第5話 無人の玉座
午前十時。役員会議室。
重厚なマホガニーのテーブルを囲む空気は、鉛のように重く淀んでいた。
葉世友和は、パイプ椅子に座らされ、正面に並ぶ役員たちの冷ややかな視線に晒されていた。
まるで、公開処刑台だ。彼は胃の奥が焼けるような痛みを感じながら、ポケットの中の胃薬の包みを強く握りしめていた。
「――以上が、調査委員会による報告です」
人事部長が、氷のような声で読み上げる。
「磯野拓海が起こしたデータ持ち出し未遂および不正アクセス事件。実行犯は彼ですが、その動機形成には、葉世課長による日頃の過度な叱責、いわゆるパワーハラスメントが大きく影響していたと判断せざるを得ません」
スクリーンに投影されるのは、切り取られた「証拠」の数々だった。
網代真里が提出したというボイスレコーダーの音声データ。
『お前は歩く『不具合』かッ! これ以上俺の仕事を増やすな!』
『お前のデータは信用できない。全部やり直しだ!』
葉世の怒鳴り声だけが抽出され、前後の文脈――部下のミスや、データの不整合を指摘していた事実――は綺麗に削ぎ落とされていた。
さらに、営業部の高木をはじめとする数名の社員の証言。
『葉世課長はいつも網代さんをターゲットにして怒鳴っていました』
『網代さんが泣きながら土下座させられているのを見ました』
「磯野拓海は、精神的に追い詰められた網代真里を守ろうとし、歪んだ正義感を暴走させた。……この騒動の根源は、管理監督者であるあなたのマネジメント不全にあります」
人事部長が眼鏡の位置を直し、決定事項を告げる。
「会社としては、コンプライアンスの観点からこれを看過できません。葉世友和、本日付けで無期限の『懲戒休職』を命じます」
懲戒休職。
事実上の、追放宣告だった。
葉世は反論しなかった。いや、できなかった。
何を言っても「言い訳」と取られる空気が完成していたし、何より、磯野拓海という若者が人生を棒に振るのを止められなかったのは事実だ。
彼は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声は枯れ、絶望に満ちていた。
*
正午。
葉世はデスクの荷物を段ボール箱に詰めていた。
周囲の社員たちは、腫れ物に触るように遠巻きに彼を見て、軽蔑の眼差しを隠そうともしない。
デスクの引き出しの奥。
書類の束の下から、一枚の古びた写真が出てきた。
葉世の手が止まる。
二十年前の写真だ。
写っているのは、まだ二十代の葉世。作業着は油まみれで、髪もボサボサだが、その笑顔は太陽のように輝いている。
隣には、無骨な鉄の塊――介護ロボットの初号機『LA―01』があった。
(……俺は、何をしたかったんだっけな)
葉世は写真の端を指でなぞった。
入社した時の志は、確かにあった。
『少子高齢化で、介護現場は地獄になる。人間が人間を支えきれなくなる日が来る』
『だから、人の温もりを持ったロボットを作るんだ。痛くない、怖くない、天使のような機械の手を』
そう語り合い、徹夜で設計を手伝った日々。
しかし、いつの間にか彼は変わってしまった。
会社が大きくなり、利益至上主義に染まる中で、彼の仕事は「夢を語ること」から「予期せぬ問題に追わ続ける日々」へと変貌した。
納期に間に合わせるための徹夜のデータ取り。コストカットによる安全性の見直し。
それらと対峙し、部下のミスが重なり余計な仕事が増え、自分は胃薬を飲みながら心身を削って走り続ける。
「……情けないな」
葉世は自嘲気味に呟いた。
拓海を守れず、あんな小娘一人に怯え、最後はこうして尻尾を巻いて逃げ出す。
俺は、あの頃の俺に顔向けできるのか。
胃に鋭い痛みが走る。
彼は内ポケットから、いつもの白い粉薬を取り出した。水を用意する気力もなく、乾いた口の中に直接放り込む。
苦い粉が喉に張り付く。それを無理やり唾液で飲み下した。
*
同時刻。社員食堂。
網代真里は、同期の高木とランチをとっていた。
今日のメニューは彩り野菜のパスタ。網代はフォークでパスタを巻き取りながら、沈痛な面持ちを作っていた。
「……葉世課長、今日でいなくなっちゃうんだね」
網代がポツリと言うと、向かいの高木が鼻息荒く言った。
「当たり前だよ! 自業自得だって。あんなパワハラ親父、もっと早く消えるべきだったのよ」
高木は自分のことのように勝ち誇っている。
「真里ちゃんが勇気を出して録音してたおかげだよ。本当によかった……これで平和になるね」
「うん……ありがとう、えりちゃん。えりちゃんが証言してくれたおかげだよ」
網代は弱々しく微笑み、高木の手を握った。
「もちろんだよ! 私たちは同期でしょ? 困った時はお互い様だし!」
高木が握り返してくる。その手は熱く、少し湿っていた。
網代の脳内で、冷徹なアラートが鳴る。
(うわ、熱っ。キモい。早く離せよ)
表面上は聖女のような微笑みを維持しながら、内心では高木の存在を疎ましく感じ始めていた。
(声が無駄にデカいし、周波数がいちいち癪に障る。正義中毒の馬鹿って、なんでこう距離感がバグってるの?)
「あ、そうだ真里ちゃん! 今度のお休み、お祝いにパーッと飲みに行こうよ! いい店知ってるんだ!」
高木が身を乗り出してくる。
(うざ。誰があんたとプライベートで会うかよ。時間の無駄)
網代は一瞬、次のターゲットを高木にしようかと思案した。
こいつを社会的に抹殺するのは簡単だ。少しおだてて、会社の機密情報を漏らさせればいい。それに加えてこいつ自身が毛嫌いしている、社内不倫の噂を流すか。
網代の瞳の奥で、破滅作業の手順書がめくられていることに、高木は気づいていない。
しかし、網代はすぐに思い直した。
(いや、まだ使えるか。このスピーカー機能は便利だし、私の『良き理解者』という防波堤としても優秀だもんね)
網代は殺意を笑顔でコーティングし、小首を傾げた。
「えー、行きたい! 楽しみにしてるね」
「やった! お店予約しとくね!」
高木がスマホを取り出して店を探し始めた隙に、網代はテーブルの下でウェットティッシュを取り出し、高木に触れられた手を念入りに拭いた。
*
午後一時。
葉世は段ボール箱を抱え、エレベーターホールへと向かっていた。
人気のない廊下。
ふと、突き当たりの窓辺に人影が見えた。
網代真里だった。
彼女は窓の外の景色を眺めているようで、ガラスに映る自分の顔を見つめていた。
葉世は足を止め、柱の陰からその様子を伺った。
声をかけようとしたわけではない。ただ、最後に彼女の「正体」を見極めたかったのかもしれない。
網代は、誰も見ていないと思っているのだろう。
彼女はガラスに向かって、顔の筋肉を動かしていた。
眉尻を下げ、口角を少し引き結ぶ。瞳を潤ませる。
完璧な「悲しみに耐える健気なヒロイン」の表情。
数秒キープ。
そして。
――スンッ。
音が聞こえてきそうなほどの速度で、彼女の表情が消えた。
悲しみも、慈愛も、何もない。
ただの筋肉の弛緩。能面のような「無」に戻る。
まるで、鏡の前で起動テストをするアンドロイドだ。
彼女は首を少し傾げ、もう一度表情を作る。今度は「困り顔」。
そしてまた、スンッ、と真顔に戻る。
あくびを一つ。
「……!」
葉世の背筋に、冷たいものが走った。
あれは、人間ではない。
人間の皮を被った、バグだらけのプログラムだ。
感情があるフリをして、周囲の人間をエミュレートし、操作しているだけの怪物。
拓海があそこまで狂わされた理由が、ようやく腑に落ちた気がした。あんなものに見つめられたら、心の弱い人間などひとたまりもない。
葉世が後ずさりした時、床が小さく鳴った。
網代が振り返る。
その瞬間、彼女の顔には既に「上司の退職を悲しむ部下」のマスクが装着されていた。
「あ……課長」
網代が駆け寄ってくる。
「もう、行かれるんですね……」
その声は震え、瞳には涙が溜まっている。さっきのリハーサル通りの、完璧な出力。
「本当に、申し訳ありませんでした。私のせいで……私がもっとしっかりしていれば……」
廊下の向こうから、数人の社員がこちらを見ている。
彼らの目には、パワハラ上司に最後まで謝罪する健気な部下の姿しか映っていないだろう。
葉世は段ボール箱を抱え直した。
もう、何を言っても無駄だ。だが、これだけは聞いておきたかった。
「……網代」
葉世は声を潜め、彼女の目を見据えた。
「お前の目的は、何だ」
「え?」
網代がキョトンとする。
「拓海を唆したのはお前だろう? 俺を追い出すために、あいつを利用したのか?」
数秒の沈黙。
網代は瞬きもしない。
やがて、彼女の唇が、花が綻ぶようにゆっくりと歪んだ。
涙を浮かべたまま。声色も悲しげなまま。
けれど、その瞳の奥にある光だけが、プツリと消灯した。
「さあ? ……ただ」
彼女は葉世の胸元にある、剥奪された社員証の跡を見た。
「あなたがそこに座っているのが、邪魔だっただけです」
それだけ。
恨みがあったわけでも、大きな野望があったわけでもない。
ただ、自分の遊び場の模様替えをするのに、古いおもちゃ(葉世)が邪魔だったから捨てた。
それだけの理由で、彼女は二人の人間の人生を破壊したのだ。
葉世は恐怖と怒りで、奥歯が砕けるほど噛み締めた。
殴り飛ばしてやりたい。その仮面を剥ぎ取ってやりたい。
だが、ここで手を出せば、それこそ彼女のシナリオ通りだ。
葉世は震える息を吐き出し、何も言わずに踵を返した。
背中で感じる彼女の視線は、爬虫類のように冷たく、粘り着くようだった。
*
懲戒休職を命じられ、荷物を抱えて帰宅した葉世友和のアパートは、昼間だというのにカーテンが閉め切られ、薄暗い水槽のような静けさに満ちていた。
彼はネクタイを緩める気力もなく、万年床の端に座り込んでいた。
手元には、会社から持ち帰った段ボール箱。
その中から、一冊の分厚いファイルを取り出す。表紙には『LAシリーズ 基礎設計構造』と手書きされている。
「……何やってんだかな、俺は」
葉世は自嘲気味に呟き、ページをめくった。
そこには、複雑な回路図や油圧系統の図面がびっしりと描かれている。だが、その余白には、赤ペンで『※ここが重要!』『※パスカルの原理、復習すること』といった、初歩的なメモが大量に書き込まれていた。
葉世は、根っからのエンジニアではない。大学は法学部を出た、生粋の文系人間だ。
入社当時は総務畑にいた。「ロボットのことは専門家に任せておけばいい」と、数字と契約書だけを見ていた時期もあった。
だが、品質管理課に配属された日、彼は悟ったのだ。
『守るべき安全ルール』を徹底させるには、作り手であるエンジニアと対等に渡り合えるだけの知識がなければ、ただの「口うるさい事務屋」として軽んじられるだけだと。
それからの十年間は、孤独な勉強の日々だった。
本棚には、『キカイのしくみ』という子供向けの図鑑から、『流体力学』『制御工学概論』といった専門書までが、背表紙が擦り切れるほど読み込まれて並んでいる。
毎晩、胃薬を片手に数式と格闘した。
文系の頭では理解できない理論を、ノートに百回書き写して体に叩き込んだ。
すべては、あの白いロボットが、誰かを傷つける凶器にならないように見張るためだった。
「……なのに、結局これだ」
葉世はファイルを閉じた。
自分が積み上げてきた知識も、安全へのこだわりも、網代真里という悪意と、会社の利益至上主義の前では無力だった。
彼は内ポケットから胃薬を取り出し、いつものように水なしで飲み込んだ。苦い粉が、喉の奥でざらりと溶ける。
視線が、部屋の隅にあるパソコンに向いた。
画面は暗いままだ。
もう、会社のサーバーに正規にアクセスする権限はない。
だが、彼の頭の中には、十年間かけて叩き込んだ『アイギス』の設計図が、神経回路のように焼き付いている。
網代は安全装置をないがしろにしている。
文系の葉世でもわかる。それは、ロボットの「脳」を焼き切り、暴走を誘発する時限爆弾を作るのと同じことだ。
(……あいつは、機械を物としか見ていない)
葉世はふらりと立ち上がり、本棚から『電気通信術』と書かれた古い参考書を抜き出した。
エンジニアとしての才能はない。センスもない。
だが、「仕様書の穴」を見つけることにかけては、誰くよりも執念深い。
「……確認だけだ」
彼は自分に言い聞かせるように呟き、パソコンの電源を入れた。
何かを破壊するつもりはない。まだ、そんな大それたことは考えていない。
ただ、自分が愛し、守ろうとしたロボットが、これからどう汚されていくのか。
その構造的欠陥を、文系屋の意地にかけて解き明かしたかった。
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響き始める。
それは、敗北した男の終わりの合図ではなく、反撃のための静かな助走音だった。
*
午後二時。
葉世が去った後の品質管理課。
主を失った課長のデスクが、ぽっかりと空いている。
網代真里は、周囲に誰もいないのを確認すると、その革張りの椅子に腰を下ろした。
深くもたれかかる。
座面を蹴り、クルリと一回転してみる。
「……ふふ」
悪くない座り心地だ。
彼女はデスクの引き出しを開けた。そこには、葉世が最後まで大切に保管していた『製品安全管理マニュアル』や『倫理規定』といった分厚いファイルが残されていた。
網代はそれらを取り出し、迷うことなく足元のゴミ箱へ放り込んだ。
ドサッ。
重い音が響く。それは、この部署における「良心」が廃棄された音だった。
「あーあ、やっと清掃完了。埃っぽいオジサンがいなくなってスッキリした」
網代は伸びをした。
これで、この部署は私のものだ。
誰にも邪魔されず、好きなようにデータをいじり、好きなように人間を配置できる。
最高のゲーム盤が整った。
ふと、デスクの隅に置かれた一枚の書類に目が留まる。
葉世が引き継ぎ資料として残していったものだろう。
『経営改革プロジェクト 業務改善に関する資料』
そこに添付された名刺。
【株式会社フューチャー・ケア・ストラテジー 代表取締役 宇治木政樹】
「ウジキ……マサキ?」
聞いたことのある名前だ。
業界では有名な、「冷徹な合理主義者」と呼ばれる経営コンサルタント。
会社が経営再建のために送り込んできたという、新たな支配者。
「へえ……」
網代は名刺を指先で弾いた。
葉世のような、情に脆い旧タイプの人間ではない匂いがする。
攻略難易度は高そうだ。だが、だからこそ面白い。
「次はもっと、壊しがいのあるおもちゃだといいな」
その時。
オフィスの自動ドアが静かに開いた。
カツ、カツ、カツ。
正確なリズムを刻む革靴の音。
フロアの空気が、一瞬にして凍りついたように張り詰める。
網代が顔を上げる。
入ってきたのは、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ男だった。
年齢は四十代半ば。髪は一筋の乱れもなく撫で付けられ、その顔は蝋細工のように整っているが、体温を感じさせない。
男は入り口で立ち止まり、白いハンカチで口元を軽く拭うと、オフィス全体を見回した。
その視線は、人間を見ているのではない。
そこに並ぶ「数字」と「資源」を値踏みしている目だ。
宇治木政樹。
彼と目が合った瞬間、網代の背筋にゾクリとした戦慄が走った。
それは恐怖ではない。
自分と同類――あるいは、それ以上の「捕食者」に出会った時の、魂の共鳴だった。
網代は椅子の上で、ゆっくりと口角を持ち上げた。
さあ、新しいゲームの始まりだ。
無人となった玉座の上で、魔女は静かに微笑んだ。




