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狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


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第6話 新しいパートナー

 月曜日の朝。

 都心の高層ビルに入る「ライフ・アシスト・ロボティクス株式会社」。その北側の奥まったエリアにある品質管理課のオフィスは、墓場のように静まり返っていた。

 先週までこの場所を支配していた怒号――葉世はせ友和の濁った声はもう聞こえない。

 代わりにフロアを満たしているのは、空調の低い唸り音と、生き残った社員たちが恐る恐る叩くキーボードの打鍵音だけだった。

 白い壁。白いデスク。白い天井。

 主を失った課長の席だけが、ぽっかりと黒い穴が開いたように空席となっている。

 社員たちは時折、その空席に視線を走らせては、安堵と不安が入り混じったような顔を見合わせていた。暴君は去った。だが、次に何が来るのかは誰にも知らされていない。


 午前十時ジャスト。

 エレベーターホールの方角から、硬質な足音が響いてきた。

 カツ、カツ、カツ。

 一定のリズムを刻む革靴の音。迷いも、急ぐ様子もない。メトロノームのように正確な歩調が近づいてくる。

 社員たちの手が止まる。

 自動ドアが滑るように開いた。


 そこに立っていたのは、一人の男だった。

 年齢は四十代半ば。仕立ての良いダークネイビーのスーツを隙なく着こなし、髪は一筋の乱れもなく後ろに撫で付けられている。

 顔立ちは整っていた。彫りが深く、知的だが、皮膚の下に温かい血が流れていることを感じさせない、蝋細工のような冷たさがある。

 男は入り口で足を止め、ゆっくりとフロア全体を見回した。

 その視線が、社員一人一人の上を滑っていく。

 挨拶はない。

 まるで倉庫に並んだ在庫の数を数えるような、無機質な目つきだった。


 男は懐から純白のハンカチを取り出すと、口元を軽く押さえた。

 眉間にわずかな皺が寄る。

 室内の澱んだ空気ともいうべきだろうか、この部署に染み付いた「敗北」の匂いを嫌悪するかのような仕草だった。

 彼はハンカチをしまうと、部屋の中央にある空席のデスクへと歩を進めた。

 デスクの天板に、指先を這わせる。

 スッ。

 指の腹を確認する。わずかに埃がついている。

 男はそれを拭おうともせず、親指と人差指をこすり合わせ、埃の感触を確かめるようにしてから、自分を注目していた社員へ向けて静かな声を発した。


「……株式会社フューチャー・ケア・ストラテジー、代表の宇治木うじきだ」


 よく通る、バリトンボイスだった。

 葉世のように怒鳴っているわけではない。ボリュームはむしろ小さい。だが、その声はオフィスの隅々まで低温の波紋のように広がった。

「社長より、この部署の経営再建を依頼された。今日から私が指揮を執る」


 社員たちが一斉に立ち上がり、「よろしくお願いします」と頭を下げる。

 宇治木は反応しない。

 彼は立ったまま、デスクの上に無造作に置かれていた書類の山――葉世が残していった未決裁の案件――を手に取り、パラパラとめくった。

 数秒後。彼はその書類をゴミ箱の上に持っていき、指を離した。

 ドサッ。

 分厚いファイルが落下する音が、静寂に響く。


「社長からのオーダーはシンプルだ」

 宇治木は社員を見ずに言った。

「『赤字部門の止血』。手段は問わない。『不良在庫』と『無駄なコスト』を徹底的に排除し、数字を綺麗にすること。……以上だ」


 フロアに戦慄が走る。

 「不良在庫」とは売れ残ったロボットのことか。「コスト」とは自分たちのことか。

 誰もが身を縮こまらせる中、宇治木の視線が一人の女性社員に向けられた。


「君か」

 宇治木が指差したのは、フロアの端で小さくなっていた網代あじろ真里だった。

「前任の課長による不正を告発し、この浄化のきっかけを作ったというのは」


 網代はビクリと肩を震わせた。

 彼女はおずおずと立ち上がり、両手を前で組んで深々と頭を下げる。

「あ、あの……はい。網代と申します……」

 か細い声。伏し目がちな視線。

 誰もが同情を禁じ得ない、「傷ついた被害者」の姿がそこにあった。


「話がある」

 宇治木は短く告げた。

「別室へ来たまえ。……ああ、それと」

 彼は顎で部屋の隅をしゃくった。そこには、開発中の介護ロボット『アイギス』の試作アームが置かれている。

「それも持ってきなさい。現状のスペックを確認したい」


「は、はい……ただいま」

 網代は慌ててデスクを離れ、重たいアームユニットを抱え上げた。

 よろめきながら後をついていく彼女の背中を、同僚たちは心配そうに見送っている。

 宇治木は一度も振り返ることなく、迷路のような廊下の奥にある、窓のない第3会議室へと入っていった。


          *


 第3会議室。

 四方を白い壁に囲まれた密室には、長机とパイプ椅子、そしてホワイトボードだけがある。

 換気扇の回る音が、ブーンと低く唸っていた。


 宇治木は上座の椅子に深く腰掛け、足を組んでいる。

 テーブルの上には、彼が持ち込んだ高級ミネラルウォーターのボトルと、最新のタブレット端末。

 対する網代は、下座に座ることを許されず、直立していた。

 彼女の前の机上には、先ほど運んできたロボットアームが置かれている。無骨な金属の塊からは、微かに機械油の匂いが漂っていた。


 網代はうつむいている。

 両手の指先を不安そうに絡ませ、時折、上目遣いに宇治木の表情を伺う。

 宇治木はタブレットの画面を指で弾きながら、独り言のように話し始めた。


「報告書を読ませてもらった。……葉世友和。前時代的な精神論者であり、保身のためにデータを改ざんし、部下に罪を擦り付けようとした愚か者。そして君は、それに耐えかねて勇気ある告発を行った、悲劇のヒロイン」

 宇治木は顔を上げ、氷のような瞳で網代を射抜いた。

「美しいストーリーだ。三流ドラマの脚本なら採用されただろう」


 網代の指がピクリと動く。

「……どういう、意味でしょうか。私は事実を……」

「数字が合わない」

 宇治木が言葉を被せる。

「君が提出した『葉世が隠蔽したとされるデータ』と、サーバーに残っているアクセスログのタイムスタンプ。不整合がある。さらに言えば、葉世のPCから削除されたはずのオリジナルの検証データが、なぜか物理的に抹消されず、バックアップ領域の深層に断片として残っていた」


 宇治木はタブレットをテーブルに放り投げた。

 カシャン、と乾いた音がする。

「葉世は無能だが、そこまで杜撰ずさんではない。逆に、君のような一般社員がアクセスできない領域に痕跡がある。……つまり、誰かが『意図的に』葉世を犯人に仕立て上げ、その過程で少し手を抜いたということだ」


 沈黙が落ちた。

 網代は唇を噛み、さらに深く俯いた。

 震えているように見える。恐怖か、それとも動揺か。

「……わかりません」

 絞り出すような声。

「私は……ただ、怖くて……会社のために、正しいことをしようと……」


「謙遜は美徳ではない」

 宇治木は冷たく言い放つ。

「社長は私に『膿を出せ』と言った。組織を腐らせる膿をだ。君はどちらだ? 膿か? それとも腐敗部を切り取るメスになれるのか?」


「私は……」

 網代が言葉を詰まらせる。

 宇治木はため息をつき、立ち上がった。

 彼は机上のロボットアームに近づく。

 むき出しになった油圧シリンダー。関節部分には、黒いグリスがべっとりと塗られている。

 宇治木は躊躇なく、その油まみれのパーツを素手で掴んだ。


 高級なスーツの袖口が汚れかねない距離。

 だが、彼は気に留める様子もない。

 指先に黒い油が付着する。彼はその汚れた手でアームを強引に動かし、駆動音を確かめた。

 ガシュッ、ガシュッ。

 金属が擦れる音が響く。


「このロボット、『アイギス』の設計思想は悪くない」

 宇治木はアームを撫で回しながら言った。

「だが、安全装置が多すぎる。接触センサー、感圧センサー、速度リミッター……これでは製造コストがかさむ上に、動作が遅い」

「……でも」

 網代が顔を上げた。

 その表情には、まだ困惑が張り付いている。

「安全第一ですから……。介護される高齢者の方々を守るために、必要な機能だと聞いています」


 宇治木の手が止まった。

 彼はゆっくりと首を回し、網代を見た。

「守る? なぜだ?」


「……はい?」


「なぜ、守る必要がある?」

 宇治木は純粋な疑問を口にするかのように問うた。

「生産性のない人間を。すでに社会への貢献を終え、若者のリソースを食いつぶすだけの存在を。なぜ、コストをかけてまで『絶対にケガをしないように』守らなければならない?」


 網代の呼吸が一瞬止まる。

 彼女は目を見開き、宇治木を見つめ返した。

 それは、常識外れの言葉を聞いた驚きとも、理解不能な言語を聞いた戸惑いとも取れる反応だった。


「社長は『赤字を減らせ』と言った」

 宇治木は油のついた指をこすり合わせ、黒いシミを広げながら続ける。

「私はその言葉を拡大解釈することにした。介護事業における赤字の根本原因は何か。ロボットの故障率か? 人件費か? 違う」

 彼は一歩、網代に近づく。

「『需要側』が減らないことだ。要介護者が増え続け、彼らが死なないことこそが、国の医療費を圧迫し、ひいては我が社の古い機械をメンテナンスし続けるビジネスモデルを歪めている」


 換気扇の音だけが響く。

 網代は後ずさりをしなかった。

 先ほどまで小刻みに震えていた肩が、今はピタリと止まっている。


「……つまり」

 網代の声から、媚びるような響きが消え始めていた。

「ロボットの耐久性を下げて、買い替えサイクルを早めるということですか?」


「君は視野が狭いな」

 宇治木は鼻で笑った。

「買い替えさせるのはロボットではない。『利用者ユーザー』の方だ」


 彼はデスクに戻り、油で汚れたままの手で、ミネラルウォーターのキャップを捻った。

 パキッ。

 新品のボトルが開く。

 彼はボトルの口に直接唇をつけ、水をあおった。

 ボトルの表面に、黒い指紋がべったりと残る。


 その光景を見た瞬間。

 網代の眉が、わずかに、本当にわずかにひそめられた。

 彼女の視線は、宇治木の思想の是非ではなく、ボトルの表面についた「黒い指紋」に釘付けになっていた。


「……汚いか?」

 宇治木がボトルを下ろし、網代の視線に気づいて問う。

「……いえ」

 網代は即答した。声は平坦だ。

「君は、手を汚すのを嫌うタイプのようだな。先ほどから指先を隠している」

 宇治木は自分の汚れた手を見つめ、握りしめた。

「私は合理主義者だ。部屋の空気が澱んでいるのは不快だが、目的遂行のために泥をかぶることは厭わない。結果が出るなら泥水でも啜る。それがビジネスであり、改革だ」


 宇治木は濡れた唇を拭うこともなく、核心を突きつけた。

「葉世が恐れていたデータがあるだろう。『抱擁ハグ時の圧迫事故』に関するエラーログだ」

 網代の目が動く。

「あれを、仕様に戻せ」


 宇治木の口調は、明日の天気の話をするように淡々としていた。

「センサー感度を下げ、締め付けのトルク上限を解放する。発生確率は……そうだな、0・1%程度に抑えつつ、発動した際には確実に『肋骨を三本以上折る』出力に調整しろ」


 網代は瞬きもしない。

 直立不動のまま、宇治木を見つめている。

「高齢者の骨は脆い。肋骨が折れれば、肺炎を併発する可能性が高い。さらに内臓損傷。……致命傷だ」

 宇治木は両手を広げた。

「自然な形で数が減れば、国の代謝も良くなる。これこそが真の社会貢献だ。この国の未来を、我々がデザインするのだよ」


 宇治木は沈黙した。

 相手の反応を待っている。

 普通の人間なら、ここで悲鳴を上げて部屋を飛び出すか、警察に通報するか恐怖で腰を抜かすだろう。


 網代真里は、ゆっくりと動いた。

 彼女はスカートのポケットから、携帯用の除菌ウェットティッシュを取り出した。

 一枚引き抜く。

 そして、宇治木の前へと歩み出る。


 彼女はロボットアームの前で、それに目を落とした。

 宇治木が素手で触れ、黒い指紋を残したシリンダー部分。

 彼女はそこを、ウェットティッシュで丁寧に拭き始めた。

 キュッ、キュッ。

 プラスチックと繊維が擦れる音が、静寂な部屋に異様に響く。

 執拗に。

 完全に油汚れが落ち、元の純白に戻るまで。


 宇治木はその様子を、眉一つ動かさずに見下ろしている。

 やがて、網代は黒く汚れたティッシュを丸めると、立ち上がった。

 顔を上げる。


「……0・1%では、少なすぎます」


 その声には、震えも、恐怖も、一切含まれていなかった。

 あるのは、温度のない冷徹な分析官の響きだけ。

「それでは統計上の誤差として処理されてしまい、製品回収リコールのリスクだけが残ります。『偶発的な事故』と『製品寿命』の境界線上で、最も効率よく回転させる必要があると考えます」


 網代は汚れたティッシュを、宇治木の足元にあるゴミ箱へ、バスケットボールのシュートのように放り込んだ。

 そして、宇治木に向き直る。

 彼女の唇が、ゆっくりと歪んだ。

 口角がきれいに持ち上がり、歯が見える。目は三日月のように細められている。

 非の打ち所がない、あどけない笑顔。

 しかし、その瞳の奥には光が灯っていない。ガラス玉のような虚無が、宇治木の狂気を鏡のように反射しているだけだった。


「やるなら、0・8%まで上げましょう。それなら年間で計算した時、目標とする『在庫処分数』に届きます」


 宇治木の顔に、初めて感情の色が浮かんだ。

 彼は口の端を吊り上げ、ニヤリと笑った。

 それは共感の笑みではない。凶器の切れ味を確認した時の、満足げな笑みだった。


「……君、今すぐ私の下に就きなさい。そして、名前をもう一度聞かせてくれ」

「網代です。網代真里」

 彼女はスカートの裾をつまみ、優雅なお辞儀をしてみせた。


「在庫処分のお手伝い、喜んでお引き受けします。……ボス」


 宇治木は満足げに頷くと、再び油のついた手でタブレットを操作し始めた。

 網代はその指先を一瞥し、心の中で「次はあの画面も消毒しなきゃ」と舌打ちをした。

 白い会議室の中で、二つの狂気が音もなく噛み合った。


 廊下からは、何も知らぬ社員たちの話し声が微かに聞こえてくる。

 この会社が、たった今、「介護機器メーカー」から「処刑装置メーカー」へと生まれ変わったことを、まだ誰も知らない。

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