第一章 刀剣推参
学校にまでの距離は直線距離で百メートルも無い。
何せ、石段を降りて、ちょっと徒競走くらいの距離を走れば、それで八島高校には辿り着く。小学校も中学校も同じような距離にあり、小さい頃から八島神社は友達たちの遊び場であった。学校から近くて、場所が広いというのは、子供の遊び場としては勿体無い位に好条件が重なっている。
大輝が在籍し、そして今年度長閑が入学した、八島高校は、八島神社と同じ山にある。
ここの当りは淀川水系の流域にあたり、院政まで敷いて、権力を欲しい侭にした白河法皇が自分に従ってくれないと泣いて嘆いたほどの洪水氾濫の続いた場所だ。その中にあってなお、緑を湛えていたこの山に神社が開かれた。それが八島神社、つまりは大輝の家だ。そして、この神社を中心に街が作られ、江戸時代には寺子屋、そして、明治の教育勅語を受けて学校が作られ、更に戦後に発展していく。こうやってこの街は、発展してきた。
雲ひとつない春の日差し。柔らかな風が頬を撫でる。
新しい門出にはこれ以上ないベストコンディションであろう。新学期、新学年、入学という新年度の始まりには最高だ。
成績も上々。
友人関係もまずまず。
祖父の怪我の経過も順調。
後は、これからの生活を考えると、大輝が気になるのは二つ。
一つは、隣をぎくしゃくした何羽歩きを続ける従妹姫の存在か。
何せ、長閑は人見知りが激しい。見ていて不安になる位に、酷い。小中と九年間一緒の友達はいるだろうし、この子の人見知りは、大輝の友人連中も良く知るところではある。
だが、大抵の関係性が大輝を介して形成されている為に、彼がいなくなると、人間関係に大きく穴が空く事になる。一人で新しい人間関係が築けるのか、激しく不安だった。
だが、敢えて、突き放す。
「長閑」
「う、は、はい」
油の切れたロボットのような動きで、長閑は、大輝の方を向いた。
「な、なんで、ご、ございますか?」
「学校の中では、『さま』付けは禁止だ。あと、出来るだけ、俺のクラスには来ない事」
「ええ!」
長閑は、まるでこの世の終わりのような顔を浮かべる。
「学校では、世話を焼かなくていい」
「そ、そんな……」
この子の中では当たり前のことなのだが、それが現実世界とは大きく乖離した、鳥居と鎮守によって形成された神域の中でしか通じない事くらい、知って欲しいと、大輝は思う。
「で、では、何とお呼びすれば……」
「ふん……」
しばし、考え込む。
何分、投げっぱなしにするのは、目覚めが悪い。これで悪化するような方向の呼び名になってもらっては困る。適当な敬称は無いかと持てる日本語の知識を総動員して、探し出す。個人的には出会うような事は避けたいのだが、意図的に避けると、家で思いっきり泣かれそうな気がする。
「まあ、『大輝さん』と呼んでくれ」
「わ、解りました。た、大輝さん」
一文字変えただけで、相手への敬意がぐぐっと下がっている気がする。だが、この程度の距離感が大輝は心地良かった。変に『さま』なんて敬称なんて付けられて、距離を置かれたくは無い。
「よ、大輝」
校門近くまで来ると、流石に人が増えてくる。全体的な山の標高から言うと、三番目に低い峰なのだが、なだらかな傾斜の着いた坂を通られねばならないのが辛いと、友人たちは異口同音、口を揃えて言う。だが、どこへ外出しても、小高い山を踏破せねば自宅へ帰り着かない二人には、この程度の傾斜は苦でも何でもない。
汗一つ掻かずに歩いていた俺の後ろから、元気の良い声が掛けられた。
「何だ、貴人か」
振り返ることも無く、返事を返す。長閑は、ペコリと首だけを傾けて、後ろから軽快に声を掛けてきた長身の悪友、鷹野貴人に挨拶した。
「何だとは何だ、我が悪友よ」
馴れ馴れしくも、大輝の肩を抱き、一緒になって歩き始める。
「今年も変わらず、俺たちの友情に乾杯だ」
平気で臭い台詞をはけるものだと、感心してしまう。
大輝はそんなカッコいい台詞は、とてもではないが口には出来ない。恥ずかしいというよりも、思い浮かばないのである。
「そして、入学おめでとう、長閑ちゃん」
「う……」
あからさまに嫌そうな顔を浮かべて、長閑は大輝の後ろへ隠れる。きゅっと大輝のブレザーの裾を握って涙目だ。難詰するような視線で、貴人を睨みつける。その視線に、向けられた貴人は、甚く傷ついたようだ。
「ちょ、俺、もしかして嫌われてる?」
「もしかしなくても、嫌われているから安心しろ」
愕然と言った様子で、崩れ落ちる貴人。
本当なら「貴人」とは呼んで字の如く、「高貴な人」という意味合いだ。だが、コイツに高貴さや、それに伴って身に付けるべき教養を期待するよりは、犬猫が人語を話す事を期待するほうがよっぽど可能性がある。
ワックスで固めた茶髪と、それなりに鍛えた筋肉を見せびらかすように、制服を着崩している。一言で言うなら、チャラい奴である。大輝以外にも付き合いを持っている友人も多くて、交友関係が広い。そして、女性に対して上手な扱い方ができるのは見習うべき所だ。根暗だとか、陰気だとか、そんな評価を受ける大輝には眩しい限りである。
だが、言い換えるなら見境や節操がない。誰だって、平気で付き合いを持つ。特に女性は、容姿が良ければ、なんでもドンと来いと胸を張って言う。宜しくない交友関係はないとは信じたいが、ないとは言い切れないのが、怖い所である。
だから、悪友。
両方の意味で悪友だ。
「何が、悪いんだ……」
頭に手を当てて、貴人は深刻に悩み出した。
どうやら、自覚はない様である。
その節操の無さ、女性に対する見境の無さ。
そこら辺が敬遠球どころか、退場覚悟の危険球を投げられる理由だというのに。空いている方の手で頭を掻きながら、呆れた調子で大輝は警告する。
「まあ、五十鈴がいい例だ。あの悪意の無さ、生真面目さ、そういう万人受けする容姿。本人にその気がないのが、残念だが、あいつに好意を寄せている女子は多いぞ。ああいう風に、害意のない感じのほうが、よっぽど女性には、人気がある」
「な……」
貴人が絶句する。
額に手を当てて、酷く考え込む。
「なぜだ、チャラくて遊びなれているほうが、女の子の受けはいいんじゃないのか?」
「アホか。そんなん『私も遊びなのね……』って逃げられているだけだろ」
大輝の発言に、コクコクとブレザーの裾を握って、長閑が頷く。大輝の意見は間違いなく正鵠をいているに違いない。女の子、まあ従妹からだが、お墨付きも貰った。女性の浮気に関するセンサーというのは、日本の軍用レーダーより精密だ。そして、煙草の吸殻や、シャツについた口紅みたいな、吹けば飛ぶような僅かな手がかりから、あっと言う間に浮気の現場へと踏み込んでくる。CIAやFBIも真っ青の調査能力を兼ね備えている。
「な、なるほど……。なあ、俺はどうしたらいい?」
「そこまで言って解らないなら、彼女を作るとか辞めろ」
大輝は、結構、真面目な調子で言う。
「……お前はいいよ。こんな世話焼きの妹が傍に居るんだから」
貴人の言う事には、反論しなかった。確かに、こんな風に、食事から洗濯から、何から何までやってくれる子が隣に居るのだ。涙ぐましい努力の割には、女性に恵まれない貴人にとってみれば、さぞかし羨ましいと思う要素だろう。
「んでもって、お前も実に可愛ら……」
途中で口を強制的に閉じさす。貴人のちょっと日本人離れした高い鼻へ目掛けて、大輝は的確に裏拳を叩き込む。悶絶している貴人は、薄く鼻血を出していた。やりすぎたかとも思ったが、絶対に頭は下げない。貴人が言おうとしていた事は、大輝のコンプレックスそのものだ。あまり口に出されると、激しく腹が立つ。
「それ以上、言うな」
「わ、悪ぃ」
ムッとした大輝に対して、鼻血を拭いて貴人は隣を歩き出した。
同じ制服を着た者達が当りに続々と増え始め、独特の八菊をモチーフにした校章を掲げた校門が見えてきた。その校門の前に不穏な影を見つけて、大輝は眉根を揉んだ。隣を歩く二人も脚を止めて、校門前で朝から繰り広げられている光景に顔を顰めていた。
校門の前では、大輝たちと同じ制服を着た男子生徒が、後ろでぶるっている女子生徒を庇うようにして立っている。二人はカップルだろうか。
「絶対に、連れていかせない……」
男子生徒も女子生徒も、ここから見える限りでは、長閑と同じ学年章をつけている。つまりは一年生だ。勇ましい事を言っているが、体格は貧弱すぎるし、何よりも怯えてしまっている。とてもではないが、楯に慣れそうにはない。
「いい加減にしてください、遅刻しちゃいま……」
女の子がそこまで言った時、ドカッという嫌な音と供に、彼の体が吹っ飛んだ。
黄色い悲鳴が上がる。周りの生徒達は、見てみぬ振りをして、足早に校舎へと掛けていく。無理もない。校門の前には、柄の悪い男が六人ほど。とてもではないが、喧嘩して勝てるような人数差ではない。そんな大立ち回りが出来るほど、人間は簡単には出来ていない。見てみぬ振りをするのが悪いとは思わない。誰だって怪我はしたくない。
「ユウキ君、大丈夫?」
殴られた彼氏にすがり付いて、女の子の方はキッと気丈にも睨み付けた。
セミロングに整えられた自然な亜麻色の髪を揺らして、白い歯の覗く桜色の唇から、柄の悪い男へ、罵詈雑言を浴びせている。男達は、その言葉をそよ風のように受け止めている。普段から、聞きなれているのか。逆に笑いこけながら、女の子の手首を握って連れて行こうとする。その脚に必死になって追いすがる男の方を、柄の悪い男は石でも蹴るかのように、容易く蹴られた。その様子が滑稽なのか、また男達はゲラゲラと笑った。
男たちの制服は、大輝や貴人たちとは違う。だが、彼らの制服も正式からは大きく逸脱しているだろう。大きく裾を詰め、白いシャツがビロンとだらしなく出てしまっている。
彼らの体が等身大に見える頃まで近づいて、大体の想像が付いた。
わざわざ他校の通学路にまででしゃばって来て、女の子をナンパしようとしていたのだろう。だけども、彼氏持ち。それに腹を立てて、男の子の方は殴られているのである。二人には踏んだり蹴ったりな展開だ。入学早々、嫌な出来事に出くわしたものである。
だが、二人が嫌な出来事に出会ったことと、不良たちが無礼極まりない強引な態度であるのは全くの別勘定である。
(全く、ふざけた真似を……)
そう思ったら、大輝の瞳が半眼になる。
そのまま一歩、ドンと威嚇するような大きな音を立てて、脚を踏み出す。その地面を鳴らした震脚に不良が一人振り返った。ほかは、男子生徒の殴る蹴るの暴行に加わっている。
嫌な予感が、貴人には走った。
「おいおい、大輝……」
後ろで貴人が止める。鍛えこまれた彼の太い指が、ぐっと大輝の肩に食い込む。その太い指を気に入らないという視線で睨みつける。だが、それでも貴人は手を離そうとしない。彼はここでこの手を離したら、どうなるか良く解っているからだ。
「離せ、貴人」
「馬鹿、お前、今年こそ喧嘩しないって誓ったばっかりだったろ」
「あ、そういえば…」
彼の大きな声は、頭に血が昇った大輝の耳に、澄み切ったピアノの音色のように良く響いた。頭に昇っていた血がすっと落ちていく。
「冷静になれって。ここで何かするわけにはいかないだろ」
「……了解」
目の前では、また男の子が蹴られ、ゲラゲラと不良が笑った。
去年も同じような事をして、優等生のレールに乗り損ねてしまった。貴人や五十鈴が居なければ、とっくの昔に退校処分になっていたかもしれない。貴人の熱い弁明と、五十鈴の口八丁には、本当に助けられている。
今年こそは、二人の口の世話にならないようにと、深く誓っていたはずだ。従妹も入学する事になった以上、彼女の前で乱暴な姿は見せないと深く誓約したはずだった。そして、今年こそ、ちゃんとした品行方正で真面目な優等生になろうと硬く誓ったはずだった。
だが、運命の歯車は既に回りだしていた。
威嚇した事を不快に思った一人がズカズカと近寄ってきて、大輝の胸倉を掴んだ。小さな悲鳴を上げる長閑。貴人が止める間もなく、大輝は背の高い不良に掴まれて、
「うぞ!」
騒ぎを避けて校舎へと足早に抜けていった生徒たちの間から、困惑の叫びが上がった。 大輝の胸倉を掴んでいた不良がクルリと一回転して、地面から浮き上がったのだ。上手に受身を取れないまま、黒いアスファルトの上に落下した男は、そのまま気絶したが、首の骨は折れていないだろう。
そしてそのまま、大輝は校門前で屯している男達へズンズンと大股で歩み寄っていく。もう貴人は止める気も失せたのか、大仰に額に手を当てて、天を見上げている。
「おい!」
怒気を孕んだ声でまずは一喝。
そのまま、男達が振り返るよりも先に一番近い場所、大輝たちに背を向けて笑っていた男の襟首を掴んで、地面に引き倒す。地面に倒れた男と、大輝の視線が交錯するが、男の方はキョトンとした目で大輝の顔を見ている。何が起こったのか、全く分かっていないのだろう。
だが、周りで見ていた男達は、自分の仲間が何をされたのか良く解った。後ろからやって来たここの生徒が、仲間の襟首を引っ張って、土に付けたのだ。
「あァ? 何、ガンくれてんだ、テメェ?」
五人。
この手の不良たちは、さしたる実力もないくせに、無駄にプライドが高い。そのプライドを裏打ちするだけの力を単純な腕力だけに求める為に、唯一の拠り所が崩される事を何よりも嫌う。不良たちは、突然現れた大輝を警戒していたが、やがて笑い出した。
「何だ、コイツは!」
「笑えるぜ!」
大輝は、この時点で決めた。
(こいつら、ボコボコにしてやる……!)
目の前の五人が何で笑っているのか、良く解っているからである。
後ろで貴人があきれ返っているのが、振り返らなくても解った。小さな彼のため息も、耳に届いた。
「おい、怪我する前に、逃げたほうが身のためだぜ……」
親切心で言っているのだろう。この五人の筆頭らしい男が、大輝に優しく言ってくる。だが、大輝はその優しさを思いっきり蹴り飛ばした。
「そう言う台詞が出てくる時点で、雑魚確定だぞ」
筆頭らしいスキンヘッドの男の顔が真っ赤に染まる。まるでタコみたいだ。
「るせぇ!」
「おお、宮さんの必殺パンチ!」
それなりに威力のある拳が飛んでくるが、大輝にはドカッバキッと痛そうな音がしない。精々、ペチペチというコミカルな音が聞こえてくる程度である。この程度で、必殺なんて他はどれだけ弱いのか。殴ろうと考えていた自分があほらしく見えてくる。
「おら、参った、かよ……」
最初に殴りかかってきた宮さんは、既に息が絶え絶えだ。
これ以上、苦しめるのも酷だと思った大輝は、振りかぶった腕の袖を的確に掴み、バランスを崩させる。それだけで、宮さんは簡単にアスファルトの上に転がった。彼の背中に思いっきり脚を踏み降ろす。「グエッ」というカエルのような呻き声を上げて、宮さんは気を失った。
「さあ、どうする?」
出来るだけ、怖く。出来るだけ、相手が戦意を失うように、ゆっくり迫力が出るように言う。後ろから貴人の諦めたようなため息が聞こえた気がした。
ニヤリと笑う大輝。
リーダーがやられる一部始終を見ていた不良たちは、自分たちの心の拠り所を一瞬にして叩き折った大輝の力を見て、戦う気が失せたらしい。
「ちっ、引くぞ!」
気を失った宮さんを抱えて走り去っていく。
「とっと失せやがれ!」
ドカッと、そその逃げていく尻を、思いっきり蹴り飛ばす。
「二度と来んな!」
近くに落ちていた彼らの鞄を遠投の要領で去って行く五人に投げつけ、更に駄目押しの一言を小さくなっていく背中にぶつけた。
「お、覚えてとけよ、暴力女!」
気を失った二人を三人で抱えて、えっちらおっちら逃げて行く不良たちが、大輝に捨て台詞を投げてくる。
「なぁ!」
折角、迫力があるように言ったというのに、とんでもない勘違いをされている。
「おい、ちょっと待て!」
これから追いかけて全員、足腰立たなくなるまで、ボコボコにしようとも思ったが、始業のチャイムが鳴り始めた。校門前まで辿り着いておいて、遅刻なんて洒落にはならない。急いで校舎へと奔る。
廊下に張り出されていたクラス分けと座席表を確認する。
「何だ、別か」
長閑は階下の一年の教室。一人オロオロしている姿を思うと心配になってくる。悪友は別のクラスになった。そのことについては、お互い何の感慨もない。所詮、クラスが別になっただけで、関係が消えたわけではない。寧ろ、互いが忘れ物をした時に、丁度良い。
「そうだな」
「あ、そうだ。大輝、今日帰りに……、って聞いてねぇ!」
貴人の申し出を丁重にお断りして、さっさと教室へ入る。
まだ、ホームルームまでは時間があるが、結構な人数が揃っていた。
再び、同じクラスになった事を喜ぶもの。一人退屈に耐えているもの。早速、新しいクラスメイトと友好を深めようとしているもの。反応は様々で、中には去年も同じクラスだった生徒もチラホラと見受けられる。
「やあ、見ていたよ」
指定された席に着くと、いきなり前に座っていた男子生徒が振り返って、憎たらしいほどの笑顔と供に、そんな事を言われた。
憮然とした調子で大輝は鼻息荒く、この妄言に付き合ってやることにする。どの道、すぐにでもホームルームである。先生が来るまで、友人との会話に興じるのも面白い。
目の前の顔の半分を覆うような眼鏡を掛けた男子生徒。大きな眼鏡を外せば、日本全国何処にでもいそうな平均的な顔。言ってしまえば、誰にも目を背けられないし、誰からも好かれる容姿をしている。
彼が、大輝と貴人の朝の話題に上っていた波賀五十鈴だ。
物知りで、生真面目。でも、鋼鉄のような堅物ではなく、ユーモアも解るという、一種の完璧な高校生である。ただ、学校の成績は個人の都合によって全く奮わない。
「にしても、大輝も災難かな。結局、遅刻扱いで搾られたんだろ」
「耳が早いな」
相変わらずの情報収集能力の高さに感心する。
今年度も、この男の実力は健在のようだ。それにやっぱり今年も頼らざるを得ないのだろうか。相手は借りだと思っていないだろうが、大輝のほうは甚く気にしている。
「確かに、あれだけ立ち回ったら、当然だろうけどな」
大輝は机に肘を突いて、ため息を付いた。新学期早々、校門前で大立ち周りなんて今日日、小説の中でもお目にかかれないだろう。暴力行為については、一部始終を見ていた長閑と貴人、そして助けてもらったカップルの助命嘆願で、厳重注意の上でお咎めなしという事になったが、代わりに遅刻処罰を貰ってしまった。
密かに皆勤賞などと健康優良児の証を狙っていた大輝は、ちょっとだけ落ち込んでいる。
「まあ、ホームルームまではまだ少し時間があるし、顔くらい洗って来たらどうだい?」
そう言って持っていた巾着袋の中から、手のひら大の大きさの手鏡を出してくる。鏡には見慣れた大輝の顔が映っている。ちょっとだけ、殴られた頬の部分が汚れていた。気にするほどでもないと思って、袖で拭おうとしたのだが、その手をギッと握って止められた。
「ちゃんと、洗ってきなって」
今度はタオルだ。まるで四次元ポケットのように、次から次へと品物が出てくる。
「新学期早々、そんな汚れた顔していちゃ、勿体無いよ」
パチリとウィンクで五十鈴は送り出していく。その軽快なウィンクが、何だか腹立たしい事、この上ないのだが、おくびにも出さず、
「ああ、じゃあ、ありがたく借りる」
ちょっとだけ足早になりつつ、大輝はトイレへ向かった。始業のチャイムも鳴り終わった学校の廊下には、誰もいない。見咎められる事もなくトイレへ向かう。思いっきり蛇口を捻って、水を勢い良く出し、手のひらに掬って、ぶつける様にして顔を洗う。髪に付いた水を弾き飛ばして、顔を上げる。汚れは十分に落ちただろう。
「ふぅ……」
目の前の鏡には、女の子が映っていた。
くっきり、ぱっちりとした大きな黒い瞳。
それを縁取る長めの睫毛。
雪のような透明感のある肌。
なで肩で華奢な体つき。
可愛らしいと形容すべき人物が、そこには立っていた。
「はぁ……」
その顔が、大輝と同じように暗い顔をしている。
大輝の目下の二つの懸案事項のうちの最後が、これだ。
一応、紺のブレザーにグレーのズボンというこの学校の男子生徒の制服を着てはいるのだが、傍目には女の子に見えるらしい。五十鈴や貴人もかれこれ三年以上の付き合いになるというのに、未だにこの大輝のコンプレックスネタでからかってくるのだ。
憂鬱になる。
出来るだけ女の子に誤解されないように、髪型はショートだ。でも、これだけバッサリと切ってしまっても、女性の雰囲気が漂う。外見的には、女子バレー部の主将である。この髪型にしても、女の子に間違われるのだ。いっそ坊主にするべきだろうかという極論が思い浮かんだほどだ。小学校では全くといっていいほど気にしていなかったのだが、この可愛らしい顔のまま成長して、高校に入学してしまえば誤解されるのも無理からぬ話である。現に、入学当初から女の子と間違えて、告白してくる生徒も何人もいた。尤も、そんな不届き者は、今朝の不良同様に、残らず成敗していた。
突付けば折れそうな程に華奢な容姿。そんな容姿からは想像も出来ないほどに、大輝は喧嘩っ早くて、おまけに亡くなった父からは、散々に武術で鍛えられているので、腕っ節は強いのである。
教室に戻ってくると、粗方席は埋まっていた。空席だった大輝の隣にも、女子生徒が座っている。姓が「ヤツシマ」だから、後ろに来る苗字はオーソドックスな所では「ヤマモト」とか「ワダ」くらいだが、生憎とこのクラスには「ヤマモト」さんも「ワダ」さんも、どちらの姓の人間もいない。よって、大輝は一番後ろの席で、出席番号も一番大きな数字を拝命している。
「うん、綺麗になったね」
「お前は俺の恋人か」
洗顔を終えて戻ってきた大輝を、五十鈴は早速軽口と供に迎えた。
「ああ、確かに君が絶世の美少女だったら、全ての女性が霞むだろうね」
五十鈴の本心から言葉に、クラス中の視線が集まった気がする。女性から非難めいたもの。確かに、そんじょそこらの学校のアイドルなど目ではない位に、大輝の顔は可愛らしい。女性っぽいというよりも、女の子そのものなのだ。憎しみと怒りの入り混じった嫌な視線で痛覚神経が焼ききれそうである。
逆に男子生徒の方は、真逆の対応。ひそひそと大輝を見ては、「可愛らしいな」とか、「付き合いたい」などという聞きたくない欲望丸出しの声が、離れていても聞こえてくる。全く持って、そんな評価を大輝は望んでいない。
「世辞は辞めろ」
「世辞というより、事実を述べているだけだよ。僕は正直だからね」
こんな調子で、良く人気者になれるものだと、大輝は呆れと供に感心する。また、一層批難するような視線が鋭くなった気がする。フォローを入れるのも面倒になった大輝は、会話を放棄して、黒板を見つめる。
「なはは、ごめん、ごめん」
五十鈴のお詫びに被るように、教室の戸が開いた。
ガラガラと小気味良い音と一緒にぺたぺた足音がして、小柄な体躯の教師が入ってきた。初めて見る顔である。今年から赴任した新米の教師だろう。掛けている丸眼鏡が、鼻梁が低いのか、ブリッジの幅に合っていないのか、支えきれずにずり落ちそうになっている。その教師に向けられる視線は、概ね好意的なものである。
「はい、皆さん。おはようございます」
教師を務める以上、成人しているはずなのに、随分と舌足らずな幼い声で、自己紹介を始めた。体格や体力は、子供のまま、精神だけを成長させたような容姿なので、見た目だけは、中学生だと思ってしまうくらいだ。
「このクラスの担任になりました。九条かさねです」
教師はゆっくりと幼い声で、自己紹介を始めた。
「今年の春から教師になった新米です。担当は現代社会と、日本史です」
自分の担当教科の部分で、短くつっかえた。
「大学時代に、この街の博物館で学芸員見習いとして働いていたので、皆さんとはお会いした事があるかもしれません。八島神社の南側の宅地の中の博物館です。今回、卒業して、教師になりました。解らない事だらけで不安いっぱいだけど、よろしくお願いいたします」
また一度、ペコリと頭を下げた。
クラス中から割れんばかりの拍手が巻き起こり、九条教諭はテレながら、また、ぺこぺこと頭を下げた。頭を動かすたびに、眼鏡が落ちそうになっている。その様子が、また幼さを残す外見と相まって、クラス中が微笑ましい空気に包まれる。
大輝も同じように、その微笑ましい空気の中にいた。ただ、新任にいきなりクラスを受け持たせるような大それた大冒険をしている理事会を心中で毒づきながら。
「じゃ、えっと始業式までの間に、簡単に自己紹介でも始めようか」
型に嵌ったような展開ではあるが、初めて会う人間も多いのだから、当然の事ではある。九条先生に呼ばれるたびに、五十音順に簡単に挨拶をしていく。
大輝も適当に何を言おうか考えていた。
その時、ふと首筋に、冷たい感覚が走る。
ヒヤリと良く冷やされた鋼鉄を当てられたような、痛みにも似た冷たさ。
「……?」
ここは一番後ろの席である。誰かが悪ふざけで筆箱を押し付けてみたり、シャーペンの芯で突付いたりしているわけではない。見えない首筋に手を回してみるが、水ぶくれが出来ているわけではなさそうだ。手のひらを眺めるが、血が流れているわけでもない。
「……?」
何かの虫の知らせなのだろうか。
「あの八島君?」
背の低い先生が、自分の言葉を聞いてくれていないことに、うるうると捨てられた子犬のような目を向けながら見ていた。フレッシュ先生に対して、何もしてないはずなのだが、酷い罪悪感が体中に走り抜ける。
「ああ、ごめんなさい」
立ち上がって、自己紹介。
「八島大輝です」
ぼそっと「可愛らしい」と言う声が教卓の方から聞こえた。やっぱり、評価は変わらないようである。その事に心の中で落ち込みながらも、無難な自己紹介を終えた。
始業式にまで授業をするような進学校ではない八島高校は、今日は普通に昼間でで終わってしまう。三々五々、始業式を終えた生徒達が笑いながら、またはこれから何か嫌な用事があるのか、険しい顔をしながら出て行く。
「大輝―、五十鈴―」
帰り支度をしていた二人の下へ鞄を肩から掛けた貴人がやって来た。
部活のある生徒は新学期早々のミーティングに向かっているだろうが、生憎と三人とも無所属だ。大輝には剣道部や空手部からオファーが来ていたが、却下。五十鈴にも新聞部や手芸部などの文科系から来ていたが、こちらもパスしている。
「どうせ、この後、暇だろー。カラオケでも行かねー?」
弾むボールのような軽快な調子の貴人とは逆に、大輝と五十鈴のテンションは、どうにも乗り気ではない。
「何だよ、どうした?」
訝しげに五十鈴の顔を覗き込む。
「あ、僕、これから彼女と用事があるんだ」
五十鈴の言葉に、貴人は酷くショックを受けた。
「んなにぃ!」
「そんな、驚かんでも」
貴人は、ムンクの「叫び」の中で呻いている人のような何とも表現しにくい表情を浮かべて絶句した。五十鈴は、人気者だ。好意を寄せている女性がいて、その子と付き合っていてもおかしくないのだ。
「五十鈴、お前、友情にヒビを……」
若干、紅いものが混じったような涙を両目から流す。そこに追い討ちを掛ける、本人にとっては普通の何気ない事を大輝が言う。
「あ、俺も今日は長閑と買い物に出る」
「んなぁ!」
貴人が石像のように固まった。
友人二人が自分を置いて、女と、大輝は従妹とだが、出かけるのが相当ショックだったらしい。脳の思考機能や体の運動機能を全て、狂ったパソコンのように制止させている。何ともいえない悲しげな表情が、見るものの哀愁を誘う。誘うが、大輝は気にしない。三人でつるむ事は多いが、毎日のように一緒に遊んでいるわけではない。彼女が来るのを待つという五十鈴に固まったままの悪友を任せる。
「んじゃ、お疲れ」
「また明日ね、大輝」
それだけ言って大輝は教室を後にする。
長閑との久しぶりの買い物は、楽しいのだろうか。それとも、大変なのだろうか。
隣をチョコチョコと歩いてくる従妹の顔は、嬉しさでいっぱいだった。相変わらず大輝が顔を向けると、恥ずかしさで俯くが、喜んでいるなら、大輝としても連れ立って出てきた甲斐があるというものである。本当なら、一人で行こうと思っていたのだが、朝のこともあって、しょんぼりしていた長閑には良い気晴らしになっただろう。
帰宅する頃には、太陽は西に傾き、空は紅く染まっていた。白い雲が赤いキャンパスに千切れて流れていく。八島神社を包む鎮守の森にも影が差す。綺麗な光景だ。大和撫子の長閑が重なると何とも絵になる。
「早速、夕食の用意始めますからね」
良妻賢母の卵たる長閑は、ニコニコと笑いながら、台所へ向かった。
大輝は自室に戻って袴に着替える。毎日五時ごろに帰宅して夕食が出来る七時までの間の二時間を、大輝は拝殿の掃除に当てている。神主という職業は、こう見えて意外と忙しい。広い神社の掃除は清掃業者には貴重な物品や扱い難いものがあるので任せられない。よって、自分たちで全て行う。他には結婚式や葬式などの各種式典の申し込みなどの事務処理。年始年末は初詣の人への炊き出しなんかもある。
特に八島神社は、市内どころか府内でも、相当に大きな神社である。別表と呼ばれる神社本庁から選ばれた神社ではないにしても、八島市自体が門前町として栄えてきたために、この神社の請け負う役割はかなり多い。それだけの神社の業務を、学業をこなしながらである。この神社の御神刀が好きじゃなければ、とっくの昔に逃げ出していただろう。
井戸から水を汲み、雑巾を丁寧に浸してから拝殿へ向かう。本殿の掃除は神体の開陳が一年に一回しかないためにその前後だけしか掃除しない。しかし、常に人の訪れる拝殿は綺麗にしておかねば、見栄えが悪い。
二礼、二拍手、一礼のお決まりの神道の挨拶をして拝殿へ入る。
手入れが行き届いている為に、蜘蛛の巣が張っていたり、床板が軋んだりするような事は全く無い。御神刀の前で膝を付き、再び、二礼二拍手一礼。
パタパタと掃除用具入れからハタキを取り出し、窓や神鏡などに積もった埃を取り除く。粗方床に落し終えたら、今度は掃き掃除。拝殿の外へと追い出し、清める。更に念入りに雑巾で拭き清める。
一人でも二時間も真剣に走り回れば、綺麗になるものである。窓まで磨いたのに、時間が余ってしまった。この際、拝殿周りの落ち葉を竹箒で集めて、森の中へと捨てる。焼却処分するために、下手に火を使うと、本殿だけでなく、この辺り一体が全部燃えてしまう。
「よし!」
たった二時間の成果を見回して、それに満足しながら、大輝はお供えものを漁る。
氏子の皆さんが持ってきてくれた品物だ。ご神前に供えた後は、お賽銭同様に神社の運営費に消える。つまり、神社を回している大輝と長閑の栄養源になるのだ。
「これがいいかな……」
手に取ったのは、賞味期限まで一週間程度の余裕を残した岡山県産の高級白桃。夕食後のデザートに丁度良いだろう。二十個入りだから、二人で四つほど貰って、後は近所に配ればいい。
「そ、それを取るのか……?」
また何処からか、ささやきのような声が聞こえてきた。朝は嘲笑のような微笑みだったのに、今は大好きなものを取り上げられそうになって慌てた子供のような調子だ。
振り返ってみるが、誰もいない。長閑は台所で夕食の仕込みをしている。こんな遅い時間帯に参拝客が来るはずも無い。今朝といい、ついさっきといい、今日はよくよく変な感覚に捕らわれる日である。
「疲れているのかな……?」
学校に、神主の仕事。
二束のわらじを履くのも中々大変だと思いながら、白木拵えの御神刀を手に取る。白木の拵えは、刀の寝巻き。保管するときのための拵えだ。
同様に保管してあるのは、使うときの鞘と柄。先に、丁寧な漆塗りのされた朴の木で出来た鞘を磨き、漆特有の艶を出す。鯉口を眼前で切り、刃の欠けや錆などを確認する。刃渡り二尺六寸の太刀は、大輝が惚れたとき同様に、不気味で冷酷な銀色の光を放っている。柄の握りの赤糸にも切れている部分はない。
「よし……」
欠ける事無く、見守ってくれそうだ。
実は、この刀の縁起については完全に失伝しているのだ。本来、あるはずの茎に銘が刻まれていない無銘の刀。立派な拵えなのだが、刀工に見せても、見たことの無い刃紋や造りで、再現できそうに無いという。そんな美術的価値の高さからも値段の付けようの無い刀らしい。刀身を懐紙で丁寧に拭き、鞘へ戻す。そして、丁寧に棚へと戻す。
出るときにも、丁寧に二度頭を下げ、二拍手を挟んで、また一礼。
防犯のためにきっちりと鍵を掛けて、拝殿を後にした。
「あー、疲れた……」
夜のお務めと宿題も終わり、大輝は体をベッドに投げた。パジャマもいいが、大輝は襦袢の方が落ち着く。擦れないので、肌に優しい。
結局、拝殿から持ってきた桃は二人で二つしか消費できなかった。中々に美味いので、手は進んだのだが、流石に手のひら大は無理だ。賞味期限までそんなに余裕がないので出来れば早いところ処分してしまいたいのだが、結構大きく、二人には量が多すぎる。休日にでも、麓の家に持っていこう。
部屋の柱時計は既に十一時を廻っている。明日も学校だ。早めに起きて、鍛錬もしたい。早いところ寝てしまおうと、大輝は眼を閉じた。疲れがどっと睡魔となって襲ってくる。
すぐに、とろとろし始めた。
カサカサ
柱時計の振り子の音に混じって、何か這い回るような音がする。
「?」
睡みを妨害するように、這い回る音は響く。気のせいかとも思って、気にする事無く、また眼を瞑って、寝ようとしていたところへ部屋の戸が慎ましやかに開かれる。青ざめた表情で、長閑が入ってきた。
「た、大輝さま。な、何か、き、聞こえませんか……」
緋色の襦袢姿の長閑は大輝の顔を見るなり、ベッドへ飛び込んできた。プルプルと子犬のように震える長閑の肩を抱いて、落ち着かせる。今度はカサカサと這い回るような音に混じって、ガサゴソと何かを漁るような音がする。
「ど、泥棒ですよ…、きっと…」
今、この家には高校生が二人だけ。きっちり防犯のために頑丈に鍵を掛けたはずなのだが、どこかの窓でも閉め忘れたのだろうか。見つかったとき、どうなるか解らない。
大輝は部屋に置いている防犯と鍛錬用の木刀を持って、長閑を庇うように、進んでいく。二階にある大輝の部屋を出て、一段一段、足音を殺して降りていく。
普段から生活している自宅なのに、電気を付けないで暗闇の中を歩くと、恐怖を感じる。おまけにこの暗闇の中には不審者がいるのだ。相手が武器を持っていないとも限らない。
一歩。
また一歩。
ガサガサ、ゴソゴゾ
音は台所から聞こえてくる。
「誰だ!」
一気呵成に誰何して、台所の電気を付ける。
「ん?」
その不審者は冷蔵庫を漁って、冷やしていた岡山県産白桃に、皮もむかないままかぶりついていた。振り返った不審者の目がきょとんとした様子で、大輝を見ている。食べ終えて胃袋は満足したのか、けぷっと可愛らしいゲップをかます。
「……」
「……」
不審者は裸だった。
裸の女の子。
これだけでも、十分おかしな状況だ。
だが更に、その女の子はおかしい。
人には絶対に無い物が生えていた。
形の良い御尻の辺りでフリフリと左右に揺れるフワフワな尻尾。
短い銀髪の中から覗く、ぴょこんと自己主張する三角の耳。
そんな獣みたいな女の子が、電気も付けないで桃をパクついているのだ。
この常識を超えた摩訶不思議な状況に、二人はどんな風に対応しようか、逡巡していると、裸の女の子がトテトテと近づいてくる。
「主が、ここの主かえ?」
今時、聞くこともない廓言葉で、少女は大輝に聞いてくる。
「あ、ああ、一応、今のところは……」
「なら、わっちの使い手じゃな」
ニコッと女の子は笑った。
その子を無視して、大輝はダイニングに備えている固定電話を素早くプッシュする。
「ああ、すいません。警察ですか、遅くにすんません」
冷静な口調で、百十番をダイヤルした。
「えっと、八島神社で裸の不審者が泥棒して……」
こういうことは専門家に任せるべきだろう。
「んな、官吏を呼んでけるでなし! ヌシ様は何を考えとりゃす?」
女の子がしがみ付いて、電話を取り落としてしまった。電話の向こうからは、オペレーターのお姉さんの、怪訝な声が繰り返し聞こえてきた。