は不安げに見詰める。邪なものを感じるのは、気のせいだと信じたい。
「というか、警察に連絡しなくて良いのか?」
襟を思いっきり引き、サラシの巻かれた大輝の細い腰を露にする。事情を全く知らない人間がこのシーンを見たら、即刻、お縄に付くことになりそうな状況だ。と、茶化す馬鹿は、この中には居ない。貴人の鋭い目が痛い位に感じる。本気の目だ。
「相当な怪我だぜ。早く病院行って、警察行って、した方がいい」
心からの貴人の言葉に、大輝はゆっくりと首を振った。
「何でだ?」
「俺の流儀に反する」
二人の睨み合いは続く。過去幾度と繰り返してきた八島大輝と鷹野貴人の視殺戦。にらみ合う二人よりも、傍で見ている人間の方が息苦しく感じる。実際の時間は、ほんの数瞬なのに、にらみ合っている間は永遠にも感じる時間が流れた。
今回は根負けしたのは、貴人の方だ。
「解ったよ」
襟を掴んでいた手を離し、元の位置に座りなおす。体に合っていない大き目のサイズの裾の破けたジーンズが、畳に大きく擦れて、嫌な音色を奏でた。
「お前が、それを言うときは、何か譲れないモンがある時だからな」
「ありがとう」
貴人に笑顔でお礼を言う大輝。頬を赤く染めてお礼を呟く彼は、まさに女性らしさに満ち満ちていた。そんなつもりは全くなかったのに、貴人の方は思いっきり顔を真っ赤にして、目を反らして、必死になって畳の目を数え出した。
「それよりも!」
青臭い青春の一ページを黙って見せ付けられていた長閑が口を開いた。
「大輝さまのお考えは図りかねますが、原田教授を探さねばならないのでしょう」
「そうじゃ、そうじゃ。いつまでも、ウダウダ唸っておる場合では無かろう」
彼女に呼応して小狐丸も吼える。だからと言って手がかりがないから、こんな風に青春群像劇を繰り広げるしか、する事がないのだか。
「それなら」
黙って携帯を操作していた五十鈴が液晶画面を印籠のように突き出してきた。画面にあるのは、古い寺院の写真を掲載しているホームページだった。伽藍や法堂など、神社とは違い、瓦葺の屋根が目立つ。様々な角度から写真を取られ、一見すると写真展のようだ。
だが、お寺特有の仏尊などがどこにも見当たらない。建築様式は寺院建築なのだが、お寺である要素を全く満たしていない廃寺だった。
「これがどうしたんだよ?」
「教授は、市内のこの寺でキャンプを良くしていたらしい」
大輝の怪訝そうな顔で見ている顔が、厚い眼鏡のレンズに反射している。
勝ち誇ったように、五十鈴は告げた。
「教授は、既に妻に先立たれている。子供もおらず、一人身だ。フィールドワークに出かけることが多かったらしく、家も大学近くのアパートだ」
スラスラと立て板に水の説明を三人と一振りは聞いていた。
「学校や、自宅は警察が瞠っているだろう。何せ、被害者だからな。何か一目を避けたいなら、現れるのはここしかない」
五十鈴の説明に、パチパチと拍手が上がった。
「これくらい、女神の為なら当然だろう」
ニヤッとやっぱり憎たらしいほどの笑顔で、大輝に微笑みかけた。
林の隙間からは、京の街明かりが見える。
同じ関西地区の百万都市といっても、城下町である大阪と、港町である神戸とは、京都はその夜景も大きく趣を変える。京都駅を中心とした下京区の当りは、確かに三宮や大阪と似ている点もある。だが、市内に観光地が乱立している京都市は、彼方此方で歯の欠けた櫛のように、明かりのない場所が多い。
「ふむ…、やはり、良い景色だ」
そんな王城都市を、北部に位置する鞍馬山から原田仁介は見ていた。近代の廃仏毀釈の煽りで潰れた仏閣というのは、京都の山の中を見渡せば、星の数ほどある。この寺はそんな社会に乗せられた無神論者の犠牲の一つである。この犠牲によって南面の鞍馬寺が助かったと思えば、良いことなのかもしれないが。
仏像もない。
仏具もない。
全てからっぽの、名前すら無くした廃寺である。口の悪い学生の間では自分の名前を取って「原寺」などと言われているが、事実、山の中を散策中に発見した、この寺は府も関知していない。土壁もボロボロだった。瓦も落ちていた。境内に並木として切り倒されることなく、残された八重桜だけが、嘗てのこの寺の栄華と繁栄を物寂しく語っていた。
それを、わざわざ私費を投じて、自分で改修したのだ。
この寺を見つけたときは、神からのプレゼントだと思った。市街地から近く、それでいて誰の干渉も受け付けない最高の場所だった。
つまり、何かを隠しておくには最高の場所なのだ。
「そろそろ約束の時間か……」
腕時計を見て呟くと、向こうからガラガラと砂利を踏み鳴らしてやってくるヘッドライトが見えた。どうやら到着したらしい。春の月明かりを邪魔するように、境内には煌々と篝火を焚いている。本堂だった建物に自分が立っている事は、長年、付き添っていた彼女なら解ることだ。
「さて、随分と回りくどい事をしてしまったが、これでようやく」
バタンと空気を揺らして戸が閉まり、来客が境内に姿を現した。
サイズの合っていない黒い和服を着た小烏丸。
そして、九条かさね。
二人を見た瞬間、原田仁介は一瞬だけ顔を顰めたが、すぐにいつも浮かべている喫茶店のマスターのような好々爺の笑みを顔面の筋肉に貼り付けた。その顔を見て、九条かさねは、最愛の恋人の胸へ飛び込むように、教授の下へ駆け寄って、その筋肉質の体を抱きしめた。ゴツゴツした背筋の感触が、手のひらに伝わってくる。生きている肌の温もりが全身で感じ取れる。
「よかった、よかったです……」
泣きじゃくる九条かさねに、原田は丁寧な口調で話しかけた。
孫をあやす祖父のような調子だ。その優しく響くしゃがれた声を、かさねは一言一句聞き漏らす事無く、鋼に刻むような調子で、自分の心の奥深く決めていた。
「おお、九条君。こんな所までご足労願って、申し訳ないね」
「いえ、いいんです。教授のお役に立てたなら」
「お役に?」
ピクッと原田の眉が跳ねた。
「おい、カラス」
「はい」
引き攣った笑顔のまま、後ろをカランカランと下駄を鳴らし、花魁のような歩き方でゆっくりと参道を歩いていた小烏丸へ、鋭い声が飛んだ。ゼミの研究室でも、大学の講義の中でも、今まで一度だって聞いた事のないドスの利いた声だった。
「お前、何を話した?」
「主が襲われた時の状況と、主を襲った犯人についてですが」
腰にまわしていたかさねの手を優しく解き、小烏丸へと近づいていく。その迫力ある歩き方に、かさねは声が出なかった。じっと小烏丸は主と呼んだ、原田を見つめたまま、身じろぎもしない。
「小狐丸の主を犯人に仕立て上げるのは、楽でした。主が傷つけられた事を、何よりも怒っていたそこの阿呆な女を実に上手く使えましたので。ちょっと煽るだけで、すぐに八島神社へ向かいました」
淡々と小烏丸は告げる。
「え…?」
そのまるで事務処理のように、感情なく淡々と告げられる小烏丸の発言の中に、聞き逃してはならない言葉が幾つも混じっている事を、かさねの耳は聞き逃せなかった。
知らない方が良かった真実を、耳は聞き逃さなかった。
「そうか、そうか。何せこの女が居るときに事件起こしたんだからな」
呆然と立ち竦むかさねの耳は、聞く事を辞めない。
衝撃的な、耳を塞ぎたいショッキングな内容なのに腕が上がらない。狂言での傷害事件、自分は体よく操られた、教え子を殺しかけた、そんな事実が心に重く圧し掛かってくる。
「ならよぉ」
小烏丸の薄い胸を申し訳程度に覆っている黒紬の大袖の襟を取り、まるでヤンキーが因縁でもつけるかのような調子で、小烏丸を締め上げ、追求していく。
「小狐丸がないのはどういうことだ?」
「も、申し訳ありません。後一歩のところで、敵の邪魔が入り、この女が逃げましたので」
素直に弁明した小烏丸を放す。篝火に照らし出された親愛なる恩師の顔は、醜く歪んでいた。いつもニコニコと浮かべていた好々爺の顔は、既にそこにはない。
あるのは、欲望に塗れた汚らしい顔だった。
「ちっ、使えねぇ。何のために、腹斬ったのか解りゃしねぇ!」
ドカッと乱暴に小烏丸を蹴り飛ばした。そして、唾を吐きかける。自分を汚す男の行為を小烏丸は表情を変えることのないまま、甘んじて受けていた。まるで暴力亭主から離れられない妻のような様子だ。
「さて、お前には、まだ働いてもらわねぇと」
「はい」
頬に付いた唾をふき取り、殴り飛ばされた時に脱げてしまった下駄を履き直す。身なりを応急処置的に整えた黒い大袖の少女は、原田の手の中へと刀となって納まった。
それを、ゆっくりと抜いていく。
篝火に赤く照らされる銀色の刃が、こちらを向いていた。教え子を襲った白刃が、今はこちらを向いている。改めて見て解った。刀になんて興味は無かったけども、こうやって自分に向けられて、気が付いた。
この館長は、美術品として愛でているが、それは刀の本来の姿ではない。
殺す為の武器。
脚が竦んで動けない。
「さて、ここでちゃんと君は殺しておこう」
それが当然であるかのように原田教授は告げた。平坦な声が衝撃となって彼女を叩く。 信じていた人に裏切られるというのは、こんな感じなのだろうか。そんな大層な事を言ったら、たかが四年間しか接していない人間への信頼感など如何程の物かと問われそうな脆い信頼である。そんな脆弱な信頼で以って、彼を信じていた。
両親が死んで、苦しい自分を助けてくれたのは、この教授だ。
自分の才能を見出して、各所へと推挙してくれたのは、この教授だ。
信じていたものに裏切られたショックで、かさねの脚から力が抜けた。骨を通して体中に、痛みが伝わるが、今はそんなちっぽけな体の痛みより、心が痛かった。
「最近、話題になっている辻斬り事件に紛れて、君も死ぬ」
すうっと銀色の軌道が見えた。いくつもの篝火に照らされて、両刃の刀の位置は最高に達する。せめてと思って、来る時を待って、ぎゅっときつく目を瞑った。
「ようやく見つけましたよ」
火の粉の弾ける音だけが虚しく響いていた境内に、涼しげで、凛々しい声が三味線の音に混じって聞こえた。弦を弾く音は、ゆっくりと大きくなっていく。
暗がりから一人。
草履をしっかりと履き、篝火に照らされた参道をゆっくりと近づいてくる。
小面の能面をつけた人物が、三味線を掻き鳴らす。演奏しているのは、幸若舞だ。
着ているのは藍染の剣道胴着。左腰には刀を一振り。真剣勝負の服装だ。
決して友好的な目的で現れたのではない事は、鼓動のように昂ぶる弦の震えで解った。一歩歩くごとに、大きく弾け、無音の境内に音が響く。
「誰だ、お前は?」
突然の闖入者に、原田館長は誰何する。
「誰だとは、随分な言い草ですね。原田館長、俺は貴方の事を良く知っていますよ」
小面の下からくぐもった声が聞こえる。はっきりとは聞き取れないが、低い声だ。恐らく男性のものだろう。女性を表現する面をつけたまま、その声は小さく笑った。
「そして、貴方が自分の身を斬ってまでしたかった陰謀も」
「……っ」
原田館長が、言葉に詰まった。
「気になったのは腹の傷。貴方の傷は左腹から右腹へと真一文字に引かれていた」
「それがどうしたと…?」
下から見上げる体勢のかさねは、彼の顔に幾筋も冷や汗が垂れているのが解った。好々爺のにこやかな顔に張り付いた怒りも驚いたが、こんな風に慌てふためく姿も初めてだった。見ている間にも、滴る汗の筋は増えていく。
「刀で切られたなら、普通、傷は右から左へ走るんだ」
刀の振り方は基本的に九つしかない。
その中で逆胴、左側の胴を片刃しかない日本刀で狙うというのは、想像するよりも遥かに難しい。真剣での斬り合いを想定してとか、熟練度の問題だとか、そんなレベルではなく、単純に人間の骨格的に左側目掛けて刀を振るのは難しく、そして肉までの間に鞘を挟んでしまう左側は、狙うことのない場所なのだ。
勿論、スポーツとして、武術として、意味のない箇所ではない。
だが、少なくとも切羽詰った傷害事件の現場で振る軌道ではない。
それが何故、原田仁介の腹には、ありえない左から右への傷が走ったのか。
「考えられるのは、切腹したってことでしょう。それで大騒ぎして、強盗傷害事件をでっち上げる。まさか誰も被害者が犯人なんて思わないでしょう」
「ま、待って!」
面を付けたまま、推理を続ける男の話をかさねは震える声で遮った。
「どうしたんですか」
「切腹って処刑方法よね。何で生きていられるの……?」
「切腹では、そう簡単には死にません」
軍記物では、切腹してすぐ死ぬような印象が持たれている。だが、実際は腹を切ってもそう簡単には死なない。失血のショックはあれども、死に至る可能性は高くないのだ。実際は、介錯人が付き、腹を掻っ切った瞬間に首を落すのが体系になっている。
「自分の腹を薄く傷つけ、大騒ぎする。良く出来た手法です」
仮面の下で、潜むような笑いが聞こえた。
「誰だ、貴様は……?」
「俺は探偵でも警察でもないんで、する事をしましょうか」
三味線を脇に置き、ゆっくりと白刃を走らせる。小面を写す鏡のような刃は、炎の赤に染まる。薪が弾け、火の粉が一際大きく夜空に舞い散った。
「刀剣譚の開幕です」
くぐもった声でも良く通る、心地良い、それでいて大きな声だった。短く武士の名乗りのように、大きな声で告げた。羽を休めていた山鳥たちがその大きな声に驚いて、一斉に飛び立っていく。
「誰だ、貴様はぁぁぁ!」
境内に生えていた並木桜の散った花弁が、火の中に飛び込んだ。
それを合図に、原田が駆け出した。
小烏丸を脇に構え、勢い良く右からの切上を放つ。それを面の男は、舞でも踊るかのような脚捌きで避ける。
「うぇい!」
避けられた切先を右手首の捻りだけを使って、刃を返す。男の頭を裁断する断頭台のような大上段からの大振りを、鼓膜を破るほどの大声と供に放った。
キンと澄んだ金属同士の振れ合う音が、夜の熱い空気を裂いた。
小烏丸の諸刃の先端が届いていたのか、男の嵌めていた面に罅が入った。罅は大きくなり、真っ二つに割れた面が石畳の上に、カランと落ちる。
「出来れば、素顔晒さずにいたかったんですけど」
小面の下から現れたのは、十六の顔。
まるで女性と見紛うような美しく化粧栄えする美しい、彼が演奏していた幸若舞の主人公である、平敦盛のような少年だった。思わず見とれてしまうが、その顔は何度も見た顔だ。涙目で彼を見たのは、昨日の話だ。
「八島君……」
渾身の力を込めて振り下ろされた刀を、柳のような流れで、擦り流した。原田は直進し、そのまま落ちた面を蹴り飛ばし、一足一刀より広い距離を、残心を持って振り返った。お互いの位置は入れ替わり、かさねは大輝を見上げる形になる。少女のような少年の顔が、ニッコリと笑った。
「どうも、かさね先生。二年五組出席番号三十番、八島大輝。貴方の教え、おっと」
軽妙な営業でもするのかという口調で、放心状態のかさねに語りかけた。そんなむざむざ自分で作った隙を真剣勝負の中で逃す敵はいない。原田は腰溜めに構えて、腹筋全部を抉るような鋭い突きを放ってきた。それをリーチの外まで逃げて、避ける。
甲冑を着けているなら、この程度の突きは衝撃はあっても致命傷にならないだろう。だが、身を守る手立てが剣しかない今は、必死になって避けるか、剣で弾くかしかない。
今回は、左からの切り上げを往なした。
「くそっ!」
毒を唾と一緒に吐き捨てながら、原田は隙なく中段に構えた。
彼女は、ボケッとしている中で、また知った顔を見て、驚愕と、そして、罪科に、顔をゆがめた。まともに大輝の顔を見られない。嬉しさで忘れようとしていた事が一気に蘇る。
「あ、あの……」
「何」
「きえぇええい!」
三度、気合を入れて原田は襲い掛かってくる。
首、人間が胴と頭が切り離されれば、生きていけないように、首には太い血管や神経が何本も走っている。流石に脊柱を両断するのは、達人の腕がないと無理だが、頚動脈を切断するくらいなら、ナイフ一本あれば十分だ。
ましてや敵は、名刀小烏丸。
大輝は、下段から躊躇いなく頚動脈を狙った一撃を丁寧に受け止め、鍔迫り合いに持ち込んだ。剣の腕前やためらいの無さ、原田の腕前は確かなものだった。少なくとも剣道の大会で上位入賞を果たしているという藪北なんかよりは、よっぽど上だ。
八方向からの斬撃を巧に放ち、合間という合間に突きを挟んでくる。その突きもギリギリで避けられるかどうかの巧みな技だ。手首を捻る突きを基点とした技も多い。
十文字に斬りつけ。
八の字に斬りつけ。
縦一文字、横一文字。
剣道ではなく、本当に敵と戦う為の殺人術を原田は極めていた。
そんな人間を相手にするのは、初めての経験だ。
「ちっ!」
腹を薄くとは言え、真一文字に掻っ切る胆力。急所や急所以外を巧に分けて攻撃できる腕前。まさに本当の剣士だった。対して、こちらは喧嘩術。粋がった不良相手なら未だしも、こんな人間を相手できるかどうか、不安が入道雲のように膨れ上がっていた。
今、大輝が手足を切り飛ばされずに済んでいるのは、昨夜同様に防御に重きを置いているからだ。正直、両刃の切先が怖くてしかたがない。激しい動きは、腹の傷を開ける。優れたる利刀と使い手を前に、大輝は完全に攻めあぐねていた。今、天秤に乗っているのは、自分の命、かさねの命、そして小狐丸の三つだ。引くことも、諦める事も許されない。
(難儀な事だね、全く!)
避け切れなかった一撃が左肩の肉を裂いた。藍染の胴着が赤く滲む。
「くっ……」
「八島君!」
囚われの姫のように、祈る形に手を組み、じっと耐えていた、かさねが悲痛に叫んだ。
「何、心配しないで下さい……」
肌を伝い、中指から篝火の明るさでも解る位に、血が滴る。
その様子を原田は、ニンマリと邪な笑みを浮かべてみていた。
「逃げて!」
後ろで担任の先生が繰り返し同じ言葉を叫んでいるが、そう簡単に引くわけには行かない。そして、大輝は別に彼女を守ろうとやってきたわけではない。
彼の狙いは別の所にある。
「さっさと、その薄汚い手を離したらどうです? 私の目的は、その刀ですから」
「そうかい。何で、執拗に小狐丸を狙う?」
痛みを奥歯で耐える大輝の問いに、そんな脂と欲で穢れきった好々爺は、笑うような声で口と舌を舞わす。
「日本刀は美術品ですよ。今度の展示だって、気に入った人間、金を出してくれる人間がいるなら、売っちゃうつもりでしたし、もうすぐ大学長選なんでね、金がいるんですよ。そこで各地の価値も解らず、持っている資産家なんか襲って、奪って、後は売る。仕入れの元値はゼロですから、大儲けですよ」
「なるほど」
震える声と怒りの篭った目で、大輝は睨んだ。原田の方は、死に掛けの高校生一人、恐れるに足らないというような、軽妙な調子だ。
「そして、その刀。中々の一品ですね。さぞ、高く売れるでしょう」
人のウチの御神刀を売り物扱いか。
「大学に照会して貴方の出張記録を調べましたが、事件のあった三ヶ月前から、事件現場の近くへと出張している。偶然と言い切るには、些か多すぎです」
「はは、八島大輝くんだったかな。君は、神主よりも探偵向きだよ」
「お褒めの言葉、どうも」
余裕を持って、しかし、隙を見せず。原田は表面的な言葉だけで、大輝を褒めちぎった。あまりに薄く、風でも吹けば飛んでしまいそうな賛辞の言葉を、彼は僅かばかりの皮肉と精一杯の強がりを以って受け入れた。それを見た原田は感心と憐れみの混ざった不思議な顔で笑った。相手は自分の倍以上生きている人間だ。経験も自分の倍。全部見抜かれているということだ。こちらの状況は知られている。
「だけど、俺は探偵じゃない。そんな美味しいところは、譲ります」
なら、精一杯強がってやる。
「だけど、別の美味い部位はやらない。戦うのは、俺の役目だ」
どこまでも、精一杯に強がってやる。
「そして、言っとくぜ。刀の意味は美術品なんかじゃないってな」
痛む左脇腹と左肩の筋肉を叱咤激励し、小狐丸を握る手にもう一度力を込める。
大傷を二つ造ってまで、立てる胆力、精神力に感心しつつも、原田は笑った。折角の名刀である小烏丸や小狐丸を血で汚したくないという、配慮なのだろう。
「ふん、熊谷直実になってやる。この場で、果てろ」
「バーカ、ここは鞍馬山さ。生憎と、俺は軍神とは何か縁があるみたいでね。そう簡単に死ぬこともないだろうよ。直実じゃ、俺は殺せねぇ」
鞍馬山は九朗判官の修行場。そして、鞍馬宗派の総本山。
祀られているのは、八島の地と同じく軍神、毘沙門天。
これだけのお膳立てが揃っているのだ。ここで引いては名が廃る。
「ふうー」
肺にたまった古い空気を全て吐き出し、新しい空気と決意と供に取り込む。その決意は決まっている。不退転の決意だ。唯一の決意を持って、原田と対峙する。
「行くぜ!」
唇を結び、草履を擦る。
左手の出血が酷い。出来るだけ早く勝負を決めなければならないと大輝は焦る。対して、先に一太刀入れた原田は余裕だ。その笑顔が憎たらしい。初めて、五十鈴以上に腹立たしい笑顔を大輝は見た。舌を噛まない様に歯をきつく噛み、上段の切り落とし、更に右手首だけを捻って、逆風を巻き起こす。一歩踏み込んで放った二段目の切り上げは、原田のスーツの裾を捉え、ざっくりと切り裂いた。
(浅いか……)
ボタンを弾かれたスーツの奥、縫合したばかりの腹の傷が露になる。新しい傷は付いていない。痛々しいまでの切腹の後が、見える。執念と胆力に参ってしまった。
大輝の傷をチラチラと確認する原田の方も、段々と余裕がなくなってきていた。
原田は鍔迫り合いになる事を恐れている。
只でさえ、病み上がりの老体に鞭を入れて、無理矢理に動かしているのだ。鍔迫り合いなどという単純な力比べに持ち込まれたら、力のない原田は確実に押され、バランスを崩し、負ける。剣道なら意図的に持ち込んで引き技を放てるだろう。だが、真剣で斬りあう最中に、そんな余裕を持てるか、流石に疑問だった。
「おおお!」
咆哮と供に、大輝が突っ込んできた。
霞の構えから放たれる肉を抉りきるような突き。それを右側に弾いた。
「おらっ!」
「まずい!」
判断した時にはもう遅い。弾いて落っこちた小狐丸を右手だけで刃を返し、下段からの胴撃ちに変えた。この一撃は何とか防いだが、危惧していた状況に持ち込まれた。
若い力に押されて、小烏丸を握る老骨が軋む音が全身に響く。
鍔迫り合いに持ち込まれた。
「まずい!」
原田の声など、既に入っていない。
そのまま大輝は腹と脚に力を入れて、刀ごと原田の体を押し続ける。狙いは境内を作り上げている漆喰の土壁だ。ドンと鈍い音と一緒に、壁にぶつかった背骨が一際大きな軋みを上げる。体中から悲鳴が聞こえてきた。
(まずい!)
何か、策。
何か、策。
頭の中で、嘗て習った剣術の対抗する型を思い出す。
刀を振らせてもらえないまま、壁まで押し込まれた。左右に揺れる陽炎の向こう、八重桜の花弁が、また火の中へ飛び込んだ。その飛び込んだ桜色の破片は、まるで今の自分の状況を表している。飛んでも火、退いても火、進んでも火。
「お、おまえ、恥ずかしくないのか。剣士だろ! なら、正々堂々と……」
思いついた策は、言葉攻めだった。こんな風に相手の背中を壁に押し付けるのは、剣士として恥だろう。普通は、果し合いは開けた場所で行うものだ。
「恥な…、生憎と俺は剣士じゃない」
「え?」
「ただの神主だ」
大輝の朱唇から零れた言葉に、原田が呆気に取られた瞬間、大きく刀を弾き、その勢いで以って、後ろへ下がる。
その下がり際。
「はああ!」
原田の両の脛を峰で打ち砕いた。弁慶の泣き所、普通に木で打っても激痛が走る。それが刀の、両方の脛となると、痛さも一塩だろう。
「うぐぁ……」
案の定、情けない呻きと供に、原田は膝を折った。小烏丸を取り落とす。乾いた地面に落ちた利刀を手の届かない場所まで蹴り飛ばして、首筋に冷たい刃を当て、宣告する。
「降参してください」
「おろかだな……」
左半身を襲う激痛に耐えながら宣告した大輝を、原田は短くこき下ろした。
「刀剣譚は、人間と剣の果し合い。何故、命を取らない?」
「俺が使うのは喧嘩殺法で、俺は剣士でも侍でもないからだ」
大輝の言う言葉は一言一句間違わず、本当の所だ。刀剣譚に出ているのは仕方なく。そんな仕方なくで、敵の命を奪うのは御免だ。そして、流儀として真剣に戦った相手を、最後まで打ちのめすのは、彼の主義主張に反するのだ。
「そして、俺は多分、この道の果てにあるものに興味はない。ただ、こいつと。この馬鹿野郎と一緒に居たいだけだ。それが、俺の刀剣譚への参加する意味だ」
刀剣に興味を持ったのは、小狐丸が理由だ。
ずっと一緒に生きてきた相棒というに相応しい狐娘。彼女を守ろうと最後まで足掻こう。勝たねば守れないというのならば、勝ち続けて、最後まで一緒にいようと思った。
それだけの話だ。
「だから、どんな卑怯な手を使っても、勝つ。だけど、命までは取らない」
その言葉に、反応した原田は懐に手を入れる。
「卑怯がありなら、この手もありだな!」
原田が懐から取り出したのは、銃だった。
狙いは、後ろで戦いを見守っていた九条かさね。
「!」
そんな事を、確認をするより先に、大輝は体が動いて。
小狐丸を筋が切れる程の速さで振り上げて。
弾いた。
キーンと澄み切った音がした。
小狐丸の刃に自分の顔が映っている。炎で火照った赤い頬が見える。
こちらに向いている黒い穴から、小さく白い煙が立ち昇っている。
周囲の確認よりも先に、原田の手首を打って銃を落とし、後頭部を打って、気を飛ばした。ガックリと白目を向いて、著名な教授は今度こそ崩れた。
空気を裂いた金属同士の音が止んだと同時に、大輝は自分のした事をようやく自覚した。
「ぶっ、はああ!」
傍に小狐丸を落とし、腰を落下させるように全身の筋肉が弛緩する。
その様子を不安に見たかさね先生が、駆け寄ってくる。
「あ、あの、無事なの……」
傍に落ちた銃と教授、そして大輝を見比べながら、おずおずと聞いてくる。
やっぱり小動物みたいな先生だ。眼鏡の奥の小さな目が潤んでいる。真剣同士の果し合いはおろか、喧嘩など戦う事を見るのすら、多分この人はダメなのだろう。それが良く復讐なんて優しい方法を思いついたものだと、大輝は感心を持って受け入れた。
その傍で小狐丸が、ドロンと人の形に戻った。
「ああ、怪我はないですか、先生?」
「いや、あの、何を、したの…?」
「痛かったぞー、主様……」
シクシクと大粒の涙を浮かべた小狐丸の頭を、優しく撫でまわす。
大輝の質問を無視したかさねの細く白い指が、チクチクと刺すように彼の体を弄る。くすぐったくて、笑いそうになる。コツンと上に飛んでいた物が、ようやく重力に引かれて落ちてきた。勢いをなくして殺傷能力の無くなった弾丸が、かさねの頭に当った。
「これって、鉄砲の弾…?」
「いや、どうも、最後の瞬間、撃った弾、弾いたみたいで」
「痛かったぞ! お陰で、こんな傷じゃ!」
抗議する小狐丸の額には大きな腫れが出来ていた。多分、弾丸の衝撃を上手に殺しきれず、どこか欠いてしまったのだろう。近いうちに研きにだそう。
弾丸を弾くなどと、意図は全くしていない。出来るなんて微塵も思っていなかった。
本当に偶然も偶然。一歩間違えたら、二人揃ってお陀仏だったかもしれない。その事実を理解すると、大輝は腰が抜けたのだ。二度と、こんな危ない橋は渡りたくない。
「一体、何だったの……」
震える声で、かさねは聞いた。今までの悪夢を否定して欲しいと。
「先生は、俺とそこの悪徳教授の諍いに巻き込まれた」
ぶっきらぼうだけども、優しい言葉だった。
何も飾らない彼の言葉に、自分の仕出かした事の罪の重さが、一斉に襲い掛かってきた。
「そんだけです」
肩から血を流す教え子に縋り、ひたすらに呟くような涙声で「ごめんなさい」と呪文のように呟き続けた。そんな新任の先生を教え子は、褒めるように頭を撫でた。
「あ、そうだ」
そんな繰り返される彼女の謝罪の呪文を無視して、大輝はポンと手を打った。
「警察に連絡して教授を逮捕。俺と刀二本は、病院まで」
眼鏡を外して、裸眼の彼女に微笑みながら、
「お願いしますね」
それだけ言うと、大輝は気を失った。抱き留めた腕は、優しくて温かだった。
ハラリと、また桜が散った。