第三章 初陣錦旗
昼食時になり、「長閑ちゃんと一緒にウチの彼女とダブルデートしない」と寝ぼけた甘ったるい事を朗らかな笑顔で言う五十鈴、「熱く、カッコいい男の友情に奔ろうぜ」とサムズアップで、むさ苦しくて暑苦しい事を言ってくる貴人。
その二人の申し出を丁重にお断りして、小狐丸と一緒に屋上へ向かう。
また、貴人からは血の涙が出るほどに泣かれた。五十鈴は、御状大事に持っている物体を見て、またいっそう怪訝な顔になっていた。
「お待ちしておりました。大輝さん」
言った事を忠実に守る長閑は、先に屋上へ着て、レジャーシートを広げ、御重を開いていた。昨日の登校中、世話はしなくても良いと言ったのだが、「食事の準備はします。コンビニ弁当ばかり大輝さまに食べさせるわけにはいきません」と珍しく強い口調で反論した長閑に大輝は何も言えなくなり、根負けしてしまった。朝食と平行して準備していた三段の重箱にも深く口を挟めなかった。
袋の結びを開き取り出すと、小狐丸は変わらない狐耳と尻尾を生やした女の子に戻る。 何もしていないくせに食事を待ちわびていたのか、腹の虫が爆音を響かせる。そのうち、昔長閑が着ていた緋袴を着させて、神社の手伝いをさせようと大輝は心に決める。
今日は応急処置ということで、長閑の使わなくなった千早に身を包んだ小狐丸は、カコンカコンと屋上の床に二本歯の下駄の音を響かせる。リズミカルに奏でる足音は、高い空へと昇っていく。
春のうららかな陽気は、今日も健在だ。遠くの並木には、桜がまだしぶとく残っている。丘の上にある学校だから、屋上から見える景色は素晴らしい。食事をするには、最高のロケーションである。
多めに作った今朝の朝食、残ってしまった昨日の夕食を美味く組み合わせたバランスの良い弁当である。食い意地の張った小狐丸は、目を爛々と輝かせて、宝石箱のように煌く御重の中を眺めている。
「すごいのー、巫女は料理が得意なのじゃな」
「それほどでも」
神刀に褒められて、ふふっと袖口を口元に当てて長閑は笑う。
黒と白だけで作られた淑やかな体には、その上品な笑い方が親族の贔屓目に見ても、良く似合っていた。五十鈴が見ていると、「君も似合うよ」なんて、腹の立つ事を言ってくるに違いない。想像しただけで寒気がする。男相手に、よくそんな事が吐けると感心してしまう。ひょっとして其方の気があるのだろうか。嫌な想像に到って、また寒気がした。
きっとこの顔のせいだ。この可愛らしい顔をアイツはからかっているのだろう。
開かれた重の中から、適当に煮物を摘んで、口の中へ。大輝と長閑は上品に、小狐丸は、乱暴にガツガツと丸ごと取り皿の上にひっくり返して、流し込むように口の中へと掻きこんでいく。しっかり染みた出汁の味も、砂糖や塩の絶妙な味加減も無視している。こいつは腹に入れば、全部一緒のようだ。
食べ終わると、お茶を小狐丸は強請る。そんな備えも長閑はバッチリだ。御神刀へのお供えモノをしっかり準備していたことに、彼女の大きな目が「褒めて、褒めて」と訴えている。全部、食事から何から何まで任せてしまった手前、褒めないのは拙いので、頭を撫でてやる。艶のある黒髪が、指の間をさらりさらりと水のように抜けていく。
「ごちそうさまじゃ」
丁寧に手を合わせる小狐丸。彼女に促されるまでもなく、向かい合って二人は手を合わせた。自分の血肉となる全ての食材へのせめてもの贖罪。長閑の調理は、生ゴミが一切出ることがなく、そして、食事を残すことは許されない。命を奪う以上、全て余す所なく、食してしまうのが償いである。
「さて、主様」
熱いお茶を一杯飲んで、小狐丸は大輝に向き直った。真剣な顔に傍の長閑もごくりと白く眩い喉を鳴らす。
「今朝はああ言ったが、好むと好まざるに関わらず、こうなってしまった以上、刀剣譚には出ねばならぬ。相手にはこちらの事情はお構いなしじゃからな」
「ああ。うっすら自覚はしていた」
小狐丸も大輝も、そして、長閑も心は同じである。だが、途中棄権の方法が解らない以上、戦うより他に道はないのだ。覚悟を決めるしかない。敵がどれだけ居るのかは、全く不明だが、全ての敵が大輝たちの複雑怪奇な事情を話して理解してくれる保障はどこにもないのだから、腹を括ろう。
「大輝さん……」
長閑が悲しそうな目で見ている。
「刀剣譚は斬り合いじゃ。相手が戦えなくなれば、それで勝利となる」
戦えなくなるという言葉に、異様な重さが感じられる。
戦意喪失して、刀を握れなくなる程度なら可愛いものだろう。
腕を失う。
脚を失う。
最悪の場合は、命を失う可能性もある。
そして、こちらが勝つには、そのいずれかを行わなければならない。相手に一生残る傷を負わせ、自分に一生残る心の傷を負う。そんな簡単に出来る想像に辿り着いたのか、長閑の顔は青くなった。この世は、如何に小説よりも不思議な事が起きようとも、魔法や超能力が物理法則を支配する世界ではない。毒を中和するには解毒薬や血清が必要で、傷を塞ぐにはそれなりの時間と、薬が必要になる。そして、命を落としても呪文を唱えて死者蘇生なんてことは、絶対にない。
長閑の青い顔は、愛する従兄を、大切な小狐丸を心配している顔だ。
そんな長閑の心の底を見透かして、
「案ずるな」
大きな胸を張って、小狐丸は長閑に告げる。
「絶対に主様の命はわっちが守る。わっちの腕や脚が切れても、同じように主様の手足が飛んでも、絶対に命だけは守る」
頼もしくも、悲しくも聞こえる彼女の覚悟に報いる為に、大輝は彼女の短く梳き込んだ銀髪の間に見える三角の耳を優しく撫でてやった。
「主様は優しいのー。わっちにも、巫女にも」
「そうです。大輝さまは優しい人なのです」
ずいっと顔を出して、心の底から笑った大和撫子の顔は、まぶしかった。
「よし、早速、今日の夕刻から敵を探すぞ!」
小狐丸が、高らかに宣言する。
錦織の長い包みは良く目立つ。
人通りの多い八島商店街を通りながら、大輝は奇異の視線に晒されている。注目されているのは、左手に握った小狐丸入りの錦織竹刀袋だろう。
結局、包の中身が何か、そして、何に使うのかが解らなかった五十鈴は、神妙な面持ちで大輝の午後の行動を粒さに観察していた。余りの視線の鋭さに肌に穴が開く所だった。というのも冗談ではない。屋上での一幕が露見していなくて良かったと思う。あの好奇心と探究心の塊に、真剣を持ち歩いている所を見られたら、そして、その真剣が耳と尻尾を生やした人間を目の当たりにしたら。
ぶるっと大輝は身を震わせる。
日が暮れて、段々と春の寒さは強さを増している。昼頃の太陽が高い時には、ポカポカと能天気な程に良い天気だったのに、あっと言う間に寒くなってしまった。
「そう簡単に、見つかるはずもないけどな」
春の中途半端な寒さに、大輝のボヤキは解けて消える。
小狐丸が話した刀剣譚のルールは、実にシンプルだった。
要は、刀剣を使ったバトルロイヤルである。裏切り、徒党、暗殺、夜討ち、朝駆け。結局の所は、敵を倒せばそれで問題ない。敗北の条件は先に話したとおり、戦闘不能になった瞬間。使い手が負けを認める。死亡や気絶する。最後に、刀を破壊する。一度でも戦闘中に、そのような事になった場合は失格ということになっている、らしい。明文化されていないので、どこまで小狐丸を信じるべきか踏み込めていない。
解りやすくて、非常に簡単なルールである。
ただ、大輝には、この刀剣譚について気になることが三つあった。
一つは、最後まで勝った場合どうなるのかということ。
刀たちを擬人化できるような変な能力を持った主催者に会えるのか。莫大な富が手に入るのか。流石に、これは勝ち続けないと、解らない。現状は仮説を立てるための欠片も揃っていないのだから、思考するだけ無駄に近い。
二つ目は、勝利条件の疑問。
武器破壊というのは、解りやすい、だが、使っている側が死亡・気絶による敗北というのは、どういうことだろうか。小狐丸のいうように最強の刀剣を決めるのが、主催者の目的だというならば、使用者にどんな問題があっても戦い続けるように設定するべきではないだろうか。負ければ、刀を狩られるという不文律でもあるのだろうか。
最後は、主催者の存在だ。
いつ、どこの、誰が、何故、何のために、どうやって、という事がさっぱり解っていない。最強の刀を決めるというのはお題目のような気がする。なにやら大きな運命の歯車に轢き砕かれる小石のような気分である。謀るために小狐丸が、話していない可能性も考えられるが、そう判断するのも早計だろう。
難しい顔で考え込む大輝。傍には珍しく長閑がいない。るんたるんたと、軽やかな足踏みで神社へ戻った長閑は、帰ってくる二人のために、ご馳走を用意しているのだろう。先に彼女を帰らせたのは勿論、本質的には無関係である彼女を巻き込む事を躊躇った故の、最良の判断でもある。
「ふむ……」
ただ無目的に歩くも、意外としんどいものである。途中の自動販売機で買ったコーラを飲みながら、商店街の一角に休憩所として設けられているベンチで、大輝は一息ついた。 普段は健康を害すると言う理由で、長閑には買うことすら許してくれない代物だ。こんな風に彼女がいないとき位に、こっそり内緒で飲むしか炭酸を楽しむ事が出来ない。
小狐丸は、「敵を探す」などと高らか言ったが、その言葉には、大輝は内心、げんなりしていた。
何せ、日本の人口は一億二千万。面積も小国だとか揶揄されることも多いが、三十八万平方メートルというと、世界各国の中では十分大きい範疇に入る。日本が小国なのではなく、ロシアや中国、アメリカなどが巨大すぎるのである。その面積の中の一分にも満たない八島市の面積に、どれだけの刀剣譚の参加者がいるかはさっぱり解らない。相手を探す為に「こちらから遠征しろ」なんて、とんでもない事を言い出さないだけマシだろうか。相手がいるところが解っているから「遠征」と言うのであって、行方の知れない、顔も名前も知らない人間を探すことを「遠征」と呼ぶのかは激しく疑問である。
狐娘の言う刀剣譚の参加者。
その特徴は、この銃刀法のご時世に大輝同様に長物を持っているということくらいだろう。どう足掻いても、隠し通せない以上、袋や風呂敷などで、包んで持ち歩くしかない。だが、このような携帯方法では良く目立つのが、人通りを歩いて解った。人の形を取らせて、一緒に歩かせているのか。狐娘みたいに耳や尻尾がないなら、普通の服を着させて、連れ立って歩くことも易いだろう。
ただ、小狐丸曰く、敵の接近を探知する方法はお互いにないということ。
これは意外だった。つまり、相手が刀剣吏を持っている事を確認してから戦うことになる。無関係な人間を巻き込むことのないようにとの配慮だと小狐丸は言っていたが、実際に戦う大輝にしてみれば、冗談ではない。下手に人前で人間に戻したり、刀にしたりすれば、奇襲や辻斬りにあう可能性が増える。そして、初手から向かい会わねばならない以上、戦いを回避する方策が全く打てないという、二つの意味をこの規則は持っている。
このインターネット隆盛の時代だ。誰かに写真でも取られて、流された瞬間、全国各地から襲い掛かってくる。逆に考えるなら、自分をエサにしてどこにいるかも解らない敵を吊り上げるという、方法もあるわけだが、あまり考えたくない方法である。自宅や学校での戦闘は出来たら避けたい。長閑や五十鈴、あと悪友の貴人を巻き込む可能性もある。敵が形振りかまないというなら、人質という手段も喜んで使ってくるだろう。
「はぁ……」
この道行く人の中に、学校関係者がいない事を祈るばかりだ。
いや、居なくとも耳に入らないとも限らない。始業式の日は何とか助命嘆願が聞き入れてもらえたが、次も耳を貸してくれるとは限らない。バカらしい話だが、そういった世界のルールを破れるほど、大輝の胆力は強くない。
この浅葱の色を受ける人々の中に、刀剣譚の参加者がいない事を祈るばかりだ。
いや、居なくとも耳に入らないとも限らない。バトルロイヤルという戦いのシステム上、学校や家の中という相手がリラックスしている時間や場所を狙うのは、基本中の基本。卑怯だとは思わない。だが、そんな場所で戦えるほど、大輝の神経は太くない。
「はぁ……」
もう一度、コーラの甘さと炭酸の特徴的な酸っぱさの混じりこんだため息を付いた時、夕暮れの主婦の買い物で賑わう商店街の人通りが、さっとモーセの出エジプトのように割れた。そして、大輝と海を割った人間の視線が交錯する。
大輝の立つシナイ半島の向こう側、エジプト側に立っているのは、大きく丈を詰めた詰襟に、腰どころか膝でズボンを履いて、大きく制服を着崩している不良が六人。
ずかずかと夕暮れの通りに踵を踏み潰した革靴で、乱暴な足音を響かせてやってくる。 その様子に、善良で噂好きな主婦たちは顔を顰める。そのうちの五人の顔には覚えがあった。昨日、朝から校門前で大はしゃぎしていたので、徹底的に成敗したナンパな不良たちである。「覚えてろよ」なんて、いかにも三下の台詞を吐くものだから、却って顔を覚えてしまっていた。ついでに、暴力女だとバカにされたことも、確りと覚えている。
相手がどんな考えで大輝を観ているのかは知らないが、少なくとも友好的な雰囲気でないことだけは良く解る。赤い光を受けて不気味に手に付けた金属部品が光っている。
「黒髪の、八島高校の男の制服を着た女……」
「へへ、ようやく見つけたぜ」
口々に不良たちは、そんな事を言いながら近寄ってくる。
どうやらお礼参りのようである。
見覚えのある五人のうち、二人。最初に地面に引き倒した男と、宮さんと呼ばれていた男は、顔をミイラのようにしていた。少し遣りすぎたかもしれない。後悔も、反省も一切しようとは思わないが。
繰り返すが、大輝は生物学的にも、精神的にも、れっきとした男である。
ただ、顔が女の子なだけであって。いっそ、ボディービルでもすれば、間違われることは無くなるだろうか。そんな大胆な事を考えたが、筋肉を膨れ上がらせると、奉納剣舞にも支障を来たす事は間違いない。
半ば諦めを交えつつも、手に嵌めたメリケンサックを威嚇的に鳴らす男たちを睨んだ。ここまで間違われているなら、徹底的に叩きのめして、自分は立派な男だと言うことを、解らせてやる方がいいかもしれない。
六対一。
普通は高校生同士の喧嘩なんて、一対二を越えるとまず勝てない。一の方がどれだけの武術を納めているかは知らないが、大抵は一対一を想定して、そして一対一でしか戦う事はない。だから、一人に向かっている間に、背後を取られれば、あとはタコ殴り。人数が増えるほどに、その危険性は増していく。一対六なんて、もう勝てる勝てない以前に、戦おうと思わないのが普通である。ご丁寧に敵が一人ずつ向かってきてくれると言うなら、話は別だが、好戦的な笑顔を浮かべる六人の不良は、そんな悠長な事はしなさそうだ。
向こうは、見つけたことで狂喜乱舞している。昨日は素手だったから蚊の鳴く程度の威力しかなかったが、そんな腰や肩が入っていない素人丸出しのパンチでも、流石に金属武器のメリケンサックが付くと痛い。そんな痛い事に、無駄に付き合ってやる理由は、はっきり言ってない。
だが、ここで下手に逃げると、学校にも迷惑が掛かる。相手はこちらのいる学校を知っているのだから、また学校に押しかけてくるかもしれない。想像するだけで嫌になる光景だ。決して八島高校もお上品な、お坊ちゃま、お嬢さま学校ではないが、昨今のいじめや喧嘩の問題に鷹のような目を光らせている職員のお歴々の胃が傷む事は間違いない。絶対に、騒動の発端となった大輝をお許しにならないだろう。
ならば、さっさと口外しようと思わないほどに、叩きのめす。
「仕方ない。かかってこい」
面倒に見えるが、それでいて凛々しくも見える少女のような少年は立ち上がる。
不良たちは付いて来いという風に、黒ゴマがぺたぺたと付いたような、黒子だらけの不細工な顎をしゃくった。
「ちょっと待ってろよ」
「すぐに、その綺麗な顔、泣き顔に歪ませてやるから」
ヒヒヒと耳を塞ぎたくなるような笑い声を上げる不良たち。
そんな台詞は、男である大輝に言うような台詞ではない。
大輝が連れてこられたのは、町外れの廃工場だった。
商店街から少々離れて、京都や南紀へと通じる大きな国道に面している。山頂の神社に住み、中腹辺りの商店街や学校までで生活を終わらせている大輝は、こんな山麓に近い場所まで降りてくる事は初めてだった。
つい最近まで稼動していたのか、壁や屋根を形成するトタン板には手入れが行き届いていて、薄暗い夕暮れの陽光を部屋の中に引き入れている。コンクリの叩きには、草が一本も生えていなかった。商店街や駅にも近い最高の立地である。そのあたりのこともここの工場主は考えていたのだろう。
だが、今となっては、それも無駄に終わってしまった。この工場が騒音で移転を余儀なくされたのか、資金繰りがショートして畳むことになってしまったのか、はたまた、もっと大きな工場になったのか。それは大輝には、関知できない問題である。
そして、什器が一切合財消えた、ただっぴろい空間を湛える残った建物だけは、しっかりとこうやって利用されている。人の目に着きにくく、商店街や駅にも近く、雨風凌げるという隠れ家にはバッチリの場所だ。外の国道へと通じるコンクリートのたたきには、一目で解る違法改造が施されたバイクが二台停めてあった。
建物の最奥部には、どこかのゴミ置き場から取ってきたらしいボロボロのソファーが置かれ、そこにどっかりと不遜な態度で男が一人、煙草を吹かしながら座っていた。六人の不良と同じように、丈を思いっきり詰め、だらしなく制服を着崩している。恐らくは、彼がこのグループの頭だろう。
「藪北さん、連れてきました」
トップの名前は藪北というのか。これで敵は七人。夕暮れの暗闇の中で、わかりにくいが、まだ敵がいない保証はない。失敗したかと思う。態々、相手の守っている中に飛び込むなんて、自殺行為もいいところである。
「はは、すげぇ可愛らしい顔してんじゃん」
藪北は褒めたつもりなのだろう。だが、コンプレックスに思っている大輝には、禁句である。絶対に言ってはならない一言だ。ピキリと工場の淀んだ空気に、ヒビが奔った。そんな大輝の揺らぎ始めた心中を無視して、藪北は続ける。
「いや、俺は感心してんのさ。今時、不良に喧嘩売って、アベック助けようなんてバカがいる事にさ」
アベックとは、随分と古臭い言い回しをする男だと思った。まるで昭和からタイムスリップしてきたような典型的な不良像の藪北は、煙草を床に落とし、脚でもみ消した。灰がコンクリートを焦がし、擦れ合う奇妙な音がする。
「その女にはさ、前々から俺が目付けてたんだけど、とんでもない邪魔が入ってよ」
「邪魔というのは、俺のことか」
出来るだけ冷たく、迫力のある声で吼えた大輝に、感心したような下手糞な口笛を吹いて藪北は賞賛する。賞賛しているが、褒めてはいない。敵対者を挑発するような、そんな吹き方だった。
「そうでーす。そーですよ。俺の恋路邪魔してくれて、何様の心算よ」
興が乗ってきたのか、周りの不良たちから笑い声が上がる。
随分と横暴な性格で、横暴な物言いだ。大輝は空いている方の手でガリガリと頭を掻いた。暗い中に、弱くなっていた髪の毛が千切れて、消えていく。
「お礼参りっていうか、個人的な鬱憤を晴らさせてもらおうと思ってな。ここに招待したわけよ」
藪北の勿体廻った説明にいい加減焦れていた大輝は、軽く二言で臨戦態勢を取らせる。
「御託はいい。さっさとかかって来い」
その挑発に、六人は簡単に乗った。
ただの喧嘩で真剣を使うなんて愚の骨頂。小狐丸を袋から取り出す事無く、順手で柄を右手に握る。ぐっと力を込めると、袋の中から純綿紅糸の握りが伝わってくる。
「上等だ!」
「畳んじまえ!」
そんな事を言いながら、メリケンサックを構えた不良たちが襲い掛かってくる。
徒手空拳の使い手ならば、下手に自損する可能性のあるナイフを扱うよりも、メリケンサックのほうが効果的な武器になりうる。自分のパンチによる自損からの防御。硬い金属を握ることによるパンチ力の強化。そして、相手の防御の難しさという三拍子揃った良く考えられた暗器なのである。
だが、この不良たちは、単純に腕力があって、顔に迫力があるだけである。
武術の心得なんて、一切ない。ただ、我武者羅に腕を振り回しているだけだ。
六人の体の隙間から見える藪北は、大輝がしこたま殴られる様を期待しているようだった。ニヤニヤと気色悪い笑みには、どこまでも性根の腐敗が滲み出ている。悪い奴なら今まで散々と見てきたが、コイツは小悪党にも程がある。
だから、
「ぐぇ!」
正面から飛び込んできた男は、小狐丸のリーチに自分から入ってきて喉を潰される。相手の拳の軌道が分かれば、体運びも解る。後は鞘を相手の体が通る場所に置いておくだけで、勝手に自滅する。まずは一人。
そのまま、刀を右に払い、右の横合いから来ていた不良の頬を打つ。不細工に顔が拉げて転がる。同時に左にはその刀の振りの勢いを利用した脚払いを掛ける。易とも容易くすっ転んで、体が宙に浮いた一瞬を逃さず、脇腹に踵をぶち込む。
これで三人。半分を倒した計算になる。
大輝は、攻撃の手を緩めない。
脇に構えた小狐丸の鐺を手首で引き上げ、後ろに居た不良へ金的を放つ。
「ぐふっ……」
切ないうめきと供に、崩れ落ちる。その痛みは、同じ男だから良く解る。しばらくは悶絶したまま、立ち上がれないだろう。勢い良く撃たれた部分を押さえて、転げまわっている。これ以上の追撃も流石に可愛そうだと思い、情けを掛ける。昨日、最初に蹴り飛ばした不良だ。どこの美容院で脱色したら、そんな色になるのかというくらい黒い色素が抜け切っていないプリンみたいな色をした頭の不良。
一瞬で四人も熨された事に、残っていた宮さんは、脚を引いた。
彼の脳裏には、武器を使わずに倒された、昨日の朝の情けない記憶が蘇っていることだろう。唯一の寄る辺であった、自分の腕力を否定され、仲間を一瞬で打ち据えられ、半分狂乱している。
「さて、あと二人」
顎にかいた汗を油断なく、手の甲を使って拭き取る。
拭き取り切れなかった汗が、真珠のような煌きを放ちながら、宙を舞った。
「宮元ォ、さっさとやっちまえ!」
ソファーに座ったままの藪北が吼える。随分と大きなダミ声だ。言うことも不快なら、言う声も不快である。建て付けが弱くなっていた壁が小さく震えた。前進も後退も出来なくなった宮さんこと、宮元は、破れかぶれで、必死の形相を浮かべて殴りかかってくる。その醜く太った腹へ目掛けて、右脇からバッドのように振り回す。思いっきり左足を踏み込んで、綺麗な軌道を描いて放たれた小狐丸の腹が、宮さんの腹を抉る勢いで、打ち据えた。
「ごぼっ……」
口の中から、痰とも、唾液とも付かない液体を吐き出して宮さんは崩れ落ちた。
最後の一人は、彼の後ろから襲いかかろうとしていたらしく、一緒に巻き込まれて倒れてしまった。宮さんに比べると細腕で線の細い、頼りない顔をしている。手を貸さねば、這い出る事は出来ないだろう。これで終わりだ。
「ひゅ~」
下手糞な口笛が、聞こえてきた。
工場の中に酷く低い音程で響き渡る口笛は、一部始終を見物していた藪北のものだ。どうやら、他に伏兵はいないようである。パチパチと気のない拍手と一緒に、新しくくわえたタバコから白い煙を付加していた。
「六人相手に、一瞬かよ。可愛い顔して、エグイね」
「ふん」
短く鼻を鳴らして憤慨する。可愛い顔などと気にしている事を言われた事もそうだが、相手との戦力差を良く理解せずに襲い掛かってきた方が悪いと思いっきり叫びたい。昨日の宮さんの様子を見ていたら、反撃やお礼参りなんて考えようとは思わないだろうに。
「それに、それ」
手に持っているモノを指差してくる。ゴツゴツした節くれだった老人のような手だ。人を殴ってきた指の節の壊れた手を持つ藪北は、ソファーの下をゴソゴソと弄る。手に目的のモノを見つけたようで、ニヤリと無粋な金色に染められた髪が飾る、狼みたいな顔を歪ませた。
「木刀とか、そんなんだな。んじゃ、いっちょ遣りあうか」
ソファーの下に隠していたのか、長い袋に包まれた品物を大輝に見せ付けるように持つ。
丁寧に紐で縛って封のされた包を解いていく。袋の中から現れたのは、紐の巻かれた柄漆塗りのされた鞘。普段から見ているから解る。あれは、紛れもなく日本刀だ。
だが、鞘に汚い装飾がなされている。螺鈿や金箔押しなら、漆の独特の黒さにあって、綺麗な色合いを出していただろう。だが、藪北がしているのは、細かいビーズやキラキラなデコレーション。ピンクや赤などの刀剣には似合わない、不躾で、不快で、怒りのこみ上げてくる色を、漆黒の中に浮かべている。
「俺ってさ、昔は剣道少年で、そこそこ、いいところまで行く様な常連だったのよ」
誰に語るでもなく、藪北は話し始める。
「でもな、先輩殴って退部になって、そこからよ」
出来るだけ悲壮に。出来るだけ同情を引くように。
「まあ、見事に不良さん街道をまっしぐら。こうやって剣の腕があったからさ。こいつら従えて、美味くやってるわけよ」
ドカドカと足元に転がっている仲間の腹を鞘に納まったままの刀で打ちつける。ぶつけるたびに、嫌な呻き声が暗がりに響く。乱暴な打撃に、大輝は顔を顰めた。彼の秀麗な綺麗な顔が不快に歪む。
「ちっ、役立たずどもが」
「一応、礼儀というか形式として聞いておくけど」
そんな前置きをしてから、大輝は本題をぶつける。自分でも酷くひび割れた声だと、骨を通して伝わる声に解った。
「そいつらは仲間とかじゃないのか。傷ついて何も思わないのか」
「はぁ?」
鞘打ちの手を緩めず、藪北は宮さんの腹を殴り続ける。
「こいつらは道具さ。これと一緒でな」
刀の鞘として使われる朴の木は、下駄の歯などにも使われる均質で柔らかく加工やしやすいが、結構、硬い木材でもある。だからこそ、大輝も向かってきた不良の意識を奪えたのだ。あれだけ一箇所を乱打すると、とてもではないが、体の中身が無事では済まない。
「ムカつくよな。必死に真面目に練習してきたのに、こんなんだぜ」
小さな呻きを挙げる不良の腹に、大きく振った足刀を叩き込んだ。
「同情でもしようか?」
不快感を言葉の隅々にまで浸して、大輝は放つ。
「冗談。同情なんていらねぇよ。だけどな」
藪北が手を離すと、ドロンと煙と一緒に刀が人の形を取った。
毒蛇は、自らに毒がある事を相手に知らせると言う。煙の中から現れたのは、そんな毒のある事を誇示するように汚らしいメイクを施した女の子だった。観ていて不快にさせられること請け合いだ。おどけた小狐丸とは対極に居るような子だ。
彼女の服は、藪北に合わせて造られたらしい、裾を大きくぶった切った、ミニミニにも程がある丈の黒い和服だった。僅かに帯下に残った生地からは、太ももが大きく露出している。高級そうな反物に対する扱いではない。折角、袖口の袂に広がる黒い海に浮かんでいる金魚も元気がなく、撥ねていない。バイクの改造も酷いが、服の改造も酷い。
小狐丸に服を当てた時からもしやと思っていたが、どうやら、鞘や柄などの装飾は人化した時にも、適応されるようである。保存用として使われる白木拵えで人化した狐姫は、裸だったが、千早を着せると、今手に持っているような、立派な鮫皮に純綿赤糸に、赤漆塗りの刀になった。
一方、キラキラな不良の好むデコレーションは、刀の中身を毒々しい外見へ変えていた。見てくれだけを重視する刀の価値を分かっていない人間にありがちな間違いだ。
「こいつが、いきなり俺の前に現れてな」
傍らの少女を抱きながら、藪北は続ける。
「刀剣譚だとかワケの分からんもんに出ろなんて言いやがって、驚いたよ」
撫でられる方の銘も刃紋も確認していない刀は、黙って撫でられている。
まるで感情などどこかに置き忘れてきたのかと言う風に無愛想だった。不健康な褐色に焼けてしまった顔からは、感情が一切読み取れない。何を思って藪北を刀剣譚へと引き込んだのか。
「だけども、勝ち残れば、何でも一つ願いが叶うって聞いてな」
ピクリと大輝の手が震えた。握った小狐丸が反応している。
そんなビックニュースは、初耳である。小狐丸は、そんな事を微塵も口にしなかった。まだ、説明していないのか、忘れていたのか。それとも単純に、藪北を戦いに引きずり込むために刀が吐いたブラフという可能性もある。
「勝ち残って、俺を馬鹿にした奴らを全員、潰してやろうと思ったのさ。そんなことなったら、俺は爽快だし、気分がいい。俺を馬鹿にした奴、全員をこの手で叩きのめして、ムカつく奴ら、全員支配してやるのさ。何でもいいなら、そんな支配者になることも叶うだろうよ!」
「そっか」
藪北の話を大輝は聞くでもなく聞いていた。
こんな今時観ない悪役的思考をしているような、アウトローを部活の中において置けるほど、誰も彼もやさしい人間ではないだろう。彼が放逐されたのは、自業自得。そこに誰かの意思も、神様の運命も、介在する予知は一切ない。どこまでも単純で純粋な逆恨みだ。
「テメェはムカつくからよ、さっさと抜きな」
「チッ」
ここで逃亡という選択肢は存在するが、取れない。
舌打ちして、袋の包を開く。ここが人目につかない場所で良かったと思う。ドロンと小狐丸が人の形を取る。ピンと尻尾は興奮に逆立っていた。初陣に不安と、興奮を感じているのだろう。小さな手は僅かに震えていた。
「小狐丸」
そのピクリピクリと震える耳を優しく撫でる。温かな体温を感じる耳だ。元は冷たい、鋭い無機質の物体だというのに、その肌は人と変わらず温かかった。
「な、なんぞ主様。わっちは震えてなぞおらんど!」
「強がっているのは、お見通しだ」
体だけでなく、声も震えていた。
「何だ、お前も俺と同じかよ。刀剣吏の使い手」
好戦的な笑みを藪北は浮かべた。獲物を見つけた狩人の目。金髪の下から覗く目は、雄弁に捕食者であることを誇っていた。
剣道の大会、どの程度の規模なのかは知らないが、あんな風に誇るということは、それなりに大きな大会だろうと想像は付く。剣道の有段者相手になると、流石に単純に拳を振り回していた宮さんたちよりも、相手にしたくはない。
ましてや、相手は真剣を持っている。
「小狐丸、初陣だ」
「了解じゃ、主様」
藪北は既に刀を正眼に構えている。
「心配するな。この程度の相手に負けないからよ」
惚れ惚れするような、理想的で、綺麗な剣道の構えである。
対して大輝は鞘から抜かない。左手に提げたままだ。
「い」
それを好機と観たのか。それとも挑発と取ったのか。
「く」
二メートルの位置まで刀を振り上げて、滑らかな足運び。
「ぞ」
近づいて、思いっきり叫ぶ。
「めぇええん!」
大上段からの面打ちが入る。滑らかな軌道を描いて落ちてくる真剣の一撃。それを大輝は刀身で受ける。体格は藪北の方が、二十センチは高い。剣道は体格ではなく、経験のスポーツだと良く言われるが、それでも打点の高い方が、有利であることには違いない。速度と威力は、高い所から振り下ろす方が大きくなる。
それを大輝は簡単に受け止めた。全身の関節と筋肉を巧に使い、衝撃を地面へと流す。
「な……」
驚いたのは藪北の方だ。避けられた後、有効打を外した後、ここから小手や抜き胴に持っていくのが王道である。だが、大輝はこの後の続け技を完全に受け止めることで防いだ。そのまま半身を捻って、鍔と柄を握った右手を刀身にぶつけ、左に払う。
「おっと!」
踏み込みの後、右足に力を込めていなかった藪北は、それでバランスを揺らした。
刀は恐るべき武器だが、所詮は刃物である。包丁や鎌同様に刃の部分に触れなければ、切れも傷つきもしない。鋼と肉がぶつかり、肉の側に痛みは感じるが、その程度だ。我慢できないほどではない。そのまま鐺を藪北の腹に打ち込む。鞘から抜き放っていれば、確実に皮膚を裂き、腸を斬っていただろう。刺突を打撃として使う小技だ。
その痛みを藪北はぐっと耐えて、脚を踏ん張る。
地面まで落ちた剣を、再び藪北は正眼に構える。理想的な剣道の始まり。
だが所詮、藪北は剣道家なのである。八島大輝に勝てる道理は、存在しない。真剣を使った時に、最も大事な「刃筋を立てる」と言うことが藪北は全く出来ていない。幾ら切れ味の良い刀であっても、刃筋が立たねば、確かに凶器になりうるが、所詮は鉄の棒を闇雲に振り回しているのと、何ら変わらない。
そして、大輝の使う技は、喧嘩術である。剣術ですらない。
勝つためなら武器も、拳打も、足技も使う。
柔術や合気術でさえも、戦う為に組み込んでいる。
狙う位置も正々堂々とした面や胴、小手の位置なんて狙わない。一撃必殺の人体急所を卑怯だと罵られても、勝てば良いのだから、的確に、何度でも狙い打つ。そんな勝つことだけを至上とした人間の土俵に、正々堂々が基本のスポーツである剣道で上がりこむのは、どうぞ殺してくださいと言っているようなものだ。
大輝は藪北を捕食者だと思った。
事実、藪北は何人もの不良を従えられる捕食者だ。だが、それは虫を食す蛙、海草を食む小魚程度の捕食者だ。蛙を食す鷹や雉、小魚を食す鮫や鯨に勝てる道理はない。
大輝は、真剣を振り回す藪北を、相手にしたくないと思った。
真剣を振り回されると、加減がし難い。幾ら鞘から抜かないで戦っているといっても、何かの弾みで藪北が持っている刀で自損する可能性もある。
「くそがぁ!」
もう一度。体勢を立て直した藪北がバカの一つ覚えのように、大上段に振りかぶって全てを叩き割るような一撃を放ってくる。勢いの良い踏み込みと供に接近してきた藪北へ、大輝も脚をカウンター気味に踏み込ませる。
白刃が振り下ろされるまでの僅かな間。
その間に、勝敗は決した。
左腰に溜めた小狐丸の柄尻を藪北のがら空きになった鳩尾へと叩き込む。人体にいくつかある急所の一つ。硬い金属を勢い良く叩き込まれた藪北は、それでもぐっと脚を保つ。
「てめぇ……」
呻きつつも、刃を大輝の背中目掛けて振り下ろす藪北。
「随分と、タフな体だな」
まだ交戦の意思を示す彼に思わず感心してしまう。だが、油断はしない。彼の顎をめがけて、右手を支点、左手を力点にして、鞘を勢い良く押し上げて、強打を放った。これで藪北は完全に沈黙した。持っていた剣を取りそこない、コンクリの叩きに冷たく、綺麗な音を響かせて落ちた。
二度も人体急所を狙われて、無事で済むはずはない。普通の剣道なら、面や胴など防具で覆われている部分で、尚且つ、狙うような場所ではない。気を失った藪北は、そのままどうと崩れ落ちた。
「よし……」
体に掛かっていた重さが消えた大輝は、小さくガッツポーズをした。
相手の気絶により、刀剣譚の緒戦を制した事になる。
もっと武士道や侍魂という崇高な精神を、神主である大輝は受け継いでいないが、もっと丁寧に、果たし状や挑戦状を送りつけてきて、果し合いになるものだと勝手に想像していた。こんな不意の遭遇なんて、二度と御免だ。
「ふ、ふぅ~」
気を失った藪北たちを見て、ドサリと大輝は腰を落とした。
全身に張り詰めていた緊張が柔らかく解け、重苦しい空気が少しだけ軽くなる。
「だ、大丈夫かの。主様」
「大丈夫だ。傷はない」
狐耳を生やした女の子に戻った小狐丸が、心配げに大輝の顔を覗き込んでくる。鏡を見なくても解る。凛々しい顔立ちには、体中の水分を全て流し捨てる瀑布のような膨大な汗が止め処なく流れているはずだ。それを制服の袖口で拭って、心を落ち着ける。
いくら「女顔」をバカにされ続け、売られた喧嘩を只管買って、喧嘩術で体を磨いて、場数を踏んで、喧嘩慣れしているといっても、真剣相手の戦いなんて初めての経験だった。真剣での打ち合いは、やはり次元が二つも、三つも違う。一歩間違えていたら、自分の心臓を、あの浅葱色の夕焼けを受けて不気味に煌く刀身が貫いていたかもしれない。命を失うには、まだ早い年齢だ。
それを考えると、また一層汗が噴出す。
これを毎回、繰り返していかねばならないとなると、かなりの精神的疲労が激しい。
大輝の僅かばかりある、冷血な精神が磨耗で消え去るのが先か、それとも、刀たちの闘宴が終わるのが先か。それは、全く解らない。
「取り敢えず、帰るぞ」
「解ったぞ、主様」
「と、その前に」
藪北の振るっていた刀の鞘と刀を取り上げる。ずしりと、先程まで自分の心臓へ落ちようとしていた白刃は、小狐丸よりも重たく手のひらに響いた。丁寧に鞘へと戻し、袋へ優しく包む。破壊どころか、一度しか触っていないので、刀身には欠けや傷は見当たらないはずだった。ただの一度の拳打と鍔打ちで罅が入るほど、鋼や鈍を組み合わせて作られた日本刀は脆いものではない。だが、
「すげぇ雑に扱っていたみたいだな」
藪北の持っていた刀は、傷だらけで、刃にも彼方此方に欠けが目立った。専門家でない大輝の目にもわかる位に、全く手入れがなれていない。どれだけ素晴らしい名刀であっても、刀は金属だから空気や水に触れ続けていれば、錆びて刃が落ちて、切れ味が鈍るのは自明の理である。剣道少年だからこその、真剣への思い入れのなさが齎したことだろう。
「勿体無いことして……」
この刀は、研ぎ直しでは間に合わない。もう鋳潰さないとダメだろう。
平造りの刀身に走る数珠刃の刃紋が、まるで涙を流しているように煌いていた。もしかしたら、藪北に何をされても黙ったままだったのは、彼女の最後の抵抗だったのかもしれない。見栄えだけに拘って、肝心の中身を大切に扱ってもらえない自分に、引導を渡してもらう為の、ささやかな行動だったのかもしれない。
そんな事を勝手に思う。
「なあ、小狐丸」
「どしたのじゃ、主様?」
何気なしに訊いてみた。
「俺が触って人化させるとかできないの?」
その言葉の言外にある事を知って、小狐丸は丁寧に答えた。
「それは知らんのー」
「そっか」
短い確認のような雑談を終えて、小狐丸は大輝の手の上でドロンと刀に戻った。
そこら辺に投げ捨てていた錦織の竹刀袋に戻し、優しく仕舞った。袋の中で、小狐丸は震えているようだった。捨てられる事を恐れているのか、それとも、藪北のように乱暴に扱われることを恐れているのか。どちらも、無用な心配だと安心させるために、袋の上から優しく大輝は鞘と鍔を撫でてやった。
あまりに戦いに集中していた為に、大輝は気が付かなかった。
小さく震えながら、観ている一つの影を。
討ち果した相手をどう扱うか。
戦国の世なら首を刈り取り、主君の下へと馳せ参じる。その後は首実検である。
幕末の世なら遺体と人相書きを良く見比べてから、後始末である。
では、平成の世ならば。
武士でも武家の生まれでもない大輝は、首を刈るでもなく、人相書きを調べるでもなく、取り敢えず119番することにした。
近くに殆ど捨てられるように残っていた電話ボックスを見つけ、緊急連絡用の赤いボタンを押し、工場の大体の位置を電話口で困惑している通信士に一方的に告げると、これまた一方的に受話器を置いた。すぐにでも救急車が駆けつけるだろう。夕方の帰宅ラッシュに巻き込まれなければ、国道沿いの工場には、数分くらいで白と赤の車が到着するはずだ。
その前に、大輝は逃げた。
思いっきり奔って、逃げて、自宅へ帰りついた。
小狐丸と、藪北が持っていたボロボロの刀と一緒に。
見事な切れ味のある刀がなければ、単なる不良同士の喧嘩ということで警察にも処理されるはずだ。不良たち七人が他の敵対していたグループと戦って、逆に返り討ちにあった、という設定で通信士には話していた。
本来なら、通報者は傍にいるのが義務なのだが、あまり根掘り葉掘り聞かれても、警察や救急隊が、刀が擬人化して、刀剣譚なんていう戦いに巻き込まれていますなどという荒唐無稽な話を信じてくれるとは思えない。
話したところで行き先が、警察署内の留置所ではなく、精神科の受診をオススメされるだけだ。
「全く、これを続けなならんとなると、大変だぞ」
ある意味、終わったあとの処理のほうが、刀剣譚は大変そうだ。
そんな愚痴を零しながら、夕食を摂っていた。
「そうじゃのー、何と不便な戦いじゃろうか」
それを巻き込んだ本人が言うかと。
戦いの場に臨んで、ブルブルと震えていたのが嘘のように、小狐丸はパクパクとご飯を食べ続ける。変わらない食べっぷりである。見ていて帰って気持ちよくなるほどの食欲だ。
「まあ、時代が時代と言うのもあるがの。前は幕末に行われとった」
京の都で、維新志士と新撰組が殺し合っている中でしていたのか。近藤ら幕臣と、岡田や河上のような志士側が持っていた名刀も、もしかしたら刀剣吏なのかもしれない。
「誰が誰を殺したのかなんぞ、解りようがないし、当時の京は幕臣と志士の戦いの場だったしの。その両陣にも、わっちらが紛れ込んでおったと、考えても不思議ではなかろう」
幕末から、既に百年以上。
刀を持つ人間には、なんとも住みにくい時代になったものだ。そんな事を小狐丸は愚痴り続ける。彼女の言うとおり、刀の意味なんて、いまやコレクションくらいしかない。
食べ終えた大輝は、テレビを付ける。長閑がむっと抗議するような視線を向けてきた。食事中のテレビや新聞、読書というのは、行儀が悪いと言われている。それを長閑は忠実に守っているのである。気を引くという理由で、あまり食べ終えた大輝が入れるのもあまり感心してない。
だが、大輝には従妹姫の詰問するような視線に耐えてでも、調べたい事があった。
チャンネルを回し夕方のニュース番組を探し出す。
「あ」
画面の向こうに見慣れた風景が映っていた。ちょうど八島山の稜線を南側から捕えた住宅街である。銀板写真が撮られ始めたくらいの写真が、八島神社の神前にも飾られているので、良く知っている。稜線はそのままだが、周りの田園風景は、住宅街に変わっていた。
現場に派遣された若いキャスターが青い顔で説明しているのは、五十鈴が懇切丁寧に解説してくれた、街の博物館の館長が殺されたニュースの続報だった。よほどショッキングな出来事だったらしく、一夜たった今晩も生中継で放送している。
「辻斬りの続報ですか」
「いや、違う。この街の博物館の館長が殺されたって聞いて」
おっさんのように歯の隙間を楊枝で、大口開けて穿っている小狐丸の前から皿を取り、纏めて洗い始めていた長閑が聞いてきた。
「多分、辻斬りの仕業だと思いますけどね」
「んじゃ、五件目で遂に殺しか」
二人は、そんな凄惨な事件を、ブラウン管越しに探偵気取りで、説明を聞いている。と、言っても説明だけ聞いても、五十鈴と違って、ひらめく事はない。ただ、殺されたと五十鈴には、聞いていたが、どうやら発見が早く、一命は取り留めたらしい。
上空からヘリコプターを使った空撮画面に切り替わり、付近の住民、館長が教授を務めていたという大学の学生へのインタビュー映像が次々と流れていく。相当、慕われていたらしく、インタビューの中身は好意的なものばかりだった。
『館長の原田仁介さんは』
インタビュアーの桜色の紅の引かれた唇から零れた名前に、二人とも聞き覚えがあった。
「原田さんって、お爺様と喧嘩していませんでしたか」
「年明けだったか。刀とか伝承物とか譲ってくれって来ていたな」
そう言えばと思い出す。年の始め、神社が一年で最も忙しい時期に、丁寧に高級そうなスーツを着こんで菓子折りを持って、原田氏は八島神社へやって来た。要件は祖父、元治との交渉。八島神社に眠る御神体や古文書を譲って欲しいとの事だった。
なるほど。そのような申し出は、郷土資料館の館長というなら、それも納得である。
結構、割のいい額を提示されたようだが、祖父は袖にした。繁忙期で気が立っているところへ、そんな話題を振り込まれたら、誰だって断わるだろう。それに時期だけでなく、京に都があった頃からの由緒正しき、神社の系譜。それをたかが十数年やそこらに出来た博物館に金や物で渡すことなど、誰が出来ようか。原田仁介というと、その道ではそれなりに権威のある人間だと後になって知ったが、そんな事は元治も、その跡目も興味がない。
勿論、その後も何度か見えたが、全て追い返していた。
最後に彼が見えたのは、三月の頭頃である。
その時は、遂に元治は烈火の如く怒り狂い、罵詈雑言を浴びせて追い返していた。祖父が足を折る怪我して入院したのは、その後すぐである。健康体の祖父が、怪我をするなど珍しいと、大輝は正直、彼を疑ったが、杞憂に終わった。
「むむむ!」
「おい、こら」
入院中の祖父の見舞いに明後日当り行っておこうと思いつつ、探偵気取りで眺めていた大輝の膝上へ、トタトタと小さい体を生かして、小狐丸が割り込んできた。フワフワな尻尾が顔に当り、鼻をくすぐる。くしゃみが爆発した。あまりの爆風と爆音に、小狐丸も、長閑も飛び上がる。膝の上で飛び上がった小狐丸が、また大輝の小さな鼻をくすぐって、二発目が炸裂した。
「大輝さま~、くしゃみの時は、ちゃんと手を押さえて下さい~」
「あ、ああ」
思いっきり立っている小狐丸の大きな尻尾を押さえる。これ以上の爆発は鼻が痛い。
「のう、主様」
「何だ?」
大輝にぐっと握られた尻尾を振りほどいて、膝の上に不釣合いな大きな胸を押し付けつつ、小狐丸は聞いてくる。昨日の今日だというのに、何故か昔からの知り合いのように慣れてしまっていた。事実、昔から二人を見守り続けたのだから、間違ってはいないのだが。
「この辻斬り、もしかすると、わっちらと同じモンの仕業かもしれんぞ」
「何?」
確かに、レポーターの状況説明では、相当大きな刃物で腹部を切り裂かれていたらしい。ぱっくり開ける位に大きな刃物と言うと、やっぱり日本刀とか、刀剣類だ。刀剣吏と供に館長を襲って、展示してあった刀を奪って逃走。もしくは、単なる強盗であって、盗みに入って、見つかったものだから、斬り捨てて逃走。どちらの可能性も考えられる。
だが、呑気に見ている場合ではなくなった。秀麗な眉根に深い皺が刻まれる。食後のゆるゆるとした団欒の雰囲気が、一気に引き締まる。この犯人が近くにいて、夕方の大立ち回りを見ていない可能性は、決して零ではないのだ。自宅で気を張るのも疲れるが、悲観的に警戒しておいて損はない。
「た、大輝さま……」
不安げな表情で長閑が傍に寄ってきた。手からは洗い立てのシャボンの匂いがする。
「……」
電気の点いていない部屋。本殿や、拝殿など、人のいない場所。暗闇に人の気配がないか、リビングから注意深く観察する。人が境内をうろついているなら、懐中電灯くらいは用意しているはずだ。放火や盗難を防ぐ為に、母屋には警報機が付けられているが、反応はない。今のところ、神社の中にいるのは、この三人だけだ。
振り子時計の音が、大きく響く。
ボーン、ボーンと八時を告げる音がして、三人とも身を竦ませた。
「……早く寝るか」
誰からともなく、何気なしに呟いた一言で寝所へ向かう。
「不法侵入者が怖いです」「強盗が怖いです」と連呼する長閑。
「主様を守ると言ったぞ」「近くに居らんで何とする」と連呼する小狐丸。
「一人で寝させろ」と抗弁する大輝ではあったが、二対一では相手にもならない。そのまま二人とも、ズルズルと引っ付いてやってきてしまった。明日は土曜日ということもあり、新学期が始まってから、最初の休みだ。ちょっと多めに練習しよう、その後は、ちゃんと新学年恒例の実力テストの勉強をしよう。そんな風に心に誓って、目を閉じる。
「すぅー、すぅー」
「くかぁー、ぐかぁー」
「……」
前言撤回。
一分もしない間に、目を開ける。
右からは、健やかな少女の寝息が。
左からは、けたたましい狐の寝息が。
決して厚くはない胸板に顔を埋め、規則正しい寝息を掛けてこられては、眠れるものも眠れない。昨日は全く意識しなかったというのに、何故今日に限って、こんな風に二人の吐息を感じるのだろうか。気にする事無く寝られないのは、どんな理由だ。何か腹に重たいものが乗っているような気がする。
「まさか……」
はっと思い当たる所があって、布団を跳ね除けると、早速、寝相の悪さを発揮した小狐丸が、尻尾と右足を腹の上に乗せていた。人の布団で堂々と大の字になって眠っている。なんとも幸せなそうな寝顔である。だが、少女と狐の幸せな寝顔よりも、自分の睡眠のほうが重要である。押入れに入れていた来客用の布団を敷いて、二人を其処へ運ぶ。
「よし…」
せめてもの情けということで、教育委員会のお小言は覚悟の上で、一緒の部屋で寝ることにする。決して疚しい思いは持っていない。持っているはずないと自分の心を信じたい。そんな誰に向けたのか解らない言い訳を口の中で間誤付かせながら、小狐丸を退けた後の布団に戻る。
「げ……」
布団の中には、彼女の銀色の毛がビッシリついていた。ちょうど犬や猫が這い回ったような感じである。やっぱり尻尾を消す方法を考えてもらわないと。これから蚤のアレルギーで毎日、痒い思いをして過ごすのは御免だ。
二人が寝ている中でガムテープを持ち出して、一本一本取り除くのも今の時間からは大変な重労働だ。何よりも終わったら、深夜を迎えそうな気がする。一刻も早く、体を襲う倦怠感を払いたい大輝としては、さっさと寝たい。多少の痒みは我慢することにする。
ただし、これ以上毛を巻かれるのも御免なので、台所からゴミ袋と輪ゴムを持ってきて、小狐丸のしな垂れた尻尾を隙間なく包む。これで毛が落ちても全て袋の中でばらつかない。後の処理も楽でいい。
「はぁ…、寝よう」
人間が一番油断している、食事時、そして寝起き、就寝中の夜討ち、朝駆けの可能性はあるのだが、そんなことにまで気を配っては居られない。防犯用の警報機をこれほど頼もしいと思った事はない。境内に不審者がいれば、枕元の携帯が鳴り響くはずだ。
二人を退けて、目をつぶると、興奮材料と体への圧迫感が消えた。
快適に眠れそうだ。
目を瞑ると、すぐに眠りの世界へと旅立った。
夜中の二時ごろだろうか。
ふと、大輝は違和感を覚えて目が開いた。また腹の上に圧迫感を感じる。小狐丸が、また寝ぼけて布団に入り込んでいるのか、トイレに立った長閑がこちらへ戻ってきたのか。どちらにしても、寝にくいことには違いない。
二人を退けて、もう一度寝に掛かろうと起き上がったとき。
自分の上に乗っていた謎の人物と目があった。暗闇の中で、相手の目が猫のように金色に煌いている。段々と目が慣れてくると、その人物の着ている服も解ってきた。
褐色の肌。
黒い高級な反物をぶった切って作られた、勿体無い事この上ないミニ丈の和服。
藪北の持っていた刀の刀剣姫だった。
「お前……」
使い手の元から、余りに酷い痛みを不憫に思って、持ってきたのだが。
「使い手のお礼参りか?」
新学期の初日から不良と大立ち回り、小狐丸と出会って刀剣譚に巻き込まれ、その不良にお礼参りされ、使い手にお礼参りされ、その刀にお礼参りされ。
つくづく春休みに二人と誓った優等生のレールから外れているような気がする。
「そんな心算はない」
「そうか」
彼女は短く呟いた。
どうやって彼女が刀から人間の形に戻ったのかは分からない。小狐丸は、どうなるか知らないと言っていたが、どうやら自由意志で戻れるようだ。ただ、選ばれた使い手は、二度と刀剣譚には参加できないのは、間違いない。
「じゃあ、何で俺の上に乗っているんだ?」
「別に、深い意味はない」
褐色の肌をした刀剣姫は、淡々と答える。
「資格を失っても、破棄破壊されなければ、こんな風に人の身を取れるという事を示す」
小狐丸の説明に、全く疑問を持っていなかったわけではない。
例えば、剣の破壊、もしくは剣の持っている核のような標的となるものの破壊によって、失格と言うならば、最強の刀を目指すという小狐丸の説明には合理性と辻褄があう。
だが、使い手の戦闘不能というのは意味が分からなかった。剣そのものは無事なのだから、人の身を取れる剣が新しい使い手を捜して走り回る事だって考えられるわけだ。幾らなんでもゲームとしては、随分とザルなルールが敷いてある。
「そうか。それで何がしたい」
眠さを堪えて、真っ直ぐに彼女を見据えた。
壁に掛けられた柱時計の振り子が、カチカチと規則正しい音を刻み続ける。僅かな言葉の遣り取りしかしていないのに、永遠にも感じられた。誤魔化しは無用だと、無理だと感じて、真剣に見据えて、冷静に言った。
「俺は、君を使ってやることはできない」
「……」
「君の体は、もう刀としては失格だ。次に戦うような事があれば、確実に折れる」
「……」
「君がどんな気持ちで、人の身を賜ったのかは知らない」
淡々と告げる大輝の言葉をどんな気持ちで聴いているのか。暗がりに解けた怜悧な褐色の顔は、じっと黙ったままだ。その猫のような煌く目に言い聞かせるように、大輝は一言だけ、言った。
「ちゃんと、弔ってやるから安心しろ」
「そうか」
それだけ言うと、彼女は大輝の上に乗ったまま、三つ指を突いて頭を下げた。
「私の名前は、稟風月。助けてくれてありがとう」
銘を名乗り、凛風月は再び、痛んだ刀に戻った。藪北が適当で、実用性を失ったデコレーションを施した黒漆の鞘は、何度見ても酷い。一気に腹の上の圧迫感が消えた大輝は、ドサッと体を投げ打ち、真っ暗な天井を見上げた。
(ああ、もしかしたら)
もしかしたら、刀剣姫というのは、刀の付物神なのかもしれない。
小狐丸も、凛風月も、そして、まだ見たことのない他の刀剣姫も。
大切にしている「モノ」には、魂が宿ると言う。日本独特の八百万の神という思想だ。モノに宿った神様、それが刀剣姫なのではないだろうか。
神学的、宗教的な考えに到るのは、職業病なのだろうか。神社の慣習や思考形態と言うものは、十六年のうちにしっかり骨身に刻まれ、染み渡っているらしい。こんなファンタジー、貴人は笑うだろうし、五十鈴は苦言を呈するだろう。
(それが、人の身を得た理由っていうのは……)
何気ない思索の海に浸る。
単純に、最強の剣を決めるとか。
単純に、最強の剣士を決めるとか。
そんな男の子が憧れるような「称号」の問題ではなくて。
もしかしたら。
美術品としての価値を見出したり、御神体として利用されたりと、本来の意味で使われなくなった刀剣たちに、今一度、本当の使い方、本来あるべき姿、つまりは殺しの道具としての役割を、戦う道具としての意味を思い出させる事なのかもしれない。
(何てな……)
そんな事を考えても無意味な話だ。
今の平和な時代に、刀は不要。小狐丸が言っていたとおり、刀は不必要な存在なのだ。
そんな時代に、刀剣譚という争乱を巻き起こした主催者の思考が読めなくなった。元々、読めていないのだが、凛風月の言葉を聞くと、ますます分からなくなった。誰が、何のために、そして、勝ち残った後の事は、どうなっているのか。
分からないままに、目を閉じて、そのまま睡みへと落ちていった。
窓の向こうに見える黒い空からは、雨が降り出した。
今流れている天気予報では、健康的に日焼けした男の気象予報士が歌うような口ぶりで話している。今夜から明日一日降り続いて、明後日日曜の朝には止むと言っていたが、所詮は予報だ。風向き次第で雲の動きは大きく変わる。黒い空を見上げる彼女は、あまり天気予報というモノを占いやオカルトと同一視して、信じていない。
見るでもなく見ていたベッド脇の液晶を消し、昨日の晩担ぎこまれた教授の容態を確かめる。既に腹部の縫合手術も終わり、心拍も安定したリズムを刻み続けている。
後は、彼女も心待ちにしている、教授が目を覚ますのを待つばかりとなっていた。
時間は、既に九時前。
とっくに入院患者への面会時間は過ぎている。
だが、面会時間が過ぎても、彼女は白いシーツの敷かれたベッドの傍を離れようとはしなかった。そのまま、椅子に座って、彼の容態を注意深く見つめていた。つい先程も看護師がやって来て、帰宅を促したのだが、彼女は従わなかった。いい加減、根負けした看護師は、力なく首を振って、毛布を置いていった。泊り込んでもいいという無言のメッセージだ。その厚意に、彼女はありがたく甘えることにした。
父のように慕っていた人が、斬られたのだ。彼は身内を既に亡くしてしまっている上に、学内でも異端視されていたらしく、すごぶる教授会の中に於ける評判が悪い為に、一日中一緒に居たが、誰も面会には訪れなかった。
だから、という気持ちはあった。
せめて、という気持ちがあった。
しかし、という気持ちもあった。
「教授……」
彼女の呟きに、彼は言葉を返さない。
不幸中の幸いというべきか、発見が早かったために一命は取り留めた。腹筋と脂肪を切り裂かれただけで、臓物には損傷がなく、包帯が何重にも巻かれてはいるが、見た目の出血よりは酷い怪我ではないという。今はゆっくり寝ている。深い皺が刻まれた顔は、安らかなものだ。
「良かった……」
「ここに居ましたか」
ガラリと病室の戸が開いた。
事件性が高いということで、彼には個室が与えられている。内装もそれなりに豪華なものだ。とてもではないが、彼女の一生分の稼ぎを当てても入る事は出来ないだろう。格差というものを実感しないわけでも、憤らないわけでもないが、今はそんな事は、どうでも良かった。大体、事件性ということで個室病室なんて入りたくもない。
「小烏丸……」
事件の日に出会った謎の少女。
小学生くらいの小さな体に似つかわしくない、ブカブカでサイズの合っていない黒い和服を着た少女。刀の精霊などと荒唐無稽な事を言うのだが、彼女が消えると、そこから刀が現れ、刀が消えると、そこから彼女が現れるのだから、オカルトを全く信じない彼女でも、信じるより他に選択肢は用意されていなかった。
「全く、いつまでもウジウジと情けないですね」
「ほっておいてください」
病室に入ってきた途端に、黒髪の中から覗く鋭角な目と、白い肌に浮かぶ赤い唇から放たれた言葉に攻め立てられる。自分でもウジウジと暗いのは良く分かっているので、反論することもなく、プイッとそっぽを向いた。
小烏丸の物言いは、常にこんな感じだ。
自分とは反対の威容で、自分に自信のある態度を決して崩そうとしない。要領が悪いとか、自分がないなんて同僚からも言われる彼女には、羨ましい限りである。
「全く、何で貴方なのか……」
ブツブツと小烏丸は文句たらたらだ。
「そんな貴方でも、私を扱ってもらわねばなりません」
「や、やっぱり、私に剣を扱うなんて……」
傷だらけの左手を見て、彼女はしりごむ。
無表情に、「扱え」「戦え」「討て」と単語で命令する彼女に、逆らいきれず、言われるままに腰に差し、抜いて何度か振り回してみたのだが、余りの重さに耐え切れなかった。玉鋼で作られた刀剣は、スポーツなど全くしたことのない彼女の細腕には、負荷が大きすぎた。完全に刀に振られていると言うほうが正しいような情けない有様だった。
更に納める時も、鞘に上手く納められず、指を切ってしまった。幸い根元だったので、細い指がポロリとするような状況にはならなかったが、今も彼女の白魚のような細い指には、子供っぽいアニメキャラが印刷されたバンテージが巻かれている。
そんな失敗が、彼女の心に重く圧し掛かる。
最初は小烏丸に言われるままに、教授を襲った犯人を殺してやろうと、心の其処から思った。彼と同じように腹を切り裂いて、血を流させて、出来るだけ惨く、酷く。
少なくとも博物館の中で、警察にも話していない、荒唐無稽な真実を彼女が知った時には、復讐心というものがふつふつと湧き上がってきたのだが、一夜明けてみると、何の事はない。あっさり消えてしまっていた。
至極普通のどこにでもいる一般市民である彼女は、警察に任せて犯人が捕まれば、その後の裁判でちゃんと刑に処されれば、それでいいと思うようになっていた。続発している辻斬りの仕業かもしれないと思うと、途端に怖くなったのだ。
復讐心よりも、自分の死という恐怖心のほうが勝ってしまった。
あまりに情けない状況に、小烏丸は無機質な顔のまま、大きく聞こえるように舌打ちした。事の一部始終を話したときには、嬉々として、復讐と口走ったというのに、この変わり身の早さに呆れてしまっている。もっと立派に復讐心に駆られるような人物の方が、良かったと思うのだが、贅沢は言っていられない。
彼女を追い込んで、戦わざるを得ない状況へ持っていく。
「いい加減にしなさい」
つかつかと下駄を不気味な旋律を刻むが如く、他の入院患者への迷惑など知ったことかと言わんばかりに踏み鳴らして、傍までやって来た。身長差は、十センチ近くあるだろう。それなのに、この少女に見つめられると、反抗できない。反論できない。まるで反駁することのなかった、眠っている教授と向かい合っているような気になるのだ。
「既に犯人の居場所は分かりました」
ゆっくりと無機質な緋色の唇を開いて、淡々と小烏丸は用件だけを彼女に告げた。その小烏丸が知っている事実を告げた彼女がどうなるかは、当然織り込み済みの上で。
「え……」
小烏丸の言うことに、彼女は驚いた。ここまでは予定通りである。
彼女の深い洞のようだった、黒い眼に失った生気が戻る。
「言いましたとおり、貴方の大切な人を襲ったのは、私と同種のモノを使う人物です」
断言する。
「それを見つけました。どこにいるのかも、分かっています」
それならどうするか。
彼女の心の変化が、手に取るように小烏丸には分かっていた。
「殺しましょう」
病床に横たわる人を見て、思う。
「屠りましょう」
何処かの傷つけた人を思って、決める。
「憎い、憎い、貴方の大好きな父を傷つけた犯人を、貴方の手で傷つけましょう」
彼女は立ち上がった。
そこに先程までの弱さは、何処にもなかった。