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狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


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第8話 プラスチックの愛人

 午後三時。

 東京・青山にある会員制美容クリニック『ヘ・ブラン』。

 白大理石を敷き詰めた個室には、肉が焦げるような微かな異臭と、冷却ジェルの冷たい匂いが漂っていた。


「――はい、照射終わりました。お疲れ様でした、宇治木様」


 白衣の医師が、業務的な声でレーザー機器のスイッチを切る。

 宇治木うじき栄子えいこは、診察台の上で荒い息を吐いていた。

 額には脂汗が滲み、施術を受けた頬が火傷のように熱い。

 彼女は震える手で鏡を掴み、自分の顔を覗き込んだ。

 赤く腫れた肌。だが、その下にあるはずの「ゆるみ」は、高出力の熱エネルギーによって無理やり引き締められている。


「……先生。これ、本当に効くのよね?」

「ええ、もちろんです。最新のHIFU(ハイフ)ですから。ダウンタイムが終われば、マイナス五歳肌は確実ですよ」


 医師は笑顔で答えるが、その目は笑っていない。栄子がこのクリニックに落とす月額百万円という「売上」だけを見ている目だ。

 栄子は鏡の中の自分を睨みつけた。

 四十一歳。

 目尻の小皺、ほうれい線の影、首元の質感。

 毎日、鏡を見るたびに新しい「劣化」が見つかる。それはまるで、自分の身体が少しずつ腐っていくような恐怖だった。


(あいつのせいよ)

 夫、宇治木政樹の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの男は、「美しくないもの」を許さない。

 彼の言う「美しさ」とは、単なる造形のことではない。機能的で、無駄がなく、清潔であること。

 つまり、「老い」は彼にとって最大の汚物なのだ。


 栄子は更衣室でブランド物のワンピースに着替えながら、分厚い化粧で赤みを隠した。

 ファンデーションを塗り重ね、厚みが出るたびに、不安も築層されていく気がした。

 夫は最近、私の顔を見ない。

 家に帰っても書斎に閉じこもり、何かパソコンの画面ばかり見ている。

 浮気だろうか。いや、あの変人な夫が生身の女に溺れるとは考えにくい。

 だとしたら、何だというのか。


 スマホが震えた。

 夫からだ。

 『今夜、部下を連れて帰宅する。新しいプロジェクトの機材搬入がある。食事の用意は不要』


 栄子の眉がつり上がった。

 「部下」?

 先日、レストランで会ったあの地味な女だろうか。

 名前は確か、網代あじろとか言ったか。

 貧相な体つきで、服のセンスも悪い、存在感のない女。


「……ふん。いいわよ」

 栄子は真っ赤なルージュを引きながら、鏡に向かって冷笑した。

「格の違いってものを、たっぷりと教えてあげるわ」

 彼女はバッグをひっつかむと、戦場へ出向くかのようにクリニックを後にした。


          *


 午後七時。

 世田谷区の閑静な住宅街に建つ、宇治木邸。

 コンクリート打ちっ放しのデザイナーズ住宅は、生活感を拒絶した美術館のような佇まいを見せている。

 ガレージに黒塗りの社用車が滑り込んだ。


 助手席から降りた網代真里は、巨大な邸宅を見上げて小さく口笛を吹くフリをした。

(へえ。維持費が高そうな家。ここもそのうち『事故物件』になるのかな)

 トランクが開けられる。

 中には、白い布で覆われた人型の物体――介護ロボット『アイギス』が積まれていた。


「何をしている。早く運びたまえ」

 後部座席から降りた宇治木が、ハンカチで鼻を覆いながら指示した。

「……私が、ですか?」

 網代はわざとらしく目を丸くする。

 総重量三十キロ近い精密機器だ。

「他に誰がいる? 私は明日、重要な会議がある。腰を痛めるわけにはいかない」

 宇治木は当然のように言い放ち、手ぶらで玄関へと向かう。


 網代はため息をつき、台車を使ってアイギスを降ろした。

(まあいいや。筋トレだと思えば)

 彼女が重い台車を押して玄関に入ると、ホールには腕組みをした栄子が待ち構えていた。

 派手なルームウェアに、ジャラジャラとしたアクセサリー。家の中だというのに、フルメイクだ。


「あら、いらっしゃい。……遅かったじゃない」

 栄子は宇治木には甘い声を出し、網代にはゴミを見るような視線を向けた。

「政樹、おかえりなさい。お風呂沸いてるわよ?」

「後だ。まずはこれをリビングに設置する」

 宇治木は妻の挨拶を無視し、網代に顎で指示した。


 リビングルームは広大だった。

 床は大理石、壁には現代アート。だが、どこか寒々しい。

 網代が部屋の中央にアイギスを運び込み、覆っていた白い布を取り払った。

 現れたのは、純白の流線型ボディを持つロボットだ。

 関節部以外に継ぎ目はなく、顔にあたる部分には黒いバイザー状のセンサーがあるのみ。

 人間のような、しかし人間ではない、無機質な美しさ。


「……何これ」

 栄子が嫌悪感を露わにした。

「新しい介護ロボットだ。自宅で動作検証を行う」

 宇治木はそう答えると、栄子の存在など忘れたかのようにアイギスに歩み寄った。

 彼はポケットから専用のクロスを取り出し、ロボットの白い肩を愛おしそうに磨き始めた。


「美しい……」

 宇治木が溜め息交じりに呟く。

「見てみたまえ、この曲線。人間の皮膚のように弛むこともなければ、シミができることもない。完璧なシンメトリーだ」


 栄子の顔が引きつった。

 彼女が無意識に自分の頬に手をやるのを、網代は見逃さなかった。

(あ、気にしちゃってる。わかりやすい)


「ちょっと、あなた」

 栄子が金切り声を上げる。

「そんな鉄くずのどこがいいのよ! 私よりその人形の方が大事だって言うの!?」

「静かにしろ」

 宇治木は振り返りもせず、冷淡に告げた。

「この機体は音声認識の学習中だ。君のヒステリックな波長は、学習データにノイズを混入させる」

「ノイズ……!? 私の声が雑音だって言うの!?」


 栄子は怒りで震え、矛先を網代に向けた。

「あんたもよ! ぼーっと突っ立ってないで、働きなさいよ!」

 彼女はテーブルの上にあった飲みかけのワイングラスを指差した。

「喉が渇いたわ。新しいワインを持ってきて。セラーにある一番手前にあるやつよ」

「えっ、あ、はい……」

 網代はペコペコと頭を下げる。

「それから、そこの床! タイヤの跡がついてるじゃない。汚い! 今すぐ拭いて!」

「申し訳ありません、すぐに……」


 網代は膝をつき、ハンカチで床を拭き始めた。

 栄子はその姿を見て、ようやく少し溜飲が下がったようだった。

「ふん。やっぱり下品な女には雑巾がけが似合うわね。……ねえ、ちょっと。あんたの手、ガサガサじゃない? ちゃんとケアしてるの?」

 栄子は網代の手元を覗き込み、嘲笑った。

「かわいそうに。いいハンドクリーム恵んであげましょうか? 使いかけだけど」


 網代は床を拭きながら、顔を上げた。

 その表情は、怯える小動物のように頼りなげだった。

「ありがとうございます、奥様……。奥様のような美しい方にお気遣いいただけるなんて、光栄です」


 (死ねばいいのに)

 網代は心の中で、毒を吐き捨てた。

 この女の指、一本ずつ逆にへし折ったら、どんな顔をするだろう。

 きっと、その厚化粧が涙と鼻水でドロドロに溶けて、最高に「人間らしい」顔を見せてくれるに違いない。

 網代の瞳の奥に、暗い愉悦の炎が揺らめいた。


          *


 数十分後。

 宇治木は「風呂に入ってくる。その間、ロボットのトラッキング(追従)テストを起動しておけ」と言い残し、バスルームへと消えた。

 広いリビングには、栄子と網代、そして直立不動のアイギスだけが残された。


「ところで、奥様と宇治木さんの出会いとかお伺いしても…」

 網代は宇治木の弱みを少しでも収集しておきたかった。

 栄子はワイングラスを揺らしながら、酔いの回った声で語り出した。

「えっ? まぁいいわ。あの人、昔はただの貧乏な外科医だったのよ。私の父が理事長を務める病院に入り込んで、私に必死にアプローチしてきたの。私が選んであげたから、彼は今の地位を手に入れられたのよ」

 ふふん、と鼻で笑う。過去の栄光にしがみつく、哀れなプライド。

「だから政樹は私に頭が上がらないはずなの。この家の名義だって、元を正せば私の実家の資産なんだから」


 網代は床を拭く手を止めず、「まあ、それは素晴らしい内助の功ですね」と調子のいい相槌を打つ。

 だが、心の中では冷ややかに舌を出していた。

(……つまり、もう『実家の資産』は吸い尽くされたってことじゃない。権利関係が全部宇治木に移転した時点で、あんたの役目は終わってるんだよ、おばさん)


 栄子は気づかない。自分がすでに「資産の持ち主」ではなく、ただの「償却済みの備品」に成り下がっていることに。

「だから、あんな鉄くずごときに私が負けるわけないのよ」

 栄子は空になったグラスをテーブルに叩きつけ、千鳥足で立ち上がった。


 網代はノートパソコンを操作し、アイギスの設定を変更する。

 『視線追従モード:ON』

 『対象認識:動体全て』


 ウィィィン……。

 微かな駆動音と共に、アイギスの首が動いた。

 黒いバイザーが、ソファにふんぞり返ってワインを飲んでいる栄子を捉える。


「……何よ」

 栄子が不快そうに眉をひそめた。

 彼女がグラスを置こうと腕を動かすと、アイギスの顔もそれに合わせてスッと動く。

 栄子が足を組み替えると、またウィィィと首が回る。


「ちょっと! 何なのこいつ、気持ち悪い!」

 栄子が叫んだ。

 網代はキーボードを叩く手を止めずに答える。

「申し訳ありません。センサーのテスト中でして……動くものを自動で目で追う仕様なんです」

「止めなさいよ! ジロジロ見られて、気分悪いわ!」

「でも、宇治木さんの指示ですので……途中で切ると怒られてしまいます」


 栄子は舌打ちをし、ワインを煽った。

 酔いが回ってきたのか、彼女の目つきが据わり始める。

 彼女は立ち上がり、ゆらりとアイギスに近づいた。

 ロボットの身長は一七〇センチ。ハイヒールを履いた栄子とほぼ同じ高さだ。

 栄子はその純白のボディを睨みつけた。


 何なのよ、これ。

 ツルツルで、ピカピカで。

 私がお金をかけて、痛い思いをして手に入れようとしている「若さ」を、こいつは最初から持っている。

 夫は私には指一本触れないくせに、こいつの体はあんなに優しく撫で回していた。


「……あんたなんか、ただの機械のくせに」

 栄子は呟いた。

 アイギスの顔が、至近距離で栄子を見つめ返している。

 その黒いバイザーの奥に、自分を嘲笑う目があるような気がした。

 『おばさん。あんたの負けよ』

 そんな幻聴すら聞こえてくる。


「何見てんのよ……こっち見んなッ!!」


 パシャッ。


 栄子は手にしたワイングラスの中身を、アイギスの顔面にぶちまけた。

 赤黒い液体が、純白の顔から胸元へと滴り落ちる。

 まるで、血を浴びたように。


「あ……」

 網代が小さく声を上げた。

 だが、栄子の暴走は止まらない。

「壊れろ! 壊れちゃえばいいのよこんなガラクタ!」

 ドガッ!

 栄子は鋭いピンヒールで、アイギスのすねの部分を蹴り上げた。

 硬質な音。

 白い塗装が剥げ、黒い擦り傷が刻まれる。


 アイギスは無反応だった。

 ワインを浴び、蹴られても、ただ静かに栄子を見つめ続けている。

 その沈黙が、逆に栄子の恐怖を煽った。

「な、何よその目……! 私が怖いとでも思ってんの!?」


 彼女はもう一度蹴ろうとして、よろめいた。

 息を切らし、乱れた髪で立ち尽くす栄子。

 その姿は、あまりにも醜く、そして哀れだった。


 網代はPCの画面越しに、その光景を冷静に観察していた。

 止めなかった。

 止める義理もなかったし、何より、これは貴重な「実験データ」だ。

 『入力:理不尽な攻撃』

 『対象:所有者の妻』

 『破損状況:外装の汚染、および下肢パーツへの打撃痕』


 網代はゆっくりと立ち上がり、栄子に近づいた。

 ポケットからハンカチを取り出し、アイギス……ではなく、栄子の濡れた手を拭おうとする。

「奥様、大丈夫ですか? お召し物が……」

「触らないでよ!」

 栄子は網代の手を振り払った。

 我に返ったのか、彼女は赤く染まったロボットを見て、青ざめた。

「こ、これ……どうしよう……政樹にバレたら……」

 彼女は夫の潔癖さと、物に対する執着の強さを知っている。

 特にこのロボットは、彼のお気に入りだ。


 網代は、困ったような顔を作って首を傾げた。

「……ワインのシミは、プラスチックに染み込むと落ちにくいですね。傷も深いです」

「ど、どうにかしなさいよ! あんた部下でしょ!?」

 栄子が縋るように叫ぶ。

 網代は少し考え込むフリをしてから、悪魔的な提案をした。


「……わかりました。私がなんとか隠しておきます」

「ほ、本当?」

「はい。今はとりあえず布をかけておけば、社長も気づかないと思います。明日の朝、私が早めに来て、特殊な溶剤でクリーニングしますから」

「そう……! そうよね、あんたがやっときなさいよ!」


 栄子は安堵のため息をつき、すぐに傲慢な態度に戻った。

「いいこと? 絶対に政樹には言うんじゃないわよ。言ったらあんた、タダじゃおかないから」

「はい、もちろんです。……二人だけの秘密ですね」

 網代は口元に人差し指を当て、微笑んだ。


 もちろん、隠すつもりなど毛頭ない。

 むしろ、このまま一晩放置して、ワインのシミを定着させるつもりだ。

 宇治木が見たらどう思うだろう。

 彼の愛する「潔白な理想」が、妻の嫉妬という「汚らわしい感情」で汚された姿を。

 それは間違いなく、栄子への死刑判決となるはずだ。


 網代は素早くアイギスに布をかけ、その惨状を隠した。

 布の下で、アイギスのカメラアイだけが、赤く濡れたまま静かに光っていた。


          *


 午後九時。

 網代は宇治木邸を後にした。

 夜風が心地よい。

 彼女はスマホを取り出し、今日の日報――という名の「破壊工作ログ」を入力した。


 『ターゲット:栄子。ヘイト蓄積率120%。自滅行動を確認』

 『ロボットの状態:汚染・損傷あり。宇治木の敵意をさらに誘発するのに十分な仕上がり』


 歩きながら、彼女はクスクスと笑った。

 今日の栄子は最高だった。

 自分の老いに怯え、動かない人形に嫉妬し、八つ当たりをして自らの首を絞める。

 欠陥のある人間って、どうしてあんなに愚かで、こっけいのだろう。


 網代は振り返り、闇に浮かぶ宇治木邸を見上げた。

 あの中で今夜、何が起きるかは知らない。

 だが、明日の朝にはきっと、面白いことが起きているはずだ。


 彼女は軽やかなステップで駅へと向かった。

 その背後で、月が冷ややかに街を照らしていた。

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