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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

武門の家柄に生まれた氷の令嬢、剣を握る! それを支える執事、ペンを握る――

作者: 羽田遼亮
掲載日:2026/04/28

一章 氷の令嬢、朝焼けの庭で剣を握る


北方を守る名門、アルスヴェルト公爵家の冬は厳しい。


城の石壁は夜の冷気を抱えたまま朝を迎え、中庭の噴水は半ば氷に閉ざされ、白い息を吐かなければ生きている実感すら薄い。そんな夜明けの訓練場で、銀の軌跡だけがひときわ鮮烈に空気を切り裂いていた。


「……はっ!」


鋭い踏み込み。切っ先が真一文字に走り、藁束を詰めた木人の首が飛ぶ。返す刃で二体目の胴を裂き、三体目の膝を落としたところで、ようやく剣は鞘へ収まった。


レティシア・アルスヴェルトは、額ににじんだ汗を手甲の背で拭う。


白銀の髪。 切れ長の青灰色の瞳。 温度のない、端正な美貌。


社交界では彼女を「氷華の令嬢」と呼ぶ者が多い。笑わないから。愛想を売らないから。舞踏会の席で花より剣の話をしたから。そして何より――武門の嫡女でありながら、淑女教育より先に剣の握り方を覚えたからだ。


「お嬢様。本日だけで木人を三体破壊されますと、補充費の計算が必要になります」


背後から、低く落ち着いた声がした。


振り返らなくても分かる。


黒衣の執事、ノア・アシュベリー。


艶のある黒髪を隙なく整え、銀縁眼鏡の奥に理知的な黒の瞳を湛えた青年だ。二十五歳。アルスヴェルト公爵家の執務を事実上切り回す、若き執事頭であり、レティシア付きの近習であり、そして――彼女にとって最も信頼できる人間だった。


「文句があるなら、もう少し丈夫な木人を用意して」


「それは検討済みです。ですが丈夫にすればするほど、今度はお嬢様が木人ではなく支柱ごと斬られるので、根本的解決にはなりません」


「つまり、私が悪いと」


「恐れながら」


ノアは微笑みもせずに言う。けれど、その声音にはいつも微かに温度があった。


彼はレティシアの前へ進み出ると、白い息を吐きながら一枚の紙を差し出した。


「本日の予定です。午前は騎士団の冬期訓練査閲。午後は領主会議。夕刻には王都からの使者との面談が入っております」


「使者?」


「はい。例の件かと」


例の件、で通じてしまうのが面倒だった。


アルスヴェルト公爵、つまりレティシアの父は、半年前の北方戦線で深手を負い、いまだ床を離れられない。兄はおらず、母は早世した。つまり今、家督を継ぐ可能性がある直系は、レティシアただ一人。


武門の家が娘ひとり。


それだけで王都の貴族たちの目の色は変わった。


婿入りできれば北方最大級の軍権と領地が手に入る。しかもレティシア本人は絶世の美貌ときている。もっとも、その冷ややかさと剣気に気圧され、真正面から求婚してくる男は減ったが――代わりに、家と権力を狙う者は増えた。


「また縁談?」


「おそらくは」


レティシアは露骨に眉をひそめた。


「断って」


「すでに断る文面は三通ほど用意しております。ですが今回は、王命の可能性がございます」


「……最悪ね」


「同感です」


ノアはため息ひとつこぼさず、きっぱり言った。


レティシアはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。


誰もが彼女を“氷”と呼ぶが、ノアの前ではそうでもない。 正確には、ノアだけがその微かな変化を見逃さない。


「父上は?」


「今朝は少しお顔色がよろしいです。ただ、長時間の面会は避けるよう侍医から」


「分かった。会議の前に寄るわ」


レティシアが歩き出すと、ノアは半歩後ろを一定の距離でついてくる。その足音は静かで、けれど不思議と心強い。


剣を握るのは自分。 ペンを握るのは彼。


ずっとそれでやってきた。


そうして、これからもやっていけると――少なくとも、その朝まではそう思っていた。


執務棟へ続く回廊で、レティシアは王都からの使者を迎えた。


黄金の刺繍を施した外套をまとった中年の男は、冷えた空気にもかかわらず額にうっすら脂汗を浮かべていた。北方の冷気に慣れぬ王都人はいつもこうだ。


「レティシア様。陛下よりご通達が」


仰々しく差し出された封書を、ノアが受け取る。蝋封を確認し、毒見じみた慎重さで紙を広げ、それからレティシアへ渡した。


そこに記されていた内容は、簡潔で、そして最悪だった。


王都にて春季武勲式典を行う。 アルスヴェルト公爵家は後継問題について王前で説明せよ。 嫡女レティシアは出仕し、武技と政務の両面において継承資格を示すこと。 なお、適任と認めがたき場合、王家は後見人を選定する。


――後見人。


美しい言葉だが、要するに「誰か男をあてがう」という意味である。


紙を握る手に力がこもる。


「……舐められたものね」


「はい」


ノアは否定しない。


「お嬢様が剣で北方を守る力を持つことは、皆知っております。だからこそ、剣以外の土俵へ引きずり下ろしたいのでしょう」


「政務ができないとでも?」


「できない、ではなく、“できないことにしたい”のでしょう」


事実、レティシアは書類仕事が得意ではない。 嫌いというより、回りくどい。戦場では一瞬の遅れが命取りになるのに、政務は何枚も何十枚も紙を重ねてようやく一歩進む。そんな世界だ。


だが、それを補って余りある人物がアルスヴェルト家にはいる。


レティシアはゆっくりと顔を上げた。


「ノア」


「はい」


「王都へ行くわ」


「承知いたしました。旅程、宿、随行人員、会議対策、想定問答、断るべき縁談一覧、敵対派閥の最近の動き、すでに準備しております」


「……まだ私、行くとしか言っていないのだけど」


「お嬢様は退かれませんので」


当然のように返されて、レティシアはほんの一瞬だけ言葉を失った。


それから、ふっと息を漏らす。


「そうね。退かない」


剣で示せと言うなら示してやる。 ペンで戦えと言うなら――その場には、この男がいる。


レティシアは王命の紙を二つ折りにして、冷たく笑った。


「王都に行って、全員まとめて黙らせるわ」


ノアは一礼した。


「では、黙らせるための筆記用具を増やしておきます」


二章 王都の舞踏会は、氷を溶かさない


春の王都は、北方の冬とあまりにも違った。


街路樹には新緑が灯り、石畳には花びらが舞い、貴婦人たちのドレスは淡い色で揺れる。だがレティシアにとって、その華やぎはすべて薄い膜のようなものだった。奥にあるのは、値踏みと打算、欲望と噂。色だけ美しい泥沼だ。


「まあ……あの方がアルスヴェルトの」


「本当に剣を帯びていらっしゃるわ」


「噂通り、お綺麗だけれど怖い方ね」


「でもあの執事、すごい美形じゃない?」


最後の囁きにだけ、レティシアの眉がぴくりと動いた。


王都滞在二日目、王宮で開かれた歓迎舞踏会。レティシアは軍装を思わせる濃紺のドレスをまとい、腰には儀礼剣を帯びていた。その半歩後ろに控えるノアは、黒の燕尾服に白手袋、銀鎖の懐中時計をつけた完璧な姿で、視線を集めることなく視線を奪っていた。


それがなんだか、少し面白くない。


「お嬢様、表情」


「普通よ」


「普通より二度ほど冷えております」


「そう」


「近くのご婦人方が『睨まれたかしら』と怯えております」


「なら好都合でしょう」


ノアがごく浅く笑った気配がした。


舞踏会が始まるや否や、案の定、貴族たちが群がってきた。


褒め言葉を塗り重ねた求婚。 北方への憧れを装った探り。 父の病状と家中の足並みを探る質問。


レティシアは必要最低限の返答しかせず、そのたびにノアが滑らかに会話を切り上げる。相手に恥をかかせず、しかし一歩も踏み込ませない。まるで見えない柵を何重にも立てるような手際だった。


やがて、一際派手な一団が近づいてくる。


「これはこれは、噂の氷のご令嬢」


先頭に立つのは、蜂蜜色の髪を丁寧に巻いた青年。宰相ヘルムート・ヴァイスベルクの嫡男、エドガー・ヴァイスベルクだ。整った顔立ちだが、目の奥にある軽薄さがすべてを台無しにしていた。


「お初にお目にかかります、レティシア様。私はエドガー。以前からぜひ親しくと願っておりまして」


「そう」


「いやあ、お噂以上にお美しい。まるで氷の女神だ。ですが、氷というものは、温かな手で触れれば溶けるでしょう?」


レティシアは無言で彼を見た。


エドガーはたじろがずに続ける。


「北方は厳しい土地です。いかに貴女が剣を振るえようと、政務はまた別。いっそ私のように王都政界に通じた男を伴侶に迎えれば、家のためにも――」


「失礼いたします」


柔らかい声で割って入ったのはノアだった。


「エドガー様。もし本気でお嬢様に求婚なさるのでしたら、せめて“家のため”ではなく“お嬢様のため”という言葉を最初にお選びになるべきかと」


周囲の空気がぴしりと固まる。


エドガーの頬が引きつった。


「……執事風情が」


「はい。風情に過ぎませんので、主人の代わりに失礼を申し上げられます」


その言い方は穏やかなのに、切れ味だけは剣そのものだった。


レティシアは危うく口元を上げそうになり、なんとか耐える。


エドガーは露骨に不快をにじませたが、周囲の視線を気にして一歩退いた。


「覚えておくよ、執事殿」


「光栄です」


去っていく背中を見送りながら、レティシアは小さく呟く。


「敵を増やしたわね」


「減らすより効率的でしたので」


「効率……」


「それに」


ノアがわずかに屈み、彼女だけに届く声で言った。


「お嬢様を品定めするような男に、言葉を尽くす必要はありません」


その低い声に、胸の奥が妙にざわつく。 舞踏会の熱気のせいだと思いたかったが、たぶん違う。


そのとき、玉座の間へ続く扉が開き、王太后主催の余興として、武技演武の名が告げられた。


「アルスヴェルト令嬢。ぜひ北方武門の腕前を拝見したい」


わざとらしい歓声が上がる。


見世物にしたいのだ。 女が剣を振るう姿を、面白半分に。


レティシアは進み出た。止める必要はないと知っているから、ノアは何も言わない。


彼女は舞踏会用の飾り剣ではなく、自ら携えてきた実戦剣を抜いた。


静寂。


その一振りだけで、広間の空気が変わる。


鋭く、速く、美しく。無駄を削ぎ落した北方剣術の型を一通り見せ、最後に的として置かれた細い蝋燭の火だけを、一息に切り落とした。


火は消えず、芯だけが断たれる。


どよめきが起こる。


「……お見事」


「信じられない」


「女であれほどとは」


さまざまな声の中、レティシアは静かに剣を納めた。


その視線の先で、ノアだけが、ほんの少し目を細めていた。 誰よりも誇らしげに。


それだけで、胸が熱くなるのだから困る。


舞踏会の後、夜更けの客室でレティシアは髪を解かれながらため息をついた。


「王都は嫌い」


「存じております」


「言葉が多いくせに、中身がない」


「中身のない言葉ほど流通量が多い場所ですので」


「あなたの言葉は中身ばかりね」


鏡越しに視線が合う。


ノアは櫛を動かす手を止めず、穏やかに返した。


「恐れ入ります」


「褒めたのよ」


「ありがたく」


「それにしても……」


レティシアは少し迷ってから、低く言う。


「さっきの“主人を品定めする男に言葉を尽くす必要はない”って、あれ」


「事実です」


「そういう意味ではなくて……」


「はい」


「……なんでもない」


言えない。 あれが嬉しかった、などと。


氷の令嬢と呼ばれる自分が、たった一言でこんなにも心を乱されたなど、口にできるはずがない。


だが、その夜、眠る前にふと思い出したのは、舞踏会の華やぎでも、エドガーの顔でもなかった。


紙を扱う長い指。 抑えた声。 そして、当たり前のように自分を守る、黒衣の背中。


レティシアは枕に顔を埋め、誰にも見えないところでだけ小さく呻いた。


「……重症だわ」


三章 剣の試練、ペンの試練


王前で行われる継承審査は、予想以上に露骨だった。


武技、政務、家臣統率、領内収支、対外交渉能力。 名目は公正。実態は、レティシアを「女だから」という理由で脱落させるための盛り合わせである。


最初の試練は武技。


王城の演武場で、近衛騎士や各家の若手当主候補たちが一対一の模擬戦を行う。形式上は勝敗のみでなく、判断力や統率力も見られることになっていた。


対戦相手としてレティシアの前に立ったのは、皮肉にもエドガーだった。


「私は剣より政務向きでしてね。お手柔らかに」


言いながら彼が構えた剣は、驚くほど隙だらけだった。 油断しているのではない。おそらく最初から「女に負けても見栄えが悪くない」程度に手を抜き、引き分けでも狙うつもりなのだろう。


レティシアは一歩踏み込んだ。


金属音は一度だけ。


次の瞬間、エドガーの剣は高く宙を舞い、彼本人は喉元に切っ先を突きつけられて固まっていた。


「え」


「終了です」


審判役の老騎士が苦笑しながら宣言する。


演武場がどよめいた。


早い。あまりに早い。 むしろ手加減したのはレティシアの方だ。


彼女は剣を引き、冷ややかに言う。


「お手柔らかくいたしました」


あちこちで吹き出す声がした。 エドガーの顔が熟れた林檎のように赤くなる。


二戦目、三戦目も危なげなく勝ち進み、最後には近衛騎士団副団長との試合でも引き分けに持ち込んだ。十分以上に戦えたこと自体が快挙であり、観覧席の王も明らかに感心していた。


だが、問題はその次だった。


午後から行われた政務審査。 各領の状況説明と質疑応答である。


レティシアが答え、ノアが後方で資料を整える。 その構図は完璧に見えた。


実際、領内の兵站や冬越し備蓄、北方砦の修繕計画までは問題なく答えられた。だが、王都財務官が差し出した一冊の帳簿で空気が変わる。


「アルスヴェルト領の去年の軍備支出ですが、申告と実際の数字に大きな差がありますな」


「差?」


「はい。こちらの写しでは、鉄材購入量が二割上振れしている。しかも納入印が曖昧だ」


レティシアは一瞬、帳簿を見つめた。


知らない。 いや、そんなはずはない。 ノアと確認した帳簿に、そんな不整合はなかった。


そのとき、背後で紙をめくる音が止まった。


ノアの気配が変わる。


「恐れながら」


彼が一歩前に出た。


「その写しを拝見しても」


財務官は嫌そうな顔をしたが、王の視線を受けて渋々差し出す。ノアはわずか数秒でページを確認し、静かに眼鏡を押し上げた。


「お嬢様。こちらは偽造です」


ざわ、と場が揺れた。


「なにを根拠に」 「三点ございます」


ノアは紙を掲げる。


「第一に、この納入印は昨年秋に死去した商会主のものですが、印影が新しい。朱肉の調合が最近のものです。第二に、帳簿紙の透かしが王都製であり、北方公爵家で使用するものと異なります。第三に――」


彼はページの隅を指した。


「ここの筆跡です。数字の七の跳ね方が、王都財務局の書記官特有の癖になっております」


一拍置いて、広間の温度が変わる。


レティシアより先に、王が低く問うた。


「財務官。説明を」


「い、いや、それは……」


財務官がしどろもどろになる。明らかだった。


ノアはさらに一冊の帳簿を差し出した。


「こちらが原本です。並べれば、差異は一目瞭然かと」


王が側近に命じ、即座に照合が始まる。 結果は当然、ノアの言う通りだった。


レティシアを失脚させるための捏造。


場の視線が痛いほど集まる中、エドガーの父、宰相ヘルムートだけが、薄く笑みを崩していなかった。その目が、ノアを静かに観察している。


嫌な予感がした。


審査はその場で中断された。 財務官は連行され、王は「継承審査は続行する」とだけ告げて退席した。


人払いされた控室で、レティシアは深く息を吐く。


「助かったわ」


「当然のことをしたまでです」


「当然、ね。あなたがいなければ、私はあの場で沈められていた」


ノアは否定しなかった。 珍しいことだった。


代わりに、彼は少しだけ厳しい顔をして言った。


「敵は予想以上に本気です。お嬢様の剣では届かぬ場所から、足元を崩しに来ている」


「分かっている」


「ですので、どうか私に任せてください。紙の上の戦場は、私が片づけます」


その言葉は頼もしい。 頼もしいのに、胸が苦しくなった。


「……ひとりで背負うつもり?」


「背負うためにおります」


「ノア」


「お嬢様は剣を執る方です。私はペンを執る。それで十分でしょう」


いつもの言い方。 いつもの距離。


なのに今日は、妙に冷たく聞こえた。


レティシアは唇を結び、それ以上言えなくなる。


その日の夜、彼女は眠れなかった。


剣の稽古なら何時間でもできるのに。 敵を斬る覚悟などとうにあるのに。


たった一人の執事に「頼ってほしい」と言う勇気だけが持てない。


氷の令嬢とは、ずいぶん不器用な生き物だと、自分で思う。


四章 辺境に火が上がり、黒衣の執事は王都に残る


三日後、北方から急使が来た。


封を切った瞬間、レティシアの顔色が変わる。


「……西の砦が襲われた」


冬の終わりに魔獣が群れをなして南下することは珍しくない。だが今回の被害は異常だった。見張りの交代時刻、補給線の薄い日を狙っている。偶然とは思えない。


「加えて、第二騎士隊に帰還命令が出ています」


ノアが別の文書を広げる。


「そんな命令、出していないわ」


「ええ。王都軍務局の印ですが、文面の癖が不自然です。偽命令でしょう」


レティシアは舌打ちした。 やはり来た。帳簿の偽造が失敗した時点で、次の一手に出るとは思っていたが、ここまで露骨とは。


彼女を王都から引き離し、辺境で失点させるつもりだ。


「戻る」


「はい」


「今すぐ」


「承知しました。ただし」


ノアはそこで一瞬だけ目を伏せた。


「私は王都に残ります」


レティシアは思わず彼を見た。


「なぜ」


「偽造命令の出所、財務官の背後、宰相派の証拠。すべてこちらで押さえねば、お嬢様が辺境を守っても“偶然うまくいった女”で終わります。王都の記録を正し、王の裁可を取る者が必要です」


正論だった。 正論だと分かるからこそ、苛立つ。


「危険よ」


「辺境よりは」


「矢が飛んでこないだけで、毒も罠もある」


「存じております」


「なら」


「それでも」


ノアは静かに膝をついた。


「今ここで最もお嬢様のお役に立てる場所が王都であるなら、私は王都におります」


その姿は完璧な臣下のものだった。 だから、余計に腹立たしい。


レティシアは声を荒げそうになって、寸前でこらえる。


叫びたいのは「役に立て」ではなく「そばにいて」なのだと気づいてしまったからだ。


そんな子どものような言葉を、今さらどう言えばいい。


沈黙のあと、彼女はようやく短く告げた。


「……死なないで」


ノアが顔を上げる。


レティシアは視線を逸らしたまま続ける。


「これは命令よ。王都の紙切れごときに負けるのは許さない。全部片づけて、必ず戻ってきなさい」


黒い瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「かしこまりました」


いつもの丁寧な返事なのに、その一言が妙に深く胸に落ちる。


出立の朝、レティシアは北へ、ノアは王宮の資料庫へ向かった。


互いに振り返らなかった。 振り返れば、行けなくなる気がしたからだ。


辺境に戻ったレティシアを待っていたのは、想像以上に厳しい現実だった。


西の砦だけでなく、南の山道でも襲撃が発生。補給馬車が焼かれ、砦間を結ぶ伝令が何人も消息を絶っている。敵は魔獣だけではない。人の手が入っている。しかも内情を知る者の。


「裏切り者がいるわね」


レティシアが地図の上に指を滑らせる。


執務室には騎士団長のガレス、老軍師のベルン、侍女頭のマルタらが集まっていた。父の病床を守る者、領内をまとめる者、皆が不安を押し隠してレティシアを見る。


彼女が倒れれば、この家は終わる。


その重さは痛いほど分かる。 だからこそ、迷っている暇はない。


「第二騎士隊は?」


「偽命令に従い半数が南へ移動。ですが途中で不審を察し、引き返しつつあります」


「間に合わないわね」


「西砦は今夜が山場です」


レティシアは剣の柄を握った。


ノアがいない机は、ひどく広く見えた。 書類の山を前にすると、その不在が嫌でも分かる。いつもなら必要な紙だけを抜き出し、要点を三行にまとめ、先回りして返書まで用意してくれるのに。


苛立ちを飲み込み、彼女は立ち上がる。


「私が西砦へ行く。ガレス、主力を率いて東門を守って。ベルン卿は補給路の再構築。マルタ、父上には私が出たことを伏せて」


「お嬢様自ら!?」


「私が行けば士気が持つ。あそこは落とさせない」


誰も反論しなかった。


いや、できなかった。


レティシアの瞳が、凍てつくほど決意に満ちていたから。


その夜、彼女は百騎にも満たない手勢を率いて西砦へ向かった。 吹雪の残る街道を馬で駆けながら、ただ一つだけ考える。


――ノアなら、この状況をどう切り分けるだろう。


剣だけでは足りない。 だが剣で持ちこたえなければ、ペンが届く前にすべて終わる。


だから自分は斬る。 彼が戻る場所を守るために。


五章 黒いインクは、どんな血より深く染まる


同じ頃、王都。


ノア・アシュベリーは、書記局の地下資料庫でひとり、古い台帳をめくっていた。


蝋燭の灯が揺れる中、積み上がった紙束は胸の高さに達している。普通の人間なら半日で投げ出す量だが、ノアは眉ひとつ動かさず、淡々と数字と印影と筆跡を追っていた。


「やはり、ここだ」


彼は一冊の軍需台帳を開き、別の商会帳簿と並べる。 鉄材、薬品、乾燥肉。北方へ送られたことになっている物資の一部が、実際には王都近郊の別倉庫へ流れている。差額は消えたように見せかけて、宰相派の息のかかった商会で洗われていた。


帳簿偽造だけではない。 辺境の補給を故意に削り、その失態をレティシアへ被せようとしている。


「思った以上に腐っている」


ひとりごちたそのとき、背後で小さな物音。


ノアは振り返らずに言った。


「出てこられては」


物陰から現れたのは、王太后付き侍女のソフィアだった。以前、舞踏会でノアの切り返しを聞きつけ、それ以来ひそかに協力してくれている女性である。


「宰相閣下の執務室から、ようやく印影見本を持ち出せたわ。危なかったのよ」


「ありがとうございます」


「礼は後で。あなた、三日寝てないでしょう」


「二時間ほどは仮眠を」


「それを寝たうちに入れるのは執事くらいよ」


ソフィアは呆れつつ、封書を渡してくる。


王家の私印入り。 中を確認すると、そこには国王直筆の短い一文。


――必要な証拠が揃い次第、朕に直接示せ。


「王は動く気ね」


「ええ。ただし決定打が必要です」


「十分じゃないの?」


「まだ足りません。これでは横流しの立証止まり。辺境襲撃との繋がりを示せなければ“無能な官吏の失態”で片づけられます」


ノアの声音は静かだ。 静かなまま、研ぎ澄まされている。


「執事って皆こうなの?」


「いいえ。私は少々、主人第一主義が過ぎるだけです」


ソフィアは苦笑した。


「少々、ね」


ノアは返事をしなかった。


主人第一。 それは偽りではない。


だが本当は、もっと単純で、もっと厄介な理由だ。


レティシアの剣が好きだった。 まっすぐなところが好きだった。 不器用な優しさも、誇り高さも、背負い込む癖も、全部。


だから彼女を侮る者が許せない。 彼女を飾り物にしようとする男たちが許せない。 そして何より、彼女の隣に自分以外の誰かが立つ未来を、考えるだけで息が詰まる。


忠義だけではない。 もっとずっと、身勝手な感情だ。


それを悟られてはならないから、彼は執事であり続けた。


感情ではなく、能力で仕える。 言葉ではなく、成果で守る。


そう決めていた。


だが――。


「ノア」


ソフィアの声で我に返る。


「王都南の倉庫街で、怪しい荷の移動があるって。今夜」


「案内を」


「行くの?」


「ええ。証拠が歩いているなら、捕まえに行きます」


その夜、倉庫街でノアが押さえたのは、宰相派商会の使いと、北方山賊へ流す予定だった大量の武具、そして何より――偽命令の原板だった。


金属製の印板には、軍務局の印が精巧に刻まれている。


「十分です」


ノアは冷たい声で言った。


「これで、お嬢様へ向けた泥は、すべて持ち主へ返せます」


翌朝、王前会議。


宰相ヘルムートとその息子エドガーが平然と並ぶ中、ノアは単身、その場へ出頭した。


本来なら執事ごときが踏み込める場ではない。 だが国王の召喚状がある。


「アルスヴェルト家執事、ノア・アシュベリー。申し開きをいたせ」


王の言葉を受け、ノアは一礼した。


「申し開きではなく、ご報告でございます」


そう言って提出された証拠の山に、会議室は騒然となった。


偽造帳簿。 偽命令。 横流しされた軍需物資。 秘密倉庫の押収記録。 商会主の証言書。 そして、宰相派書記官の自白。


エドガーの顔がみるみる青ざめる。 対照的に、宰相はなおも冷静を装っていた。


「証拠としては面白い。だが、それが私に結びつくとは限らぬ」


「ええ。ですので最後に、こちらを」


ノアが取り出したのは一通の私信だった。


宰相家の封蝋。 中身は、北方の内通者へ送られた指示書の写し。


――アルスヴェルト嫡女が帰還した際に攻勢を強めよ。女の采配不足を印象づけること。


「……っ」


初めて、ヘルムートの表情が崩れた。


「どこでそれを」


「ご心配なく。差出人と受取人、双方の筆跡鑑定も済んでおります」


静かな声で、ノアは続ける。


「あなたの敗因は二つです。お嬢様の剣を恐れたこと。そして、私のペンを軽んじたこと」


その一言は、会議室の誰よりも鋭かった。


王が立ち上がる。


「ヘルムート・ヴァイスベルク。謀反および辺境攪乱の疑いにより拘束する」


兵が動く。 エドガーが何か叫んだが、もう誰も耳を貸さない。


王はノアを見下ろした。


「見事だ、執事」


「恐れ入ります」


「だがまだ終わっておらぬ。辺境では戦が続いている」


「承知しております。陛下」


ノアは顔を上げる。


「王命を頂きたく存じます。アルスヴェルト嫡女レティシア様を、正式な継承候補として支援する勅書を」


王は数秒、彼を見た。


その黒衣の青年が、どれほどの執念でここまで証拠を集めたのか。 誰のために戦っているのか。 老王には十分に見えていたのだろう。


やがて王は頷いた。


「よかろう。近衛百をつける。行け」


ノアは深く一礼した。


「必ず」


その返答に込めたものが忠義だけではないことを、彼自身がいちばんよく分かっていた。


六章 剣の届く場所まで、ペンは駆けつける


西砦の夜は、地獄だった。


焼けた木の匂い。 魔獣の咆哮。 兵の怒号と悲鳴。 壁をよじ登る影を斬り落としても、次が来る。


レティシアは最前線で剣を振るっていた。 鎧には血と泥がこびりつき、白銀の髪もすすで汚れている。それでも、その姿は凛として美しかった。


「東壁、持ちこたえなさい! 弓兵、三列交代! 油はまだ使わない、風向きが悪い!」


命令が飛ぶ。 兵が動く。


彼女はただ強いだけではない。 戦場を読む目がある。だから兵たちはついていく。


だが限界は近かった。


「お嬢様!」


ガレスが駆け寄る。


「南門に人間の部隊です! 山賊ではありません、訓練された傭兵です!」


「やはりね……」


魔獣は囮。本命は人間。 しかも砦の構造を知っている動きだった。


内通者はまだ近くにいる。


レティシアは唇を噛み、剣を握り直した。


「門を開ける準備を。私が出る」


「無茶です!」


「ここで受け続ければ壁が先に折れる。相手の指揮を落とす」


ガレスが止めるより早く、彼女は馬へ飛び乗った。


砦の門が開き、夜気と怒号が流れ込む。


レティシアは少数精鋭を率いて突撃した。


槍を避け、斬り、返しで喉を打つ。相手は確かに手練れだったが、彼女の剣はそれ以上に研ぎ澄まされている。雪と血の上を滑るように進み、敵の中央へ迫った。


そこにいたのは、灰色の外套を羽織った男。


アルスヴェルト家分家の嫡男、ルードルフ・アルスヴェルト。 父の従兄弟筋にあたる男だった。


「……あなた」


「久しいな、レティシア」


彼は笑った。


「女が家を継ぐなど、恥だと思わぬか? この家は武門だ。ならば男が継ぐべきだろう」


「だから敵と組んだの」


「敵? 違うな。正統を取り戻すだけだ」


吐き気がした。 家を守るためではない。家を奪うために、領民を餌にしたのだ。


「あなたに継ぐ資格はない」


「女のお前にはもっとない!」


ルードルフが剣を抜く。


重い。 力押しの剣だ。 だが速さはない。


レティシアは深く息を吸った。


ノア。 今、あなたはどこにいるの。


そんな考えが一瞬よぎった自分に、内心で苦笑する。 戦場でまで恋患いとは重症だ。


「来なさい」


刃がぶつかる。


ルードルフの一撃は確かに重かった。腕に痺れが走る。けれどレティシアは退かない。受けて、流して、踏み込む。相手の呼吸の乱れ、重心の傾き、怒りによる視野狭窄。すべてが見える。


三合、五合、七合。


八合目で、彼女は相手の剣を絡め取り、九合目で膝裏を払った。


ルードルフが崩れる。


切っ先を喉元に突きつけた、そのとき。


「偽命令による騎士隊離脱、宰相派との通謀、辺境襲撃加担。ルードルフ・アルスヴェルト、王命により拘束する!」


夜を裂くような声が響いた。


振り向いた先、松明の列。 王家の旗。 そして、その先頭に黒衣の男。


「……ノア」


息が止まる。


彼は馬上から降りると、まるで舞踏会の床にでも立つように落ち着いた足取りで歩いてきた。泥も血も似合わないはずの男なのに、この場でさえ妙に様になっているのが腹立たしい。


「お迎えに上がりました、お嬢様」


「遅い」


「申し訳ございません。書類が多く」


レティシアは、その返答に笑いそうになった。 よりにもよって今、そんなことを言うのか。


王命を受けた近衛兵がルードルフを取り押さえ、残党を制圧していく。戦況は一気に傾いた。偽命令は無効、宰相派は拘束済み、王家はアルスヴェルト公爵家支持を明言。敵が戦う理由は消えたも同然だ。


気が抜けたわけではない。 だが、胸をつかんでいた何かがふっと緩む。


レティシアは馬から降り、血に濡れた剣を納めた。


「全部、片づけたの」


「はい」


「王都を?」


「概ね」


「概ね、って」


「まだ処理すべき嘆願書が七十三通ほど残っております」


「……あなた、本当に何者なの」


ノアはほんの少しだけ目を細めた。


「お嬢様の執事です」


それだけ。 それだけなのに、泣きたくなるほど安心した。


次の瞬間、膝から力が抜けた。


戦場の緊張が切れたのだろう。 倒れかけた身体を、黒い腕がしっかり支える。


「お嬢様」


「平気……」


「平気ではありません。左肩に裂傷、右腕に打撲、睡眠不足に加えて過労です」


「見ただけで分かるの?」


「毎日拝見しておりますので」


その言い方があまりにも自然で、耳が熱くなる。 こんな状況で何を言うのだ、この男は。


ノアは彼女を抱えたまま、ひどく静かな声で続けた。


「ご無事でよかった」


たったそれだけ。


大げさな言葉ではない。 だが、彼がどれだけそれを言わずにいたのか、レティシアには分かった。


だからこそ、胸の奥がいっぱいになる。


「……命令、守ったわね」


「はい」


「偉い」


「恐れ入ります」


レティシアは彼の胸元を掴んだまま、小さく言った。


「あとで話がある」


「はい」


「逃げたら斬る」


「では逃げません」


その答えに、今度こそ彼女は笑った。


砦の兵たちが、初めて見る主の笑みに目を丸くしていたが、そんなことはもうどうでもよかった。


七章 氷の令嬢、恋を自覚したので斬り込むことにする


辺境の戦は三日で収束した。


宰相派の資金で動いていた傭兵は解散し、内通者は一掃され、王都からは正式な勅書が届いた。そこには明確に記されている。


――レティシア・アルスヴェルトを、アルスヴェルト公爵家正統継承者と認める。


父は病床でその勅書を受け取り、震える手で娘の頭を撫でた。


「よくやった、レティ」


「まだよ。家督を継ぐだけで終わらせない。もっと強くする」


「ああ……お前ならできる」


老いた公爵の目には、安堵と、少しの寂しさと、ひどく深い愛情があった。


そして、父はノアにも視線を向ける。


「お前もな」


「もったいないお言葉です」


「いや。お前がいなければ、この家は危うかった」


ノアは深く一礼した。 その横顔を見ながら、レティシアは決意を固める。


もう逃げない。 剣のことなら迷わないのに、恋だけ臆してどうする。


だからその日の夜、彼女は自室にノアを呼びつけた。


正式な呼び出しではなかった。


呼びつけた、が正しい。


侍女たちには「今夜は誰も通さないで」とだけ告げ、レティシアは寝台脇の長椅子にも座らず、部屋の中央で腕を組んで待っていた。戦場より緊張するなど、どう考えてもおかしい。


いや、おかしいのは分かっている。 剣なら迷いなく抜ける。 敵陣に突っ込むのもためらわない。 なのに、たった一人の執事に言いたいことを言うだけで、心臓がうるさい。


やがて扉が叩かれる。


「ノア・アシュベリー、入室の許可をいただけますか」


「入りなさい」


普段通りの声を出せたつもりだったが、少しだけ硬かった気がする。


扉が開き、黒衣の執事が現れる。 戦場から戻ったあとで着替えたのだろう、いつもの隙のない黒の執事服。だが目の下にはうっすら疲労の影があり、それが逆にレティシアの胸を詰まらせた。


この男は、どれだけ働けば気が済むのだろう。 どれだけ無茶をしても、自分のことを最後に回す。


それが腹立たしくて、愛おしい。


「ご用件を」


「……固いわね」


「呼びつけられましたので」


「呼びつけたもの」


「はい。ですので、参りました」


いつも通りだ。 いつも通りに整っている。 整いすぎていて、少しも隙がない。


レティシアは小さく息を吐いた。


「そこに座って」


「執事が主人の前で腰を下ろすわけには」


「命令よ」


ノアは一瞬だけ黙り、観念したように長椅子の端へ腰を下ろした。 端すぎる。 今にも立ち上がって逃げそうな座り方だ。


「もっとこっち」


「お嬢様」


「命令」


「……かしこまりました」


少しだけ距離が縮まる。


たったそれだけで、余計に心臓がうるさい。 レティシアは自分も向かいに座るべきか迷ったが、正面からではたぶん言えない。結局、彼の隣に腰を下ろした。


沈黙。


暖炉の薪がぱちりと鳴る。


先に口を開いたのはノアだった。


「お叱りでしたら、お受けいたします」


「お叱り?」


「王都で単独行動を取ったこと。危険を冒したこと。お嬢様の命令を文字通り“死なない程度”に解釈したこと」


思わず、レティシアは彼を見た。


「自覚はあるのね」


「ございます」


「なら、どうしてあんな無茶をしたの」


ノアは静かに答える。


「必要だったからです」


「それだけ?」


「はい」


「嘘」


その一言に、彼の眉がわずかに動いた。


レティシアは自分でも驚くほど落ち着いた声で続けた。


「必要だった。それは分かるわ。あなたがいなければ、王都の腐敗を暴くのは難しかった。私が辺境で剣を振るっていられたのも、あなたが紙の上で戦ってくれていたから。……でも、それだけじゃないでしょう」


ノアは答えない。


だから、レティシアは逃がさないことにした。


「舞踏会で私を守ってくれたときも。審査で前に出たときも。王都に残ると言ったときも。あなたはずっと、“執事だから”で済ませようとした」


「事実です」


「違う」


ぴしゃりと言い切ると、ノアが息を止めた。


「執事だから、そこまでできる人もいるでしょうね。でも、あなたは違う。あれは忠義だけじゃない」


今度こそ、彼の横顔が硬くなる。


レティシアは自分の手が震えているのを膝の上で押さえ込んだ。


「私は鈍いわ。剣の癖は見抜けても、自分のことになると本当に鈍い。だから気づくのが遅れた。でも、戦場であなたの顔を見たとき、ようやく分かったの」


ここで引いたら、一生後悔する。


「私は、あなたがいないと嫌」


ノアが、ゆっくりとこちらを向く。


黒い瞳が、ひどく近い。


「お嬢様」


「執事としてじゃない。部下としてでもない。……ノア個人として、そばにいてほしい」


言えた。 言ってしまった。


顔が熱い。 多分、今の自分は“氷の令嬢”から最も遠い。


だが、もう遅い。


「私はあなたが好きよ」


静寂。


暖炉の火が、ばちりと爆ぜた。


ノアはすぐには何も言わなかった。 あまりに沈黙が長くて、さすがにレティシアも不安になってくる。


まさか、困らせた? いや、困るだろう。主人からの告白だ。立場もある。 勢いで斬り込んだが、これではただの無茶な突撃ではないか。


言い直そうか、と一瞬よぎったところで。


「……それは、非常に、困りました」


低い声が落ちた。


レティシアの胸がきゅっと縮む。


「そう」


できるだけ平然と言ったつもりだった。 だが失敗したのは自分でも分かる。声が細い。


立ち上がろうとした瞬間、手首を掴まれた。


「最後まで聞いてください、お嬢様」


その手は、驚くほど熱かった。


「困りました、というのは。私が、これ以上執事を続ける理性を保てる自信がなくなるからです」


「……え」


ノアが、初めて本当に困ったように眉を寄せた。


「好きです」


言葉は短い。 だが、その一言に込められた熱量が、レティシアの思考を真っ白にした。


「ずっと以前から。お嬢様が剣を握る姿も、眠れない夜にひとりで地図を睨む姿も、誰にも見せない優しさも。すべて」


「ノア」


「ですが私は執事です。主人に対して恋を口にするなど、越えてはならない一線でした」


「今、越えたじゃない」


「ええ。お嬢様が先に斬り込まれましたので」


その返しがあまりにもノアらしくて、レティシアは思わず笑ってしまう。 笑いながら、目頭が少し熱くなる。


「……卑怯」


「申し訳ありません」


「謝ってない顔ね」


「申し訳ないと思う程度には、理性が残っております」


「残ってるの、それ」


「かなり危ういです」


その瞬間、二人同時に吹き出した。


張りつめていたものが一気にほどける。 おかしくて、嬉しくて、どうしようもない。


笑いが落ち着いたあと、ノアがそっと問うた。


「お嬢様。先ほどのお言葉を、もう一度だけ伺っても」


レティシアは彼を見つめた。 逃げ場はない。 でも、もう逃げる気もない。


「好きよ、ノア」


今度ははっきりと。


ノアは目を伏せ、ほんのわずか、安堵したように息をついた。 それから彼は、執事らしく端正に一礼――しかけて、途中でやめた。


「……やはり、もう執事のままでは無理ですね」


「今さら?」


「はい。今さらです」


彼は立ち上がると、部屋の隅に置いていた書類鞄を取りに行った。 こんなときに何を、と思うより早く、整然とした動きで数通の書類を取り出して戻ってくる。


嫌な予感がした。


「ノア。それは何」


「必要書類です」


「何の」


「順にご説明いたします」


そう言って彼は一枚目を広げた。


「こちら、国王陛下による“アルスヴェルト公爵家正統継承者たるレティシア様の婚姻に関する特例許可”です。お嬢様が当主となられたのちも、配偶者に家名および軍権が優先移譲されぬよう、事前に法的整理を済ませてあります」


レティシアは目を瞬かせた。


「……いつの間に?」


「王都で。宰相派拘束の翌日には陛下にご裁可いただきました」


「早くない?」


「敵を一掃した流れで押し切るのが最も効率的でしたので」


怖い。 少し好きすぎて怖い。


ノアは二枚目を示す。


「こちら、旦那様――いえ、公爵閣下からの内諾書です。お嬢様のお気持ちが確認できた場合に限り、正式に提出してよいと」


「父上まで!?」


「たいへん協力的でいらっしゃいました」


「なんで私だけ知らないのよ!」


「お嬢様は鈍いので、先に外堀を埋めておく必要があると皆が判断したためかと」


「皆って誰」


「公爵閣下、侍女頭マルタ、軍師ベルン卿、騎士団長ガレス殿、厨房長、それから犬舎番のトーマス」


「犬舎番まで!?」


もはや屋敷ぐるみではないか。


レティシアが絶句している間に、ノアは三枚目を広げた。


「そしてこちらが私の執事辞任届と、同時に提出予定の新規任用願です」


「新規任用?」


「はい。“公爵家当主補佐兼配偶者”として」


「待ちなさい」


レティシアは額を押さえた。 情報量が多い。多すぎる。


「つまり、何」


「要約しますと」


ノアは万年筆を一本、するりと抜いて差し出した。


「お嬢様が今ここで頷いてくだされば、私どもは明日の朝には法的にも実務的にも婚約可能です」


「明日の朝!?」


「ええ。すでに日取り候補も三案ございます。最短案ですと、領内への布告は五日後、王都への正式報告は七日後、婚礼は――」


「早い早い早い!」


「お急ぎでない場合、もう少しロマンのある進行にも調整可能です」


「そういう問題じゃない!」


ノアは少しだけ首を傾げた。


「では、どのあたりが問題でしょう」


「全部よ!」


レティシアは叫んでから、顔を覆った。


これはひどい。 自分はついさっき、人生初の告白をして、ようやく両想いになったばかりなのだ。 それなのに相手はもう婚姻と法整備と職務再編の書類を揃えている。


たしかに彼はペンを握る人間だ。 握るどころか、そのペンで人生設計まで書き終えているではないか。


しばし沈黙。


やがて、レティシアは指の隙間からノアを見た。


「……ひとつ、確認していい?」


「なんなりと」


「もし私が、今日なにも言わなかったら」


ノアはほんの少しだけ目を伏せ、それから静かに答えた。


「一生、執事のままでいるつもりでした」


その答えは予想外にまっすぐで、レティシアは息をのむ。


「お嬢様がお幸せなら、それでよいと。少なくとも、そう思い込む努力は続けたでしょう」


「思い込む努力、ね」


「ええ。相当難しかったでしょうが」


「……馬鹿」


思わずそう呟くと、ノアが微かに笑う。


レティシアは立ち上がり、彼の前まで歩いた。 そして、差し出された万年筆を取る代わりに、その胸元を指でつつく。


「外堀を埋めるのが早すぎるのよ」


「申し訳ありません」


「でも」


彼が息を止める。


レティシアはふっと口元を緩めた。


「嫌いじゃないわ」


その一言で、ノアの表情が崩れた。 いつもの完璧な執事の仮面が、ほんの少しだけ。


それが嬉しくて、たまらない。


「ただし条件がある」


「承ります」


「婚約はする」


「はい」


「でも、順番を少しだけ私にも選ばせて」


「……と、申しますと」


レティシアは万年筆を彼の指から奪い取ると、机にあった白紙を引き寄せた。 さらさらと一行、書きつける。


それをノアに突き返した。


彼は読んで、珍しく目を見開いた。


紙にはこう書かれていた。


『ノア・アシュベリーに、明日、庭園で正式に求婚することを命じる』


「だって、そうでしょう?」


レティシアは胸を張る。


「私は武門の娘よ。戦の始まりも終わりも、けじめは大事にするの。告白したのは私だけど、求婚まで私からじゃ締まらないわ」


ノアは数秒、紙を見つめたあと、静かに笑った。 今度の笑みは、もう執事のそれではない。


「かしこまりました、お嬢様」


「“お嬢様”はやめて」


「……レティシア様」


「それも仕事っぽい」


「では、レティシア」


名前だけで呼ばれた瞬間、胸の奥が甘く痺れた。


「明日、必ず」


「ええ。逃げたら斬るから」


「逃げません」


「ならよし」


そこで話は終わるはずだった。


終わるはずだったのに、ノアはまだ動かない。 というより、手元の書類をきっちり揃え直し始めた。


「……何をしているの」


「順番を調整しております。正式求婚ののち、婚約書への署名は明日正午でも間に合います」


「まだそこは撤回してないのね」


「段取りを崩すと不安になりますので」


「あなた、ほんとうに筋金入りだわ……」


呆れて言うと、ノアはふと顔を上げた。


「レティシア」


「なに」


「ひとつだけ、こちらも条件を」


「聞くだけなら」


「はい。今後、無茶な単独突撃をなさる際は、必ず事前に私にも一報を」


「無茶って」


「西砦でなさったことです」


「必要だったのよ」


「承知しています。ですので止めません」


「止めないの」


「止めても行かれるでしょう」


「ええ」


「ですから、せめて私が追いつけるよう、出発時刻だけは正確に教えてください」


その言い方が、あまりにも彼らしくて。 支配でも束縛でもなく、ただ隣に立つための条件で。 レティシアはひどく優しい気持ちになる。


「分かった」


「ありがとうございます」


「代わりにあなたも」


「はい」


「死なないで。今度は命令じゃなくて、お願い」


ノアはしばらく何も言わなかった。 それから、そっと彼女の手を取る。


「はい」


それだけで十分だった。


八章 翌朝、氷の令嬢は庭園で求婚される


翌朝、屋敷の中庭は妙にざわついていた。


侍女たちは朝からそわそわし、庭師は季節外れに花壇の形を整え、騎士団長ガレスは「たまたま通りかかっただけです」と言い張りながら植え込みの陰にいる。犬舎番のトーマスに至っては犬まで正装用の首飾りをつけていた。


「……やっぱり全員知ってるじゃない」


レティシアが呟くと、侍女頭マルタが涼しい顔で答えた。


「もちろんでございます」


「もちろん、なの」


「お嬢様の恋路は領内安全保障に関わりますので」


「大げさよ」


「いいえ。お嬢様が浮き足立って廊下の角に剣をぶつけたの、昨夜だけで二回でございます」


「見てたの!?」


「侍女ですので」


ひどい。 この屋敷、敵しかいない。


だが、嫌ではなかった。


庭園の中央には、まだ雪解けの冷たさを残した噴水と、北方では珍しい早咲きの白い花が咲いている。その前に、黒衣の男が立っていた。


ノアだ。


いつもの執事服ではない。 黒を基調にしつつも、襟と袖に銀糸をあしらった礼装。きっちり整えた黒髪。胸元にはアルスヴェルト家への奉職章ではなく、個人としての佩章。


つまり今日は、執事ではない。


それに気づいた瞬間、レティシアの心臓がまたうるさくなった。


「おはようございます、レティシア」


「……おはよう」


周囲の気配が消える。 いや、たぶん植え込みの向こうに全員いるのだが、今はどうでもいい。


ノアは彼女の前に進み出て、ゆっくりと片膝をついた。


北方の礼式では、騎士が主君に忠誠を誓う姿勢。 同時に、ひとりの男が、生涯を捧げたい相手に示す姿勢でもある。


「レティシア・アルスヴェルト」


名前を呼ばれる。 いつもの敬称も肩書きもなく、まっすぐに。


「私はあなたに忠誠を誓ってきました。これからも、それは変わりません」


黒い瞳が、揺るがずに彼女を映す。


「ですが今後は、忠誠だけでは足りません。あなたの隣に立ち、あなたと同じ景色を見て、喜びも怒りも悩みも分け合いたい」


レティシアは息をつめた。


「剣を握るあなたの手を、必要なときには支えます。ペンを握る私の手を、必要なときには叱ってください」


後ろの植え込みから、誰かのすすり泣く気配がした。 たぶんマルタだ。早い。


「どうか私と、人生を共にしてください」


ノアが小箱を開く。 中には、派手ではないが、よく磨かれた銀の指輪が二つ。 片方には白銀の石、もう片方には黒曜石が嵌められていた。


「私と婚約していただけますか」


レティシアは、ほんの数秒だけ空を見た。 北方の空は今日も高くて冷たく、美しい。


ずっと一人で背負うつもりだった。 剣だけで守り、戦い、立ち続けるつもりだった。


でも、隣にこの男がいる未来を知ってしまったら、もう戻れない。


「ええ」


彼女は微笑む。


その笑みに、植え込みの向こうで物が倒れる音がした。 誰か卒倒したらしい。


「喜んで」


ノアが、息をつく。 本当に、安堵したように。


「ですが、一点だけ確認を」


「なに」


「この場合、昨日の命令書は達成扱いでよろしいでしょうか」


レティシアは数秒きょとんとして、それから盛大に吹き出した。


「こんなときまで書類基準なの!?」


「重要ですので」


「よろしいわ。達成扱いで」


「ありがとうございます」


「あとで評価も書いてあげる。“迅速だが外堀埋めが早すぎる”って」


「甘んじて受けます」


指輪がはめられる。 銀の輪はひやりとして、すぐに体温になじんだ。


その瞬間、植え込みの向こうから一斉に歓声が上がった。


「やったあああ!」


「おめでとうございますお嬢様ー!」


「だから言っただろう、あの執事は絶対婿になるって!」

「賭けの払い戻しはどこだ!」


「賭けてたの!?」


レティシアが叫ぶと、ガレスが気まずそうに咳払いした。 ベルン卿は遠い目をし、マルタはハンカチで目元を押さえながら「皆、確信しておりましたので」と言った。


ノアだけが静かに眼鏡を押し上げる。


「ちなみに倍率は、最初“お嬢様が一生お気持ちに気づかれない”が最有力でした」


「ノアまで知ってたの!?」


「胴元が厨房長でしたので、情報共有は受けております」


「止めなさいよ!」


「申し訳ありません。ですが私も、気づかれない方に少額賭けておりました」


「賭けたの!?」


「保険です」


「何の保険よ!」


庭園に笑い声が広がる。


もう、どうでもいい。 氷の令嬢だなんだと恐れられていた自分が、こんなふうに皆の前で笑う日が来るなんて、少し前までは想像もしなかった。


ノアが立ち上がり、そっと囁く。


「レティシア」


「なに」


「ひとつ、重要な報告が」


嫌な予感しかしない。


「婚約成立に伴い、本日午後からお嬢様――いえ、あなたの執務量は三割減ります」


「どうして」


「補佐兼配偶者予定者として、私が正式に持てる決裁権が増えるためです」


「……それは助かるけど」


「加えて、縁談の返書は今後“既婚予定につき辞退”で統一できます」


「最高ね」


「はい。なお、第三王子殿下からは今朝、“今後は友誼を”との丁重なお手紙が届いております」


「燃やした?」


「いえ。今回は保存価値がございますので、笑い話の資料として保管します」


「性格が悪いわよ」


「あなたほどでは」


「誰のせいだと思っているの」


「私のせいかと」


即答された。 レティシアはまた笑ってしまう。


そしてふと思う。


剣を握るのは自分。 ペンを握るのは彼。


それでいいと思っていた。 でも、きっとこれからは少し違う。


自分が守るだけではない。 彼に守られるだけでもない。 剣とペンで、二人で同じ家を支えるのだ。


悪くない。 むしろ、最高だ。


レティシアはノアの腕を取り、堂々と言った。


「さあ、行くわよ」


「どちらへ」


「父上に正式報告。ついでに厨房長から賭けの上前をはねる」


「名案です」


「でしょう?」


歩き出す二人の背後で、再び歓声が上がる。 犬まで吠えた。


北方の春は遅い。 けれど、遅いからこそ、来たときの喜びは深い。


氷の令嬢はもう氷のままではいられない。 黒衣の執事は、とうの昔にペンで外堀を埋め終えていたのだから。


エピローグ そして執事は、最後に婚姻届へサインを促す

数日後。


アルスヴェルト公爵家では、婚約披露を兼ねた家臣会議が開かれていた。 領内有力者たちの前で、レティシアは堂々と当主継承と婚約を宣言し、ノアはその横で淡々と実務説明をこなす。


「以上により、北方防衛線の再編と新体制への移行を進めます。ご質問は」


空気が静まる。


すると最前列の老騎士が、おそるおそる手を挙げた。


「ええと……ひとつだけ、よろしいですかな」


「どうぞ」


「ノア殿は、これから何とお呼びすれば」


確かに。 執事ではなくなる。かといって婿殿ではまだ早い。


皆の視線が集まる中、ノアは一拍だけ考えてから、実に真顔で答えた。


「ひとまず、“仮執事兼仮婚約者兼当主補佐”でお願いいたします」


「長いわ!」


レティシアの即座のツッコミに、会議室が爆笑した。


その騒ぎの最中、ノアは何事もなかったかのように彼女の前へ一枚の紙を差し出す。


「では最後に、こちらへご署名を」


「なにこれ」


「婚約披露後の正式受理書です」


「まだあるの!?」


「はい。あと三枚」


「三枚!?」


「ご安心ください。婚姻関係の本番はもっと多いです」


「安心できる要素がひとつもないんだけど!?」


再び笑いが起こる。


レティシアは額を押さえ、それでも口元を隠しきれずに笑った。 そして観念したように万年筆を受け取る。


「……ほんとうに、最後までペンで来るのね」


「はい」


ノアはいつもの穏やかな声で、けれど少しだけ甘く言った。


「剣はあなたに敵いませんので。せめて、人生の書類仕事くらいはすべてお引き受けします」


その一言に、また胸が熱くなる。


レティシアは署名しながら、肩をすくめた。


「仕方ないわね。なら私は、あなたが逃げないように剣を握ることにする」


「光栄です」


「一生、覚悟しておきなさい」


「すでに誓約書にその旨、記載済みです」


「記載済みなの!?」


会議室はまた笑いに包まれた。


北方を守る武門の家に、新しい主と、その伴侶が生まれる。 片や剣を握る氷の令嬢。 片やペンを握る黒衣の執事。


そしてこの日、領内の者たちは揃って理解した。


この二人に勝てる相手は、たぶんもういない。 戦場でも、政務でも、そして夫婦喧嘩でも。


たぶん最後の勝者は、いつだって―― 先に書類を用意したほうだ。


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― 新着の感想 ―
なんか超強いドラゴンの鱗がそのへんの木を尖らせただけでぶち抜けるシュールギャグを見せられて思わずリンク踏んで飛んできてしまいましたが、今度は用件しか言わない特殊な文体の会話が並んでてこれはいったい…?…
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