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狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


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第9話 リソースの再配分

 午前七時。

 世田谷の高級住宅街に建つ、コンクリート打ちっ放しの宇治木うじき邸。

 そのリビングルームは、手術室のように静まり返っていた。

 壁一面の窓から差し込む朝日は、冷たく白い床を照らし出し、埃一つない空間の潔癖さを際立たせている。生活感という名の雑菌は、この家では徹底的に排除されていた。


 株式会社フューチャー・ケア・ストラテジー代表、宇治木うじき政樹まさきは、いつものように完璧にプレスの効いたシャツに袖を通し、リビングへと降りてきた。

 彼の一日は、分刻みのルーチンで構成されている。

 七時に起床。七時十五分にミネラルウォーターとサプリメントを摂取。七時三十分にメールチェック。

 その正確無比なリズムが、リビングに足を踏み入れた瞬間、ピタリと止まった。


「……なんだ、これは」


 宇治木の視線の先にあったのは、異物だった。

 部屋の中央に鎮座する、純白の介護ロボット『アイギス』。

 その美しい流線型のボディに、赤黒いしみがへばりついている。昨夜、妻の栄子えいこが浴びせかけた赤ワインの跡だ。乾燥して酸化し、まるで古びた血痕のように白磁の肌を汚している。

 さらに、すねのパーツには、ヒールで蹴り上げられた黒い擦過痕が痛々しく刻まれていた。


 宇治木は眉間に深い皺を刻んだ。

 怒りではない。生理的な嫌悪だ。

 計算され尽くした彼の「聖域」に、感情という名の汚物が撒き散らされたことへの、耐え難い不快感。

 彼は懐からハンカチを取り出し、鼻と口を覆った。


「申し訳ありません、宇治木さん」


 ロボットの傍らに控えていた網代あじろ真里まりが、深く頭を下げた。

 彼女は昨夜からこの家に残り、ロボットの監視とデータ調整を行っていたことになっている。手にはクリーナーとクロスが握られていた。

「昨夜、奥様が少し……感情が高ぶられたようでして。私が止められればよかったのですが」

「……君が謝る必要はない」

 宇治木は冷たく言い放ち、汚れたロボットに近づいた。

「原因はシステム(君)の不具合ではなく、外部からのバグ(妻)にある。……しかし、酷いな」

 彼は指先で触れることすら躊躇い、汚れた機体を見下ろした。

「プラスチックに染み込んだタンニンは落ちにくい。外装パネルは全交換が必要だ。……非効率極まりない」


 宇治木にとって、このロボットは単なる機械ではない。

 老朽化した社会を外科手術するための、神聖なメスだ。それを、生産性のないヒステリーで汚すなど、冒涜にも等しい行為だった。


「おはよう、政樹。朝から何ブツブツ言ってるの?」


 階段の方から、気怠げな声が降ってきた。

 妻の栄子だった。

 シルクのガウンを羽織り、髪は寝癖で乱れている。厚化粧は落とされているが、目の下のクマと弛んだ皮膚が、昨夜の深酒を物語っていた。

 彼女はリビングに入ると、あからさまに不機嫌な顔で網代を睨みつけた。

「あんた、まだいたの? 朝イチで掃除するって言ったじゃない。なんでまだその汚いゴミが置いてあるわけ?」


 栄子は、自分が汚したアイギスを「ゴミ」と呼び、それを片付けない網代を責め立てた。

 宇治木は妻の方を見ようともしない。

 彼はダイニングテーブルに座り、タブレット端末を開いた。

「栄子。座りたまえ」

 声のトーンは低い。感情の色は一切ない。

「はあ? 何よ改まって。私、頭痛いのよ。コーヒー淹れてちょうだい」

 栄子はソファにドカと座り込み、ふんぞり返った。

 網代は無言でキッチンへ向かおうとするが、宇治木が片手を上げて制した。


「必要ない。話はすぐに終わる」

 宇治木はタブレットの画面をスワイプしながら、独り言のように話し始めた。

「今朝、法務局から通知が来た。君の父親が残した『記念病院グループ』の資産管理法人だが、昨夜付で、私の会社への吸収合併登記が完了した」


 栄子の動きが止まった。

「……え? 何言ってるの? 合併って、パパの病院は私のものでしょ?」

「名義上はそうだった。だが、経営再建という名目で私が実権を握り、君には代表権のない会長職についてもらっていたはずだ。その際、君は『難しいことは任せるわ』と言って、委任状と譲渡契約書に実印を押した」

 宇治木は淡々と事実を並べる。

「複雑なスキームを使ったが、結論だけ言おう。現在、あの病院グループの土地、建物、そして医療法人としての許認可権に至るまで、すべての権利は私のものだ。君の手元にはもう、議決権の一株も残っていない」


 栄子は口を半開きにし、瞬きを繰り返した。

 状況が飲み込めていない。いや、飲み込みたくないのだろう。

「な……何よそれ。騙したの?」

「人聞きが悪いな。君は望んでいただろう? 『面倒な経営会議なんて出たくない、エステに行く時間が欲しいから、サインだけで済ませて』と。私は君の要望通り、すべての『面倒』を引き受け、資産を最適化しただけだ」


 宇治木はタブレットをテーブルに置いた。

 カタリ、と硬質な音が響く。

 彼は初めて、正面から妻を見た。その瞳は、深海のように暗く、冷たい。

「さて、本題だ」

 彼は網代の方へ視線を向けた。

「網代くん。減価償却げんかしょうきゃくという言葉を知っているか?」

「はい。固定資産の価値が、時間の経過とともに減少していくことを会計処理することです」

 網代は教科書通りの答えを返す。

「その通りだ。では、耐用年数を過ぎ、資産価値がゼロになった設備はどうする?」

「……廃棄、もしくは売却して、帳簿から除外します」


「正解だ」

 宇治木は頷き、再び栄子を見た。

「栄子。君の実家という『資産』の移転は完了した。つまり、君という『設備』の役割は終わったということだ」

「……は?」

「単刀直入に言おう。離婚届にサインをしてくれ。慰謝料は手切れ金として多少弾むが、財産分与は期待しないでほしい。私の資産はすべて海外のペーパーカンパニー名義になっている」


 リビングの空気が凍りついた。

 栄子の顔から血の気が引いていく。

 彼女は震える唇をわななかせ、立ち上がった。

「ふ……ふざけないでよ!!」

 金切り声が、高い天井に反響する。

「離婚!? 私が用済みだって言うの!? あんた、自分が誰のおかげで今の地位にいると思ってるのよ!」


 栄子はバンバンとテーブルを叩いた。

「パパの病院がなかったら、あんたなんてただの貧乏医者だったじゃない! 私が選んであげたのよ! 私があんたを『本物』にしてあげたの!」

 過去の栄光。

 彼女が唯一すがりついていた、「自分は夫の支配者である」という幻想。

 それを、宇治木は鼻で笑った。


「勘違いも甚だしいな」

 彼はハンカチで指先を拭いながら、蔑むように言った。

「私が欲しかったのは、君の父親が築いた『医療基盤』と『社会的信用』というリソースだ。君自身ではない。君はその金庫を開けるための『鍵』だったに過ぎない」

「か……鍵……?」

「そうだ。だが、鍵を開けて中身を取り出した後、錆びついた古い鍵をいつまでもポケットに入れておく馬鹿はいない」

 宇治木は栄子の顔――たるみ、シワ、厚化粧の下の老い――を指差した。

「ましてや、その鍵が勝手に喋り出し、金を浪費し、私の美学を汚すとなれば尚更だ。……君はもう、コストでしかないんだよ、栄子」


 ブチリ。

 栄子の中で、何かが切れる音がした。

 彼女の顔が、怒りでどす黒く歪む。

「殺してやる……ッ!」

 栄子はテーブルの上にあった重厚な花瓶を掴んだ。

「あんたなんか、死ねばいいのよ! この恩知らず! 泥棒! 悪魔!」

 彼女は獣のような咆哮を上げ、宇治木に襲いかかった。

 振り上げられた花瓶。

 宇治木は動じない。避ける素振りさえ見せない。

 ただ、低い声で短く命令を発した。


「アイギス。――対象をホールド」


 ウィィン!

 背後で、風を切る音がした。

 純白の影が、栄子と宇治木の間に割り込む。

 介護ロボット『アイギス』。

 その長いアームが、振り下ろされた栄子の右腕を空中で捕捉した。


 ガシッ!

 金属のマニピュレーターが、栄子の手首と前腕を鷲掴みにする。

「痛っ!?」

 栄子の動きが止まる。花瓶が床に落ち、ゴトゴトと転がった。

「な、何よこれ! 離して!」

 栄子は暴れた。必死に腕を引き抜こうとする。

 しかし、ロボットのアームは万力のように固定され、微動だにしない。


「暴れるな」

 宇治木は興味深そうに、ロボットの挙動を観察していた。

「アイギスの『抱擁機能』の応用だ。暴れる患者を優しく、かつ確実に拘束する。……はずだが」

 彼はチラリと網代を見た。

「網代くん、拘束トルクの設定はどうなっている?」


 網代は一歩下がり、無表情で答えた。

「はい。社長の指示通り、安全リミッターは解除済みです。現在は……対ショック・フルパワー設定になっています」

「ほう」

 宇治木の口元が、わずかに歪む。


 その時、ロボットの関節から、異常な高音のモーター音が鳴り始めた。

 キュイイイイイイイイイイン……!

 「優しく拘束」するはずのアームが、栄子の腕をさらに強く締め上げ始めたのだ。

 本来なら、生体を感知して停止するはずのセンサーは、網代によって切断されている。

 ロボットにとって、掴んでいるのは「人間の腕」ではなく、「圧縮すべき対象物」として処理されていた。


「い、痛い、痛い痛い痛い!!」

 栄子の悲鳴が変わった。

 ただの抗議から、本当の激痛への絶叫へ。

「折れる! 腕が折れちゃう! 政樹、止めて! 命令してよ!!」

 栄子は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして懇願した。

 さっきまでのプライドも、殺意も消え失せ、ただの「痛みに怯える動物」になっていた。


 宇治木は動かない。

 彼は栄子の悲痛な叫びをBGMに、タブレットの数値データを確認していた。

「素晴らしい。出力一〇〇%を超えても油圧系が安定している。これなら現場での『事故』も確実に起こせるな」

「やめてぇぇぇぇ!! ごめんなさい、私が悪かったからぁ!!」


「網代くん。昨日のテストで、君は『骨粗鬆症の高齢者なら三〇%で折れる』と言っていたな」

「はい」

「では、四十一歳の健康な女性なら、どのくらい耐えられると思う?」

「……データが不足していますね。検証が必要です」


 二人の会話は、実験室の研究者同士のそれだった。

 目の前で人間が泣き叫んでいるというのに、そこには一片の同情も、焦りもない。


 栄子の顔色が紫色に変わる。

 アームがさらに収縮した。


 メキメキッ。


 嫌な音がした。

 骨がきしみ、筋肉が悲鳴を上げる音。

「あ、あ、あああああああ……ッ!!」

 栄子が白目をむく。

 だが、ロボットは止まらない。プログラムされた「完了」まで、その動作を遂行するだけだ。


 バキッ。

 ボキボキッ!!


 乾いた、しかし重みのある破砕音がリビングに響き渡った。

 栄子の右手の指五本と、手首の骨が、一瞬にして砕け散った音だった。

 あらぬ方向に曲がった指先。皮膚を突き破りそうに盛り上がった手首。


「ぎゃああああああああああああああああああッ!!!!」


 鼓膜を切り裂くような絶叫。

 栄子は膝から崩れ落ち、泡を吹いて痙攣した。

 それでもロボットは離さない。ぐったりとした栄子の腕を、忠犬のように掴み続けている。


「……停止」

 宇治木が短く告げた。

 プシュウゥゥ……と排気音がして、アームの力が抜ける。

 栄子の体は、糸の切れた人形のように床に投げ出された。


 静寂が戻った。

 聞こえるのは、栄子の口から出た泡の弾ける音と、空調の音だけ。


「……汚いな」

 宇治木は、床に広がった失禁の跡を見て、眉をひそめた。

 彼は妻の容体など気にも留めず、ロボットのアームを点検し始めた。

「血液の付着なし。グリップ力も低下していない。……合格だ」

 彼は満足そうに頷くと、網代に向き直った。

「網代くん。この設定値をマスターデータとして保存しろ。量産機にはこれを標準搭載する」

「承知いたしました」

 網代は淡々とタブレットを操作する。

 彼女は床で失神している栄子を一瞥し、そして宇治木に尋ねた。


「宇治木さん。奥様……いえ、元・奥様への処置はどうなさいますか? 救急車を呼びますか?」


 宇治木は腕時計を見た。

「救急車を呼べば、警察が介入してくる可能性がある。面倒だ」

 彼は床に転がる栄子を、まるで道路に落ちたゴミを見るような目で見下ろした。

「系列の病院から、口の堅い医師を寄越させる。それまでは……地下の倉庫にでも入れておけ」

「理由はなんと?」

「『精神錯乱を起こした妻が、ロボットを破壊しようとして自らアームに手を突っ込んだ』。……事実だろう?」


 宇治木は薄く笑った。

 その笑顔には、狂気すら感じさせない、純粋な合理性だけがあった。

 彼は栄子の存在など無いかのように、自分の身支度を整え始めた。

「私はこれから役員会議だ。後の処理は任せる。……ああ、それと」

 彼は出口で振り返り、アイギスを指差した。

「その機体は交換しておくように。それの脂汗がついた。……不潔だ」


 バタン、と重厚な扉が閉まる。

 宇治木政樹は、朝の光の中へと出勤していった。

 妻の指を折り、人生を破壊した直後だというのに、彼の心拍数は一つも上がっていないだろう。


 残されたのは、網代と、壊れた栄子、そして静止したロボットだけ。

 網代はゆっくりと栄子に近づき、しゃがみ込んだ。

 僅かに目を覚ました栄子は虚ろな目で網代を見上げ、震える唇で何かを訴えようとしている。

「た……す……け……」


 網代は微笑んだ。

 それは、慈愛に満ちた聖母のような、しかし瞳の奥が凍りついた笑顔だった。

「残念でしたね、おくさ……あ、もう『奥様』じゃなくて『部外者』でしたっけ?」

 網代は栄子の曲がった指先を、わざとらしく突っついた。

「痛そう。でも、安心してください。宇治木さんはあなたを『リソース』としては見捨てましたが、実験動物としてはまだ価値があると思っているみたいですから」


 栄子が恐怖で悲鳴を上げようとするが、声にならない。

 網代は立ち上がり、スマホを取り出した。

 『栄子』のフォルダを開き、『処理済み・廃棄待ち』のタグを付ける。

 そして、赤黒く汚れたロボット・アイギスの頭を、よしよしと撫でた。


「いい子。パパの言う通りにできて偉いね」

 無機質な金属の感触。

 この冷たさこそが、この家の、そして宇治木政樹という男の本質なのだ。

 網代は満足そうに伸びをすると、栄子の呻き声をBGMに、冷めたコーヒーを一口飲んだ。

 苦い味が、最高に甘く感じられるほどに優雅な時間が流れた。

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