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狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


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第4話 トカゲの尻尾切り

 ジリリリリリリリッ!!

 非常ベルの轟音が、深夜のオフィスを引き裂いていた。

 回転する赤色灯が、無機質な白い壁を血の色に染め上げている。

 磯野いその拓海たくみは、床に押さえつけられていた。冷たいリノリウムの感触と、警備員の太い腕の重み。頬が床に押し潰され、視界が歪んでいる。


「は、離せ! 僕は違う! 僕は……!」

「おとなしくしろ!」

 警備員の怒声が頭上から降ってくる。

 拓海の視線の先、数メートル離れた場所には、網代あじろ真里まりがいた。

 彼女は葉世はせのデスクの陰に座り込み、両手で耳を塞いで震えている。

「きゃあああ! 助けて、誰か! 磯野くんが急に暴れだして……!」

「あ、網代さん……?」

 拓海は声を絞り出した。

 何を言っているんだ。僕たちは共犯じゃないか。いや、正義のパートナーじゃないか。

 君が「やって」と言ったから。君が「ヒーロー」と呼んでくれたから。

「網代さん、言ってよ! これは正しい事なんだって! 葉世の不正を暴くためだって!」


 網代は涙で濡れた顔を少しだけ上げた。

 その瞳が拓海を捉える。

 恐怖に怯える、か弱き被害者の目。

 しかし、警備員たちが拓海の確保に集中し、誰の視線も網代に向いていない一瞬の間隙を縫って、彼女の表情筋が微かに動いた。

 口角が数ミリ上がり、目は三日月のように細められる。

 ――バーカ。

 声には出さず、唇の動きだけでそう告げたように見えた。


「え……」

 拓海の思考が凍りつく。

 その隙に、警備員がもう一人加勢し、拓海の両腕を完全に背中へ捻じり上げた。

「痛っ、あがっ!」

「確保! 警察へ通報しますか!?」

「いや、待て! まずは身柄の拘束だ。会社の方針が決まるまで警察は待て!」

 警備隊長の指示が飛び交う中、拓海は引きずられるようにしてフロアから連行されていった。

 遠ざかる意識の中で、最後に見たのは、震える肩を抱きながら、顔を覆った指の隙間から冷徹に自分を観察している網代の姿だった。


          *


 翌朝、午前九時。

 社内にある窓のない会議室。

 空気は鉛のように重く、空調のうなる音だけがブーンと響いている。

 長机の向こう側には、人事部長と、法務部の担当者。そして、課長の葉世友和が座っていた。

 葉世の顔色は最悪だった。目の下には濃いクマがあり、いつものように胃のあたりを強く押さえている。


 対面に座らされた拓海は、昨夜のままの姿だった。髪は乱れ、シャツはヨレヨレだ。

「磯野拓海さん」

 人事部長が事務的な口調で切り出した。

「昨夜の件について、事実確認を行います。君は深夜に無断でオフィスに侵入し、葉世課長の業務用PCに不正アクセスを試みた。……間違いありませんか?」

「ち、違います! いや、やったのは事実ですけど、僕の独断じゃないんです!」

 拓海は身を乗り出した。

「網代さんです! 網代真里さんに頼まれたんです! 『課長が不正データの隠蔽をしてるから、その証拠を見つけてほしい』って!」


 人事部長と法務担当者が顔を見合わせる。呆れたようなため息。

 葉世だけが、鋭い視線を拓海に向けていた。

「……網代が、そう言ったのか?」

「はい! そうです課長! あなた悪いことをしていたから、僕は真実を暴こうとしただけで……」

「磯野くん」

 人事部長が遮った。

「網代さんからも事情を聞きましたが、彼女は『残業中に突然磯野くんが入ってきて、変なことを口走りながらPCを操作し始めた。止めようとしたら突き飛ばされた』と証言しています」

「嘘だ! 彼女は僕を守るために……きっと、脅されてるんだ!」

「突き飛ばされた際のアザも確認しました。それに、これを見てください」


 法務担当者が、一枚の資料をスライドさせた。

 それは、社内のチャットログと、聞き取り調査の報告書だった。

 『最近、派遣の磯野さんの視線が怖い』

 『待ち伏せされている』

 『彼氏面したLINEが大量に来て困っている』

 そこには、網代が同期の高木や周囲の社員に相談していた「ストーカー被害」の記録が詳細に記されていた。


「な……なんだこれ……」

「君の行動は、以前から問題視されていた。網代さんの気を引くために、あるいは彼女を困らせる上司を陥れるという歪んだ正義感で、君が暴走した。会社としてはそう判断せざるを得ません」

「違います! 証拠ならあります! LINEです!」

 拓海はポケットを探った。「スマホ! 僕のスマホを返してください! そこに網代さんからの指示が残ってるはずです!」


 没収されていたスマホが、テーブルの上に置かれた。

 拓海は震える手でそれを掴み、ロックを解除する。

 LINEのトーク履歴を開く。網代真里とのトークルーム。

 そこには、確かにやり取りが残っていた。


 『今日も綺麗だね。遠くから見てたよ』

 『僕たち、前世で結ばれてたのかも』

 『僕が君を守る騎士になる。誰も邪魔させない』


 自分の送った、熱烈なメッセージの数々。

 だが。

 その合間にあるはずの、彼女からの返信が消えていた。

 『お願い、拓海くんだけが頼りなの』

 『課長のPCに侵入して』

 『愛してる、私の騎士様』

 そういった、犯行を指示し、彼を煽ったメッセージだけが、きれいに消失していたのだ。

 残っているのは、拓海が一方的に送りつけたストーカーまがいの文章と、それに対する網代の無難な『お疲れ様です』というスタンプのみ。


「あ、あれ……? ない……なんで?」

 拓海は画面を何度もスクロールする。

 指が汗で滑る。

 消えている。肝心な部分だけが、神隠しのように。


(まさか……あの時?)


 拓海の脳裏に、数日前の記憶が蘇る。

 昼休み。二人で話していた時だ。

 『ねえ拓海くん、昨日の夜送ってくれた写真、保存したいな。ちょっとスマホ貸して?』

 彼女は可愛らしくそう言って、拓海のスマホを受け取った。

 『あ、ごめん。間違って変なボタン押しちゃったかも』

 数分後、彼女は舌を出してスマホを返してきた。

 あの時だ。

 彼女は、最初から消していたのだ。自分に都合の悪い証拠だけを、こっそりと、確実に。


「な、ない……メッセージが……」

 拓海の手からスマホが滑り落ち、机に乾いた音を立てた。

 人事部長が冷ややかに告げる。

「もう十分でしょう。磯野拓海殿、本日付けで懲戒解雇とします。本来なら即刻警察へ引き渡すべき事案ですが、我が社のセキュリティ管理の不手際が公になるリスクも考慮し、警察への正式な被害届提出は後日、役員会を経てから行います」

「そ、そんな……」

「ただし、二度と敷地内に立ち入らないこと。それから、網代さんへの接触も禁じます。これ以上騒ぎを起こすなら、情状酌量の余地はありませんよ」


 警備員が入室してくる。

 拓海は抵抗する気力もなく、両脇を抱えられた。

 部屋を出る際、彼は葉世を見た。

 葉世は眉間に深いシワを刻み、胃薬の袋を握りしめながら、じっと拓海を見つめ返していた。その目には、怒りよりも、何か得体の知れない哀れみのような色が混じっていた。


          *


 午後一時。

 会社を追い出された拓海は、近くの公園のベンチで呆然としていた。

 秋風が吹き抜け、枯れ葉が足元を転がっていく。

 社員証は没収された。私物は段ボール箱一つ。

 通りかかるビジネスマンたちが、昼間の公園で座り込む若者を不審そうに見ていく。


「……ハハ。なんだよこれ」

 乾いた笑いが漏れる。

 ヒーローになるはずだった。巨悪を倒し、お姫様と結ばれるはずだった。

 それがどうだ。ストーカー扱いされて、クビになって、あげく犯罪者だ。

 スマホを握りしめる。

 網代への憎しみが湧き上がりかける。けれど、彼の依存的な精神構造は、それを否定しようと必死に抵抗していた。


(いや、違う。網代さんは悪くない)

 彼は自己防衛本能で、都合の良い解釈を構築し始める。

(彼女も会社に脅されてるんだ。あの場ではああ言うしかなかったんだ。きっと今頃、一人で泣いてるはずだ……)

 そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだった。


 ブブッ。

 手の中のスマホが震えた。

 ビクリと肩が跳ねる。画面を見る。

 通知欄に表示された名前に、拓海の心臓が止まりかけた。

 『網代真里』。


 震える指でメッセージを開く。

 『ごめんね、拓海くん。私、脅されててあそこではああ言うしかなかったの。私の立場も分かって』

 拓海の目から涙が溢れ出した。

「やっぱり……! やっぱりそうだったんだ!」

 彼女は裏切っていなかった。演技だったんだ。僕を守るために、心を鬼にして。

 続けてメッセージが届く。


 『会社をクビになって、お金も仕事場所もないよね。本当にごめんなさい。罪滅ぼしになるか分からないけど、私の知り合いが助けてくれるから、ここに行って』

 位置情報のURLが添付されている。

 『私の紹介だと言えば、きっと良くしてくれるはず。少し遠いけど、今日中に行ってね』

 『ほとぼりが冷めたら、また会おうね。……愛してるよ、私の守護騎士様』


 「愛してる」。

 その四文字が、拓海の視界を涙で滲ませた。

 彼はスマホの画面にキスをした。

「待ってて、真里ちゃん! 僕がまた立ち上がって、君を迎えに行くから!」

 彼は段ボール箱をゴミ箱に突っ込み、立ち上がった。

 目的地は、繁華街の裏路地。

 そこが地獄への入り口だとも知らずに、彼は希望に満ちた足取りで走り出した。


          *


 午後八時。

 指定された場所は、古びた雑居ビルの地下にあるバー『獅子の穴』だった。

 重い鉄扉を開けると、お香とアルコールの匂いが鼻をつく。

 薄暗い店内。カウンターには、左目の下に大きな傷のある男が一人。


「あ、あの……」

 拓海はおずおずと声をかけた。

「網代さんの紹介で来ました。磯野です」

 バーテンダーの男が、ゆっくりと顔を上げた。

 拓海を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見る。そして、ニヤリと唇を歪めた。


「ああ、聞いてるよ。あんたが『例のアイテム』か」

「え? アイテム?」

 違和感。

 しかし、男はすぐに愛想のいい笑顔を作った。

「いや、冗談だ。お嬢……網代さんの大事な友達なんだろ? 話は聞いてる。仕事も住む場所もなくて困ってるってな」

「は、はい! 網代さんが助けてくれるって……」

「ああ、助けてやるとも。ここなら、身元保証人なしでも稼げる『いい仕事』が山ほどある」

 男はカウンターの下から、琥珀色の液体が入ったグラスを出した。

「まあ飲めよ。これからの長い付き合いになるんだ。景気づけだ」


 拓海は疑うことなくグラスを受け取った。

 網代の紹介なのだ。間違いはない。

 彼は一気に液体を流し込んだ。

 強いアルコール。そして、妙な苦み。

「……っ、ありがとうございます」

「いい飲みっぷりだ」

 男がカウンターをコンコンと叩く。

 すると、店の奥にある黒いカーテンが開き、屈強な男たちが三人、無言で出てきた。

 拓海の視界が、急激に揺らぎ始める。


「え……?」

 手足が痺れる。立っていられない。

 グラスが手から滑り落ち、床で砕け散った。

 ドサリと床に崩れ落ちる拓海。

 薄れゆく意識の中で、男たちの会話が聞こえてくる。


「おい、こいつ華奢だな。現場仕事は無理じゃねえか?」

「内臓は元気そうだろ。それか、海外の詐欺拠点でこき使うか」

「まあ、借金漬けにして骨までしゃぶり尽くせってのがお嬢の命令だ」

「へえ、あの人も相変わらずエグいねえ」


 お嬢の、命令?

 網代さんが、僕を……骨まで?

 拓海の目から、涙が一筋こぼれ落ちる。

 床に転がったスマホの画面が光っていた。

 網代真里の、清楚で美しい笑顔の待ち受け画像。

 男の一人が、革靴でスマホを踏みつけた。

 バキリ。

 画面が蜘蛛の巣状にひび割れ、光が消える。

 拓海の意識もまた、深い闇の底へと沈んでいった。


          *


 同時刻。

 網代真里は、自宅のソファでくつろぎながら、コンビニの高級プリンをスプーンですくっていた。

 シャワーを浴びたばかりの濡れた髪。部屋着のパーカー。

 スマホに、バーの男から短いメッセージが届く。

 『荷受完了。検品異常なし』


「ん、お疲れ」

 網代は短く呟き、一口食べる。

 濃厚なカスタードの甘さが口いっぱいに広がる。

 彼女は連絡先リストを開き、「磯野拓海」の名前をタップした。

 メニューが表示される。

 【連絡先を削除しますか?】

 迷うことなく「はい」を押す。

 リストから名前が消滅した。


「さよなら、使い捨てくん。……あー、すっきりした」

 まるで部屋のゴミを捨てた時のような、清々しい気分だった。

 罪悪感? そんなものは、このプリンのカラメルソースほども存在しない。

 彼がこれからどんな地獄を見るのか。臓器を売られるのか、強制労働させられるのか。そんなことは彼女の知ったことではない。

 彼は自分の意思で「騎士」になりたがったのだ。その結末の責任は、彼自身が負うべきだ。


「さてと」

 網代は空になったプリンの容器をテーブルに置き、別のフォルダを開いた。

 そこには、今回の騒動の報告書ドラフトと、上司・葉世友和に関する社内規定の資料が入っていた。

 今回の事件。

 実行犯は磯野拓海だが、深夜のオフィスへの侵入を許し、PCの管理を怠ったのは誰か。

 管理職である葉世だ。

 拓海の「ストーカー被害」を訴えていた部下(網代)を守れなかったのは誰か。

 それも葉世だ。


 網代の唇が、三日月の形に歪む。

「雑魚は片付いた。次は、中ボス(課長)の退場イベントね」

 彼女は楽しげに鼻歌を歌いながら、葉世を追い詰めるための「被害報告書」を書き始めた。

 尻尾を切り落としたトカゲは、次なる獲物に視線を移していた。

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