第16話 毒の滴下
その日の昼休み、オフィスの給湯室は奇妙なほど静まり返っていた。
窓の外は突き抜けるような青空が広がっているが、室内の空気は澱んでいる。冷蔵庫の低い唸り音だけが、不穏なリズムを刻んでいた。
網代真里は、マグカップに紅茶のティーバッグを浸しながら、背後で足音が止まるのを待っていた。
タイミングは完璧だ。
彼女が深いため息をつくと同時に、自動ドアが開き、営業部の高木えりが入ってきた。
「……はぁ」
網代はわざとらしく肩を落とし、うつむいて見せる。
「あれ? どうしたの真里ちゃん。ため息なんてついて」
高木が心配そうに駆け寄ってくる。
網代は心の中で小さく舌を出した。(かかった。相変わらず反応速度だけは一流ね)
網代はゆっくりと顔を上げた。その瞳は潤み、不安に揺れているように見える。
「あ、えりちゃん……ううん、なんでもないの」
「なんでもないことないでしょ。顔色が悪いよ? 明日は大事な発表会なんだから、無理しちゃだめだよ」
高木が網代の背中をさする。その手は温かく、そして鬱陶しいほどにお節介だった。
「……うん。でもね、えりちゃん」
網代は周囲を警戒するようにキョロキョロと視線を巡らせてから、声を潜めた。
「実は……怖いの」
「えっ、何が? 発表会で失敗するのが?」
「違うの。……宇治木さんが、最近おかしいのよ」
網代は震える手でマグカップを握りしめた。
「夜遅くに会議室の前を通ったら、中から独り言が聞こえてきて……。『間引きが必要だ』とか、『腐った果実は捨てなければならない』とか……ブツブツ呟いていて」
「えっ……何それ、怖い」
高木の顔が引きつる。
「それに昨日は、私の顔を見てニヤリと笑って、『明日の会場で、僕の芸術が完成する』って言ったの。その目が、なんていうか……人間を見る目じゃなかった」
網代は身を震わせ、高木の腕にしがみついた。
「奥様の件があってから、精神的に参ってるのかもしれない。でも、私にはそれが、何か恐ろしいことを計画しているように思えて……」
「やだ、どうしよう真里ちゃん。やっぱりあの人、DV夫だっただけじゃなくて、もっとヤバい人なんじゃない?」
高木の声が大きくなる。網代は慌てて人差し指を口に当てた。
「しっ、声が大きいよ。……これ、私の考えすぎかもしれないけど」
網代は胸ポケットから、封筒に入ったUSBメモリを取り出し、高木に見せた。
「もし明日、会場で私が事故に遭ったり、連絡が取れなくなったりしたら……これを警察に届けてほしいの」
「えっ!? 何これ!?」
「ただの日記よ。でも、彼とのやり取りで気になったことをメモしてあるの。……お願い、えりちゃんだけが頼りなの」
もちろん、中身はデタラメだ。宇治木がいかに精神的に不安定で、奇行を繰り返していたかを捏造した日記データ。
だが、正義感と悲劇に酔いやすい高木にとって、これは「親友から託された命の鍵」以外の何物でもない。
「わかった……! 預かるよ!」
高木は封筒をひったくるように受け取り、強く握りしめた。
「真里ちゃんは私が守るから! みんなにも、それとなく言っておく。『宇治木さんの様子が変だから、近づかないほうがいい』って!」
「ありがとう……えりちゃん、本当にありがとう」
網代は涙を拭うフリをして、口元だけで笑った。
これでいい。
明日の発表会後にアイギスが全国へ出荷され、その後に何が起きようと、すべては「精神に異常をきたした彼の暴走」として処理される。私はその巻き添えを食った、可哀想な被害者。
高木という高性能スピーカーが、そのシナリオを社内中に拡散してくれるはずだ。
高木が使命感に燃えた顔で給湯室を出て行くと、網代は表情をスンッと消した。
紅茶を一口すする。
渋みが広がったが、今の彼女には甘露のように感じられた。
「……さよなら、宇治木さん。あなたはもう、おもちゃとしての有用期限切れよ」
*
深夜一時。
都内の高級マンション。網代真里の部屋は、モデルルームのような冷たさを保っていた。
彼女はシャワーを浴び、バスローブ姿でウォークインクローゼットの前に立っていた。
扉を開ける。
そこは彼女の精神世界の縮図であり、司令室だ。
壁一面に貼られた顔写真たち。赤い毛糸で繋がれた人間関係の蜘蛛の巣。
真里はワイングラスを片手に、その「作品」を眺めた。
かつての中ボス、葉世友和。
彼の写真には、すでに太いバツ印がつけられている。その横には、『廃棄済み・無能な善人』というタグ。
派遣の磯野拓海。記者の鏡浩司。宇治木栄子。
彼らの写真は、すでに壁から剥がされ、足元の「処理済みボックス」の中に無造作に放り込まれている。
そして、壁の最も高い位置にある、宇治木政樹の写真。
真里は新しいポストイットを取り出し、そこに『廃棄予定』と書き込んだ。
ペタリ、と写真の額に貼り付ける。
「ふふ……」
笑いが漏れる。
彼は自分が支配者だと思っている。明日の発表会で、自分の理想とする「美しい国」の第一歩が始まると信じている。
だが、その舞台の幕を引くのは彼ではない。
彼が作った地獄を利用し、彼自身をその炎で焼き尽くす、私だ。
「アイギスが全国へ出荷されれば、あなたは用済み」
真里はクローゼットの奥から、自分自身の写真を取り出した。
とびきりの笑顔で写っている写真だ。
彼女はそれを、相関図の頂点――すべての糸が集まる中心点にピンで留めた。
神の視点。
彼女は自分の写真を指先で優しく撫でた。
「あーあ。人間って、どうしてこんなに簡単で、つまらないのかしら」
彼女はあくびを噛み殺し、クローゼットの扉を閉めた。
闇に沈む相関図。
明日の夜には、この図はすべて空白に戻る。そしてまた新しいおもちゃを探せばいい。
政治家か、それとも宗教家か。
もっと壊しガイのある、頑丈なおもちゃを願う。
*
同時刻。
葉世友和のアパートは、電子機器の熱気と、焦げた半田の臭いで満ちていた。
六畳一間の狭い部屋。
万年床の周りには、タワーのように積み上げられた専門書と、無数のケーブルが這い回っている。
モニターの青白い光が、葉世の疲れた顔を照らしていた。
彼は充血した目をこすりながら、キーボードを叩き続けていた。
画面に流れるのは、ライフ・アシスト・ロボティクス社の社内サーバーのアクセスログだ。
休職中の彼に、正規のアクセス権限はない。
だが、彼は現役時代、品質管理課長としての職務権限を利用し、システムの一部に自分だけが通れる「バックドア」を設定していた。
それは本来、部下の不正やデータの改ざんを監視するためのものだったが、今は巨悪を暴くための唯一の覗き穴となっていた。
「……見つけたぞ」
葉世の声が、深夜の静寂に響いた。
画面上のグラフが、異常な数値を弾き出している。
通信先は、湾岸エリアのIPアドレス。甲斐鉄工所だ。
そこから、社内のメインサーバーを経由して、明日の発表会で使用される制御システムへ、膨大なパッチファイルが送信されていた。
葉世は震える手でそのファイルを解析にかけた。
表示されたコードの羅列。
彼は専門家ではない。だが、この数ヶ月、睡眠時間を削って独学で叩き込んだ知識が、その意味を解読させていく。
『Function: Limit_Release (Target: ALL)』
『Trigger: Frequency 2500Hz - 4000Hz (Pattern: Scream)』
「……なんだ、これ」
葉世の背筋に、冷たいものが走った。
宇治木が承認した「リミッター解除」のコードだけではない。
さらに深層領域に、隠蔽された別のプログラムが埋め込まれている。
『特定の高周波――人間の悲鳴に近い音声を感知すると、全制御を放棄し、自律攻撃モードへ移行する』
「暴走……いや、これは『狩り』だ」
葉世は戦慄した。
宇治木はロボットを「効率的な処刑装置」にするつもりだ。だが、工場長の甲斐は、それを「制御不能な野獣」に変えようとしている。
明日の会場には、数百台のアイギスが集められる。
もしそこで、誰かが悲鳴を上げたら? マイクがハウリングを起こしたら?
その瞬間、数百台の鉄の塊が、会場にいる人間すべてを敵と認識し、襲いかかることになる。
「まだある……」
葉世はさらにログを追った。
会場のセキュリティシステムとの連動設定。
『Emergency Mode: Lock Down』
暴走プログラムが起動すると同時に、会場のすべての出入り口、防火扉、エレベーターが電子ロックされる設定になっていた。
逃げ場はない。
完全に密室となったホールで、数百人の人間が、鉄の腕に引きちぎられるのを待つだけになる。
「宇治木……網代……お前らは、悪魔か」
葉世は拳を握りしめ、机を叩いた。
怒りで胃が焼けつくように痛む。
彼は引き出しから、いつもの白い粉薬を取り出し、袋ごと口に放り込んだ。
苦い粉が喉に張り付く。水を飲む時間すら惜しい。
彼は足元にある、無骨な黒いアルミケースを引き寄せた。
中には、ジャンクパーツを組み合わせて作った、自作の電子機器が収められている。
広帯域妨害電波発信機――通称、ジャミング装置。
ロボットが使用する制御周波数帯を特定し、それを上書きするほどの強力なノイズを発生させる装置だ。
これがあれば、暴走したロボットを強制停止させることができるかもしれない。
ただし、効果範囲は数十メートル。会場の中心まで近づかなければならない。
「……間に合うか」
葉世は腕時計を見た。
発表会まで、あと数時間。
彼は古びた作業着を引っ張り出し、袖を通した。
社員証はない。招待状もない。
正面から入れば、警備員につまみ出されるだろう。
だが、会場の搬入口やダクト、裏道なら、長年の勤務経験で把握している。
「行くぞ。……これが、最後の残業だ」
葉世は重いアルミケースを肩に担ぎ、アパートを出た。
外は、夜明け前の冷たい雨が降っていた。
ヒーローの出撃にしては、あまりにも地味で、孤独な旅立ちだった。
*
翌朝、十時。
都心にある大型イベントホール『グランド・ミレニアーム』の前には、長蛇の列ができていた。
テレビカメラの設置、フラッシュの嵐。
黒塗りのハイヤーが次々と到着し、政財界の大物たちが降り立つ。
さらに、招待された多くの高齢者たちが、車椅子や杖をついて会場へと入っていく。
ホールのエントランスでは、宇治木政樹が満面の笑みで来客を出迎えていた。
完璧に仕立てられたタキシード。髪はワックスで艶やかに整えられ、その立ち居振る舞いは自信に満ち溢れている。
その少し後ろに、網代真里が控えていた。
純白のドレススーツに身を包み、清楚な秘書を演じている。
「宇治木さん! 今回のロボットは、介護業界の革命児になるとか?」
記者がマイクを向ける。
宇治木はハンカチで口元を軽く押さえ、穏やかに答えた。
「革命ではありません。……進化です。人間が人間らしくあるために、不要な重荷を取り除く。それが私の使命ですから」
フラッシュが焚かれる。
宇治木は眩しそうに目を細めたが、その瞳の奥は冷徹に光っていた。
(愚かな大衆だ。自分たちがこれから、歴史的な『選別』の目撃者になるとも知らずに)
会場の隅で、営業部の高木えりが同僚たちとひそひそ話をしていた。
「ねえ、やっぱり宇治木さんの目、変じゃない? ギラギラしてるっていうか……」
「言われてみればそうかも。最近、奥さんの件でおかしくなったって噂だし」
「近づかないほうがいいよ。真里ちゃんも怖がってたし」
高木の声は、さざ波のように周囲へ広がっていく。
社員たちの間に、得体の知れない不安が伝染し始めていた。
*
ホールの裏口。
業務用搬入口の影に、葉世は潜んでいた。
警備員の巡回ルートを確認し、隙を見て中へ滑り込む。
薄暗いバックヤード。
機材の搬入業者やスタッフが行き交う中、作業着姿の葉世は、誰にも怪しまれることなく奥へと進んでいく。
「空気のような存在感」。
かつて社内で「影が薄い」と陰口を叩かれていた特徴が、今は最大の武器となっていた。
彼は配電盤の隙間から、ステージ袖へと通じる通路を見つけた。
そこからは、ステージ上に整列する数百台の『アイギス』の後ろ姿が見える。
純白のボディが、照明を浴びて神々しく輝いている。
だが、葉世には見えていた。
その白い装甲の下に隠された、剥き出しの配線と、暴走を待つ悪意のプログラムが。
「待ってろ……。必ず、止めてやる」
葉世はアルミケースを抱え直し、闇の中を匍匐前進のように進んでいった。
胃の痛みは、もう感じなかった。
あるのは、心臓の鼓動と、燃えるような使命感だけだった。
表舞台では、華やかなファンファーレが鳴り響き、開演のアナウンスが流れる。
「皆様、お待たせいたしました。これより、ライフ・アシスト・ロボティクス株式会社、新製品発表会を開催いたします」
地獄の釜の蓋が、今まさに開こうとしていた。




