第3話 身代わりの羊
網代真里が「感情」というシステムのバグに気づいたのは、五歳の時だった。
幼稚園の教室。
夕暮れのオレンジ色の光が差し込む中、彼女は友だちが積み上げた積み木の城を、ただ「崩れる音が聞きたい」という理由だけで蹴り倒した。
ガラガラガラッ!
乾いた破壊音が教室に響く。
積み上げた男の子が泣き出し、保育士が駆け寄ってきた。
「真里ちゃん! どうしてそんな酷いことをするの!」
保育士の顔は怒りで赤く歪んでいた。大声。威圧的な視線。
普通の子供なら、ここで恐怖に縮み上がり、泣きじゃくるだろう。
だが、五歳の真里は違った。
彼女は保育士の怒り顔を観察しながら、冷静に思考していた。
(うるさいな。どうすればこの騒音が止まるんだろう)
彼女は、試しに実験をしてみることにした。
頬の筋肉を緩め、呼吸を浅く早くし、涙腺に力を込めて水分を排出する。
テレビで見た、悲劇のヒロインの真似事。
「……ご、ごめんなさい……」
震える声を出し、涙を一粒だけこぼしてみた。
効果は劇的だった。
保育士の表情が、一瞬で凍りついたのだ。怒りの赤色が引き、困惑の色が広がる。
「……寂しかったのね? 先生がかまってあげなかったから」
保育士は膝をつき、真里を優しく抱きしめた。
「ごめんね、怒鳴ってごめんね」
抱きしめられながら、真里は保育士の背中で虚空を見つめた。
(あ、なんだ。人間って、『涙』というボタンを押せば、強制的に『謝罪モード』に切り替わる簡単な機械なんだ)
その日以来、彼女にとって感情は「出力する記号」となり、他人は「容易に操作できるバグだらけのNPC」となった。
*
現在。午後十二時十五分。
社員食堂の喧騒の中、網代真里は箸を止めていた。
目の前には手つかずのランチセット。彼女は深いため息をつき、わざとらしく眉尻を下げてみせる。
「……はぁ」
「どうしたの真里ちゃん? 全然食べてないじゃん」
向かいに座る同期の高木が、心配そうに顔を覗き込んだ。
網代は首を横に振る。
「ううん、なんでもないの。ただ、ちょっと……食欲がなくて」
「また葉世課長? あの人、最近ますますピリピリしてるもんね」
高木が憤慨したようにフォークを突き刺す。
網代は伏し目がちに、小さな声で言った。
「課長のこともそうなんだけど……実は、派遣の磯野くんが」
「えっ、磯野さんがどうしたの?」
網代は周囲を気にするようにキョロキョロと視線を巡らせてから、テーブルの下で自分のスマホを高木に見せた。
表示されているのは、LINEのトーク画面だ。
『今日も綺麗だね。遠くから見てたよ』
『僕たち、前世で結ばれてたのかも』
『僕が君を守る騎士になる。誰も邪魔させない』
磯野拓海から送られてきた、一方的かつ長文のメッセージの数々。
高木が「うわっ……」と絶句し、口元を押さえた。
「何これ、キモッ! これ完全にアウトじゃない?」
「しっ、声が大きいよえりちゃん」
「だってこれ、ストーカーの文面だよ! 『騎士になる』って何? 怖すぎるんだけど」
網代は怯えたように身を縮める。
「仕事中もずっと視線を感じるの。帰り道も、誰かがついてきてる気がして……待ち伏せされて『家まで送るよ』って言われたり……」
「警察行ったほうがいいよ! 会社にも報告して!」
「でも、磯野くんも悪い人じゃないと思うの。ただ、思い込みが激しいだけで……私が騒いだら、彼の居場所がなくなっちゃうし」
網代は瞳を潤ませ、健気な被害者を演じきった。
高木は正義感に燃えた顔で頷く。
「真里ちゃんは優しすぎるよ! 分かった、私がそれとなく周りに言っとく。『磯野さんに気をつけろ』って」
「えっ、だめだよ……」
「いいの! 真里ちゃんを守るためなんだから!」
高木の声は大きく、周囲の社員たちの耳にも届いていた。
これでいい。
網代はハンカチで涙を拭うフリをしながら、口元だけで微かに笑った。
これで社内に「磯野拓海=網代につきまとう危険なストーカー」という認識が植え付けられた。
もし拓海が何か問題を起こしても、すべては「ストーカーの暴走」として処理される。完璧なアリバイ工作。
高木というスピーカーは、今日もいい仕事をしてくれた。
*
午後八時。
退社した網代は、繁華街の裏路地にある雑居ビルへと入っていった。
看板の電球が切れかけた、薄暗いバー『獅子の穴』。
カラン、とドアベルが鳴る。
店内に客はいない。紫煙の立ち込めるカウンターの中に、一人の男がいた。
左目の下に大きな傷跡がある、鋭い目つきの男。かつて地元の半グレ集団を仕切っていたが、今はしがないバーテンダーだ。
網代は清楚なオフィスカジュアルのまま、この場違いな空間に足を踏み入れる。
「いらっしゃい、お嬢」
男は網代を見ると、愛想笑いではなく、畏怖の混じった卑屈な笑みを浮かべた。
彼は知っているのだ。この女が、かつて自分の組織を内部崩壊させ、自分をこの地位まで転落させた張本人であることを。そして今では、彼女の提供する「甘い汁」なしでは生きられないことを。
網代はカウンター席に座り、メニューも見ずに言った。
「いつもの」
「へい」
男は慣れた手つきで、ノンアルコールのカクテルを作り始める。
網代はバッグから一枚のメモを取り出し、カウンターに滑らせた。
「新しい『アイテム』が出荷されるわ。明日の夜、回収お願い」
男はメモを手に取る。そこには日付と場所だけが記されていた。
「……男か?」
「うん。頭は弱いけど体は丈夫。臓器でも戸籍でも、好きに使っていいよ。借金漬けにして、骨の髄までしゃぶり尽くして」
網代は美しい指先でグラスの縁をなぞる。
その声は、今日の昼間に見せた「怯える被害者」のものとは別物だった。温度のない、絶対零度の命令。
「ただし、足がつかないようにね。私の名前を出したら……分かってるよね?」
「も、もちろんです。お嬢の頼みなら、地獄の底まで運びますよ」
男は脂汗を浮かべながら頷いた。
網代は満足そうにグラスを傾ける。
磯野拓海。彼のリサイクル先は決まった。
彼は明日、社会的な死を迎える。そしてその後は、この男たちの手によって、文字通り「資源」として消費されるのだ。
「楽しみね。ゴミアイテムが資源に変わる瞬間って」
網代はくすりと笑い、カクテルを一気に飲み干した。
*
深夜一時。
都心のオフィスビルは、巨大な墓標のように静まり返っていた。
警備員の巡回ルートと時間を完全に把握している網代の手引きで、磯野拓海は通用口からオフィスフロアへと侵入していた。
非常灯の緑色の光だけが頼りの薄暗いフロア。
拓海の心臓は早鐘を打っていた。
「す、すごい……まるでスパイ映画みたいだ……」
彼は興奮と緊張で震える声を漏らした。
網代は人差し指を唇に当て、「しっ」と制する。
「静かにね、拓海くん。ここからは時間との勝負だから」
「は、はい! 任せてください!」
二人は品質管理課のエリアへと進む。
整然と並ぶデスクの中で、葉世友和の席だけが書類の山で埋もれていた。
網代はそのデスクを指差す。
「あのパソコン。あの中に、課長が隠蔽した『本当のデータ』があるはずなの」
もちろん、嘘だ。
葉世のPCにあるのは、正常な検証データだけ。網代の目的は、そこに「不正の証拠」を植え付けること。そして何より、「深夜に他人のPCを操作した磯野拓海」という事実を作ることだ。
拓海は葉世の椅子に座り、PCを起動した。
パスワード入力画面が表示される。
彼はポケットからUSBメモリを取り出した。ネットの裏掲示板で手に入れた、怪しげなパスワード解析ツールが入っている。
だが、USBをポートに差し込もうとした瞬間、彼の手が止まった。
「……」
震えが止まらない。
これを行えば、明確な犯罪だ。もしバレたら、懲戒解雇どころか逮捕されるかもしれない。
現実的な恐怖が、遅まきながら彼の理性を揺さぶった。
「あ、あの……網代さん」
拓海が振り返る。その顔は蒼白だった。
「やっぱり、僕……怖いです。もし警備員に見つかったら……」
網代は心の中で舌打ちをした。(チッ、ここに来てビビるなよ、クソモブが)
だが、表情には慈愛に満ちた聖母の微笑みを浮かべる。
彼女は拓海の背後から近づき、その肩に優しく手を置いた。
「大丈夫。私がついてるよ」
耳元で、甘い吐息と共に囁く。
「拓海くんだけが頼りなの。……これが終わったら、私、拓海くんのものになってもいいよ」
「えっ!?」
拓海が弾かれたように顔を上げる。
「ほ、本当ですか!? 付き合ってくれるんですか!?」
「ううん、もっと……」
網代は意味ありげに視線を逸らし、頬を赤らめてみせる。
「拓海くんの家、行っていい?」
拓海の脳内で、何かが焼き切れる音がした。
家に来る。それはつまり、そういうことだ。
憧れの網代真里が。あの清楚な彼女が、僕の部屋に。僕のベッドに。
恐怖心は一瞬で消し飛び、代わりにどす黒い欲望と、歪んだ英雄願望が膨れ上がった。
「そ、それに……」
網代はマスクを少しずらした。
顔を近づける。拓海の心臓が破裂しそうになる。
唇が触れるか触れないかの距離。甘い香りが拓海の鼻腔をくすぐる。
あと数ミリ。
しかし、網代は寸前で止まり、拓海の耳元へ口を寄せた。
「頑張って、私の騎士様」
その一言は、最終決定ボタンだった。
拓海は猛獣のような鼻息と共に、USBメモリを突き刺した。
「やります! 僕が真里ちゃんを救います!!」
カタカタカタッ!
彼はキーボードを叩き始めた。画面に走るプログレスバー。
彼は信じている。自分が巨悪を暴く正義のハッカーだと。
だが実際に行っているのは、網代が用意した「改ざんログ」を葉世のPCにコピーし、同時に「外部からの不正アクセス記録」として自分自身の指紋をシステムに残すという、自殺行為だった。
*
拓海が作業に没頭している間、網代は少し離れた柱の陰に立っていた。
拓海の背中を見つめる彼女の瞳から、先ほどの熱っぽい色は完全に消え失せている。
あるのは、実験動物を観察する科学者のような冷徹さだけだ。
彼女はスマホを取り出し、画面をタップする。
先ほどのバーの男へのメッセージ。
『アイテム、出荷準備OK。明日の夜、そちらに届ける』
すぐに『了解』のスタンプが返ってくる。
「網代さん! もうすぐ終わります! あと一〇パーセント!」
拓海が興奮した声で叫ぶ。
網代は声のトーンを一オクターブ上げ、黄色い声援を送る。
「すごい! 頑張って拓海くん!」
(声デカいよバカ。早く終われ)
彼女は無表情のまま、もう一方の手で別の端末を取り出した。
それは、会社のセキュリティ管理室へ直結する緊急通報ボタンだった。
画面上のバーが満タンになる。
「終わった……! 抜けましたよ網代さん! これで葉世の悪事を……!」
拓海が歓喜の声を上げ、USBを掲げて振り返る。
その顔は、達成感と欲望で醜く歪んでいた。
網代はゆっくりと歩み寄る。
コツ、コツ、とヒールの音が静寂に響く。
彼女は拓海の目の前まで来ると、ニコリと微笑んだ。
それは、この世で一番美しく、そして残酷な笑顔だった。
(お疲れ様、使い捨てくん。君の役目はここまで)
彼女の親指が、ポケットの中で通報ボタンを押し込んだ。
ジリリリリリリリリリリッ!!!
突如、フロア中にけたたましい警報音が鳴り響く。
赤色灯が回転し、闇を血の色に染め上げた。
「えっ!? な、何!?」
拓海がパニックになり、椅子から転げ落ちる。
「ど、どうして警報が!? 網代さん、逃げなきゃ!」
彼は網代の手を引こうとした。
だが、網代はその手をスッと避けた。
そして、怯えたような声で――しかし、目は笑ったまま――叫んだ。
「きゃあああ! 誰か来てぇ! 磯野くんが、磯野くんがおかしいのぉ!!」
「え……?」
拓海の思考が停止する。
遠くから、警備員の怒号と足音が近づいてくる。
網代は床に座り込み、完璧な「被害者」のポーズをとっていた。
拓海は呆然と立ち尽くし、彼女を見下ろす。
その瞳の奥にある、底知れない闇と目が合った瞬間、彼はようやく理解した。
自分が英傑な騎士などではなかったことを。
ただの、哀れな生贄だったことを。
網代真里は、震える手で顔を覆いながら、隙間から見える瞳で拓海を嘲笑っていた。
(さあ、退場の時間だよ。……最後まできっちり面倒見てあげる)
警備員たちがフロアになだれ込んでくる。
哀れな羊は鳴く暇も無く捕まってしまった。




