第2話 優しい理解者
午前六時。
都内の1Kマンション。カーテンの隙間から、薄青い朝の光が差し込んでいる。
ベッドのアラームが鳴る三秒前、網代真里は瞼を開いた。
起床直後の彼女の顔には、眠気も、不機嫌さも、あるいは新しい一日への希望も、何一つ張り付いていなかった。あるのは、電源の落ちたディスプレイのような「無」だけだ。
彼女はベッドから起き上がると、洗面台の鏡の前に立つ。
指先で頬の肉を揉みほぐし、口角に指を添えてグイと持ち上げた。
鏡の中に、花が咲いたような可憐な笑顔が浮かぶ。
指を離す。真顔に戻る。
次は眉尻を下げ、瞳を潤ませる。庇護欲をそそる「被害者」の顔。
数秒静止した後、彼女は軽く首を鳴らした。
「……レンダリング、異常なし」
独り言の声は、低く、渇いている。
栄養補助食品のゼリーを機械的に喉へ流し込むと、彼女は部屋の奥にあるウォークインクローゼットの扉を開けた。
そこは、衣服を収納する場所ではない。
壁の三面に、びっしりと写真が貼られていた。
すべて、オフィスの人間を隠し撮りしたものだ。デスクで欠伸をする姿、給湯室での談笑、喫煙所での油断した表情。
それぞれの写真同士は赤い毛糸で繋がれ、まるで刑事ドラマに出てくる捜査資料かのようだが、網代のそれは呪いの儀式のようだった。
彼女は、スポットライトに照らされた「相関図」の前に立つ。
写真の横には、几帳面な文字でパラメーターと攻略メモが記されている。
営業部の同期・高木の写真。
『NPC名:高木。役割:友情ごっこ兼・防弾チョッキ。知能C、被暗示性A。私が泣けば無条件で周囲に拡散するスピーカー。キープ継続』
上司・葉世友和の写真。
『中ボス:葉世。特性:生真面目、責任感の塊。攻略法:認知的不協和による自滅誘導。現在、HP残り30%。社会的抹殺まであと少し』
そして、派遣社員・磯野拓海の写真。
これだけは、なぜか盗撮ではなく、彼がSNSのアイコンに使っている「キメ顔」の自撮りをプリントアウトしたものだ。
網代はペンのキャップを口で外し、その写真に書き込みを加えた。
『アイテム名:磯野。特性:妄想癖、ストーカー気質。使用用途:使い捨ての自爆ドローン』
彼女は、磯野の写真と葉世の写真を、赤いペンで矢印を引いて結んだ。
矢印の上に、『特攻』と書き込む。
机の上に広げられたノートには、今日の「クエスト」が記されている。
『手順1:承認欲求へのバフ掛け(完了)』
『手順2:正義感の暴走プログラム、本日実行』
「さてと。今日のログインボーナスは何かな」
網代はクローゼットの扉を閉め、闇の中に相関図を封印した。
振り返った彼女は、すでに「清楚で儚げな部下・網代真里」の顔になっていた。
*
午前七時五十分。通勤ラッシュの地下鉄。
押し合いへし合いする乗客の波の中で、派遣社員の磯野拓海は、つり革を強く握りしめていた。
彼の視線は、三メートルほど離れた優先席付近に固定されている。
そこには、網代真里がいた。
満員電車に揺られ、小柄な体を縮こませている彼女。隣に立つ中年サラリーマンの鞄が、彼女の肩に触れるたび、ビクリと怯えるように身を引いている。
(チッ……汚いオヤジが。真里ちゃんに近づくんじゃねえよ)
拓海は舌打ちを噛み殺し、サラリーマンを睨みつけた。
本来、拓海の最寄り駅から会社へのルートであれば、この車両に乗る必要はない。一本早い電車に乗るか、別の車両の方が空いている。
だが、彼は毎朝、網代が乗る車両と時間を完全に把握し、こうして「偶然」を装って同じ空間に身を置いていた。
これはストーカーではない。護衛だ、と彼は本気で信じている。
(あんなに美しくて、心が綺麗な人なのに。誰も彼女の本当の良さを分かってない)
昨日の「土下座事件」が脳裏をよぎる。
床に額を擦り付け、泣き叫んでいた網代。
周囲の社員たちは同情していたが、拓海の解釈はさらに歪んでいた。あれはただのパワハラではない。もっと深い闇がある。
(葉世……あの老害め。自分の無能さを棚に上げて、真里ちゃんをストレスの掃き溜めにしやがって。許せない。僕が、僕だけが彼女を守ってあげなきゃいけないんだ)
電車が大きく揺れた。
網代がよろけ、ドア横の手すりにしがみつく。その仕草すら、か弱く、守ってあげたくなる魅力に満ちていた。
拓海はスマホを取り出し、カメラアプリを起動する。シャッター音は消してある。
人混みの隙間から、彼女の横顔をズームで捉え、画面をタップした。
保存された画像を見つめ、彼はニヤリと口元を歪める。
「待っててね、真里ちゃん。僕が君の騎士になってあげるから」
*
昼休み。
社員食堂の賑わいを避け、網代は社屋の裏手にある自販機コーナーのベンチに座っていた。
手には冷めた缶コーヒー。視線は足元のコンクリートに落とされている。
誰の目にも「悩み多き、孤独な女性」として映る完璧な配置だ。
足音が近づいてくる。
スニーカーの、少し引きずるような足音。
網代は心の中で(来た。予測時間との誤差、マイナス一五秒。食いつき早すぎ)と毒づきながら、ゆっくりと顔を上げた。
「あ……磯野くん」
「網代さん、こんなところにいたんですか。探しましたよ」
磯野拓海が、息を切らせて立っていた。
彼は頼んでもいないのに隣に座り、距離を詰めてくる。汗の混じった制汗スプレーの甘ったるい匂いが漂い、網代は呼吸を止めて眉を潜めた。もちろん、拓海には「悩ましげな表情」に見えるように。
「元気ないですね。……やっぱり、葉世課長のことですか?」
拓海が切り出した。
網代は缶コーヒーを両手で握りしめ、小さく頷く。
「うん……。私、もうどうしたらいいか分からなくて」
「ひどすぎますよ、あの人! 昨日の土下座だって、普通じゃない。絶対に頭が故障してますよ」
「……磯野くんは、鋭いね」
網代は感心したように目を丸くし、そして周囲を警戒するようにキョロキョロと視線を巡らせた。
声を潜め、拓海の耳元へ顔を近づける。
「実はね……磯野くんにだけ、話すんだけど」
秘密の共有。この一手で、承認欲求の強い人間はイチコロだ。
「葉世課長、本当は……開発データの改ざんをしてるみたいなの」
「えっ!?」
「しっ、声が大きい」
網代は人差し指を唇に当てる。(唾飛んだんだけど。死ねよ)と思いながら、潤んだ瞳で拓海を見つめる。
「介護ロボットの不具合データを隠蔽して、無理やり製品化しようとしてるの。私がそれに気づいちゃったから……口封じのために、あんな風に厳しく当たって、自主退職に追い込もうとしてるんだと思う」
もちろん、真っ赤な嘘だ。
実際にデータを隠蔽したのは網代であり、葉世はそれに気づきかけているだけ。真実を鏡合わせに反転させた虚構。
だが、すでに「網代真里=絶対的な善」「葉世友和=絶対的な悪」というバイアスがかかっている拓海の脳内で、その嘘はパズルのピースのようにカチリとハマった。
「やっぱり……! 許せない、犯罪じゃないですか!」
「でも、証拠がないの。課長のパソコンの中にしかないし……私なんて、ただの平社員だし……」
網代は俯き、声を震わせる。
「誰も信じてくれない。警察に行っても揉み消される。……私、もう消えちゃいたいな」
「そんなこと言わないでください!」
拓海が叫んだ。
彼は興奮し、網代の手をガシッと掴んだ。
網代の背筋に悪寒が走る。手汗がヌルリと皮膚に張り付く感覚。生理的な嫌悪感で吐き気がこみ上げるが、彼女はそれを「感極まった震え」に変換した。
「僕がいるじゃないですか! 僕が何とかしますよ!」
「え……? でも、どうやって……」
「証拠があればいいんですよね? 僕、ITには自信があるんです。課長のPCに入り込んで、その隠蔽された『本当のデータ』を抜き出してやりますよ」
拓海は胸を張った。
ITに自信があるといっても、ネットで拾った怪しげなツールを使える程度だ。セキュリティの厳しい社内サーバーに痕跡を残さず侵入することなど不可能に近い。
だが、今の彼は「悲劇のヒロインを救う伝説の勇者」になりきっている。リスク計算などできる状態ではない。
「だ、だめだよ磯野くん! そんなことしたら、磯野くんが危ない目に……」
「いいんです。網代さんのためなら、僕は何でもできますから」
拓海は酔いしれた表情で、網代の手を愛おしそうに撫で回した。
「これが明るみに出れば、葉世は終わりだ。そうしたら、もう網代さんをいじめる奴はいなくなる。……ね? 僕に任せてください」
網代は数秒間、躊躇う演技をした後、ゆっくりと拓海の手を握り返した。
「……ありがとう。拓海くんだけだよ、私の味方は」
「真里ちゃん……!」
下の名前で呼ばれ、網代はスッと手を引いて立ち上がった。
「あ、予鈴が鳴ってる。……無理しないでね、拓海くん。信じてる」
彼女は振り返らずに走り去った。
背中で感じる拓海の熱っぽい視線。
角を曲がり、完全に死角に入った瞬間、網代は立ち止まる。
ポケットから除菌ウェットティッシュを取り出し、拓海に触れられた手を執拗に、皮膚が赤くなるほどゴシゴシと拭った。
「……汚ッな。細菌兵器かよ」
ゴミ箱にティッシュを投げ捨てる。
『クエスト:正義感の暴走プログラム』。入力完了。
*
その日の深夜、二十三時。
磯野拓海のアパートは、カップラーメンの残り香と、高揚した熱気に包まれていた。
足の踏み場もないほど散らかった部屋の中心で、彼は複数のモニターに囲まれている。
メインモニターの壁紙は、会社の集合写真から無理やり引き伸ばした網代真里の笑顔だ。画質が荒く、モザイク画のようになっているが、拓海にとっては女神の肖像画だった。
「へへ……待っててね、真里ちゃん」
彼はキーボードを叩き、闇サイトで入手したパスワード解析ツールを走らせていた。
画面に流れる文字列。彼は自分がまるで映画のハッカーになったような気分に浸っている。
葉世の失脚。それは確定事項だ。
だが、彼の思考はそこで止まらない。
(葉世を追い出して、真里ちゃんを救ったら……彼女は泣いて僕にすがりついてくるはずだ)
彼はコンビニ弁当の唐揚げを頬張りながら、独り言を呟く。
(『拓海くんのおかげで助かった』『拓海くんがいなきゃ私ダメだった』……そう言わせて、週末はデートに誘おう。いや、その流れでホテルかな? 清楚な彼女はきっと初めてだろう。やさしくしなきゃ)
犯罪行為に手を染める恐怖心など微塵もない。
あるのは、「自分だけが特別」という選民思想と、見返りを求める醜悪な欲望だけだ。
彼は、自分が利用されているなどとは夢にも思っていない。
なぜなら、自分は物語の主人公なのだから。
ピコン。
スマホでLINEを送る。
『今、準備終わりました! ツールも完璧です。明日、必ず君を救うよ。夜は空けておいてね(ハート)』
既読はつかない。
きっと、怖くて震えて待っているんだ。僕が安心させてあげなきゃ。
彼は歪んだ笑顔で画面を見つめ、明日の決行に向けてエンターキーを強く叩いた。
ッターーーン!
*
同時刻。
網代真里の部屋は、静寂に包まれていた。
間接照明だけが灯る薄暗い部屋で、彼女はクローゼットの扉を開け放っている。
壁に貼られた写真たち。
彼女はポストイットの束を手に取り、ペタペタと貼り付けていく作業を楽しんでいた。
磯野拓海の間抜けな自撮り写真の上には、『自爆準備完了』と書かれた黄色い付箋。
葉世友和の苦虫を噛み潰したような顔写真には、『社会死カウントダウン:残り1日』と書かれた赤い付箋。
スマホが震えた。
通知画面に表示される、拓海からの長文メッセージ。
『今、準備終わりました!……』
後半の気持ち悪い文章を読む前に、彼女は冷めた目で画面をスワイプした。
既読すらつけない。
さらに、「磯野拓海」のアカウント設定を開き、「通知オフ」に切り替えた。ブロックはしない。まだ使い道があるかもしれないからだ。あくまで、飼い殺し。
「『君を救う』……か」
網代は鼻で笑った。
クローゼットの中、赤い毛糸で繋がれた人間関係図を眺めながら、彼女はワイングラスを傾けるように、ミネラルウォーターのペットボトルを口にする。
「プッ……あの時の顔、傑作だったな。尻尾振ってる犬そのもの」
彼女は指先で、空中の見えない糸を操るような仕草をした。
右手の指を動かせば拓海が踊り、左手の指を動かせば葉世が苦しむ。
この万能感。
他人の感情をパラメータとして管理し、破滅へと誘導するこの快感こそが、退屈な日常を生きる彼女の唯一の酸素だった。
「さて、明日はどんな悲鳴が聞けるかな」
彼女はクローゼットの扉を閉める。
ガチャリ、と重い音が響く。
それは、磯野拓海という名の哀れな道化が閉じ込められた、破滅への檻が閉じる音のようだった。
網代真里は大きなあくびを一つすると、パソコンの電源を落としたかのように深い眠りにつく。
明日、一人の男の人生が終わることなど、道端の小石を蹴るほどにも気にしてはいなかった。




