表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/20

第16話 毒の滴下

 その日の昼休み、オフィスの給湯室は奇妙なほど静まり返っていた。

 窓の外は突き抜けるような青空が広がっているが、室内の空気は澱んでいる。冷蔵庫の低い唸り音だけが、不穏なリズムを刻んでいた。


 網代あじろ真里は、マグカップに紅茶のティーバッグを浸しながら、背後で足音が止まるのを待っていた。

 タイミングは完璧だ。

 彼女が深いため息をつくと同時に、自動ドアが開き、営業部の高木えりが入ってきた。


「……はぁ」

 網代はわざとらしく肩を落とし、うつむいて見せる。

「あれ? どうしたの真里ちゃん。ため息なんてついて」

 高木が心配そうに駆け寄ってくる。

 網代は心の中で小さく舌を出した。(かかった。相変わらず反応速度だけは一流ね)


 網代はゆっくりと顔を上げた。その瞳は潤み、不安に揺れているように見える。

「あ、えりちゃん……ううん、なんでもないの」

「なんでもないことないでしょ。顔色が悪いよ? 明日は大事な発表会なんだから、無理しちゃだめだよ」

 高木が網代の背中をさする。その手は温かく、そして鬱陶しいほどにお節介だった。


「……うん。でもね、えりちゃん」

 網代は周囲を警戒するようにキョロキョロと視線を巡らせてから、声を潜めた。

「実は……怖いの」

「えっ、何が? 発表会で失敗するのが?」

「違うの。……宇治木さんが、最近おかしいのよ」


 網代は震える手でマグカップを握りしめた。

「夜遅くに会議室の前を通ったら、中から独り言が聞こえてきて……。『間引きが必要だ』とか、『腐った果実は捨てなければならない』とか……ブツブツ呟いていて」

「えっ……何それ、怖い」

 高木の顔が引きつる。

「それに昨日は、私の顔を見てニヤリと笑って、『明日の会場で、僕の芸術が完成する』って言ったの。その目が、なんていうか……人間を見る目じゃなかった」


 網代は身を震わせ、高木の腕にしがみついた。

「奥様の件があってから、精神的に参ってるのかもしれない。でも、私にはそれが、何か恐ろしいことを計画しているように思えて……」

「やだ、どうしよう真里ちゃん。やっぱりあの人、DV夫だっただけじゃなくて、もっとヤバい人なんじゃない?」

 高木の声が大きくなる。網代は慌てて人差し指を口に当てた。


「しっ、声が大きいよ。……これ、私の考えすぎかもしれないけど」

 網代は胸ポケットから、封筒に入ったUSBメモリを取り出し、高木に見せた。

「もし明日、会場で私が事故に遭ったり、連絡が取れなくなったりしたら……これを警察に届けてほしいの」

「えっ!? 何これ!?」

「ただの日記よ。でも、彼とのやり取りで気になったことをメモしてあるの。……お願い、えりちゃんだけが頼りなの」


 もちろん、中身はデタラメだ。宇治木がいかに精神的に不安定で、奇行を繰り返していたかを捏造した日記データ。

 だが、正義感と悲劇に酔いやすい高木にとって、これは「親友から託された命の鍵」以外の何物でもない。


「わかった……! 預かるよ!」

 高木は封筒をひったくるように受け取り、強く握りしめた。

「真里ちゃんは私が守るから! みんなにも、それとなく言っておく。『宇治木さんの様子が変だから、近づかないほうがいい』って!」

「ありがとう……えりちゃん、本当にありがとう」


 網代は涙を拭うフリをして、口元だけで笑った。

 これでいい。

 明日の発表会後にアイギスが全国へ出荷され、その後に何が起きようと、すべては「精神に異常をきたした彼の暴走」として処理される。私はその巻き添えを食った、可哀想な被害者。

 高木という高性能スピーカーが、そのシナリオを社内中に拡散してくれるはずだ。


 高木が使命感に燃えた顔で給湯室を出て行くと、網代は表情をスンッと消した。

 紅茶を一口すする。

 渋みが広がったが、今の彼女には甘露のように感じられた。


「……さよなら、宇治木さん。あなたはもう、おもちゃとしての有用期限切れよ」


          *


 深夜一時。

 都内の高級マンション。網代真里の部屋は、モデルルームのような冷たさを保っていた。

 彼女はシャワーを浴び、バスローブ姿でウォークインクローゼットの前に立っていた。


 扉を開ける。

 そこは彼女の精神世界の縮図であり、司令室だ。

 壁一面に貼られた顔写真たち。赤い毛糸で繋がれた人間関係の蜘蛛の巣。


 真里はワイングラスを片手に、その「作品」を眺めた。

 かつての中ボス、葉世はせ友和ともかず

 彼の写真には、すでに太いバツ印がつけられている。その横には、『廃棄済み・無能な善人』というタグ。

 派遣の磯野拓海。記者の鏡浩司。宇治木栄子。

 彼らの写真は、すでに壁から剥がされ、足元の「処理済みボックス」の中に無造作に放り込まれている。


 そして、壁の最も高い位置にある、宇治木政樹の写真。

 真里は新しいポストイットを取り出し、そこに『廃棄予定』と書き込んだ。

 ペタリ、と写真の額に貼り付ける。


「ふふ……」

 笑いが漏れる。

 彼は自分が支配者だと思っている。明日の発表会で、自分の理想とする「美しい国」の第一歩が始まると信じている。

 だが、その舞台の幕を引くのは彼ではない。

 彼が作った地獄を利用し、彼自身をその炎で焼き尽くす、私だ。


「アイギスが全国へ出荷されれば、あなたは用済み」


 真里はクローゼットの奥から、自分自身の写真を取り出した。

 とびきりの笑顔で写っている写真だ。

 彼女はそれを、相関図の頂点――すべての糸が集まる中心点にピンで留めた。

 神の視点。

 彼女は自分の写真を指先で優しく撫でた。


「あーあ。人間って、どうしてこんなに簡単で、つまらないのかしら」

 彼女はあくびを噛み殺し、クローゼットの扉を閉めた。

 闇に沈む相関図。

 明日の夜には、この図はすべて空白に戻る。そしてまた新しいおもちゃを探せばいい。

 政治家か、それとも宗教家か。

 もっと壊しガイのある、頑丈なおもちゃを願う。


          *


 同時刻。

 葉世友和のアパートは、電子機器の熱気と、焦げた半田の臭いで満ちていた。

 六畳一間の狭い部屋。

 万年床の周りには、タワーのように積み上げられた専門書と、無数のケーブルが這い回っている。

 モニターの青白い光が、葉世の疲れた顔を照らしていた。


 彼は充血した目をこすりながら、キーボードを叩き続けていた。

 画面に流れるのは、ライフ・アシスト・ロボティクス社の社内サーバーのアクセスログだ。

 休職中の彼に、正規のアクセス権限はない。

 だが、彼は現役時代、品質管理課長としての職務権限を利用し、システムの一部に自分だけが通れる「バックドア」を設定していた。

 それは本来、部下の不正やデータの改ざんを監視するためのものだったが、今は巨悪を暴くための唯一の覗き穴となっていた。


「……見つけたぞ」


 葉世の声が、深夜の静寂に響いた。

 画面上のグラフが、異常な数値を弾き出している。

 通信先は、湾岸エリアのIPアドレス。甲斐鉄工所だ。

 そこから、社内のメインサーバーを経由して、明日の発表会で使用される制御システムへ、膨大なパッチファイルが送信されていた。


 葉世は震える手でそのファイルを解析にかけた。

 表示されたコードの羅列。

 彼は専門家ではない。だが、この数ヶ月、睡眠時間を削って独学で叩き込んだ知識が、その意味を解読させていく。


 『Function: Limit_Release (Target: ALL)』

 『Trigger: Frequency 2500Hz - 4000Hz (Pattern: Scream)』


「……なんだ、これ」

 葉世の背筋に、冷たいものが走った。

 宇治木が承認した「リミッター解除」のコードだけではない。

 さらに深層領域に、隠蔽された別のプログラムが埋め込まれている。

 『特定の高周波――人間の悲鳴に近い音声を感知すると、全制御を放棄し、自律攻撃モードへ移行する』


「暴走……いや、これは『狩り』だ」

 葉世は戦慄した。

 宇治木はロボットを「効率的な処刑装置」にするつもりだ。だが、工場長の甲斐は、それを「制御不能な野獣」に変えようとしている。

 明日の会場には、数百台のアイギスが集められる。

 もしそこで、誰かが悲鳴を上げたら? マイクがハウリングを起こしたら?

 その瞬間、数百台の鉄の塊が、会場にいる人間すべてを敵と認識し、襲いかかることになる。


「まだある……」

 葉世はさらにログを追った。

 会場のセキュリティシステムとの連動設定。

 『Emergency Mode: Lock Down』

 暴走プログラムが起動すると同時に、会場のすべての出入り口、防火扉、エレベーターが電子ロックされる設定になっていた。

 逃げ場はない。

 完全に密室となったホールで、数百人の人間が、鉄の腕に引きちぎられるのを待つだけになる。


「宇治木……網代……お前らは、悪魔か」


 葉世は拳を握りしめ、机を叩いた。

 怒りで胃が焼けつくように痛む。

 彼は引き出しから、いつもの白い粉薬を取り出し、袋ごと口に放り込んだ。

 苦い粉が喉に張り付く。水を飲む時間すら惜しい。


 彼は足元にある、無骨な黒いアルミケースを引き寄せた。

 中には、ジャンクパーツを組み合わせて作った、自作の電子機器が収められている。

 広帯域妨害電波発信機――通称、ジャミング装置。

 ロボットが使用する制御周波数帯を特定し、それを上書きするほどの強力なノイズを発生させる装置だ。

 これがあれば、暴走したロボットを強制停止させることができるかもしれない。

 ただし、効果範囲は数十メートル。会場の中心まで近づかなければならない。


「……間に合うか」


 葉世は腕時計を見た。

 発表会まで、あと数時間。

 彼は古びた作業着を引っ張り出し、袖を通した。

 社員証はない。招待状もない。

 正面から入れば、警備員につまみ出されるだろう。

 だが、会場の搬入口やダクト、裏道なら、長年の勤務経験で把握している。


「行くぞ。……これが、最後の残業だ」


 葉世は重いアルミケースを肩に担ぎ、アパートを出た。

 外は、夜明け前の冷たい雨が降っていた。

 ヒーローの出撃にしては、あまりにも地味で、孤独な旅立ちだった。


          *


 翌朝、十時。

 都心にある大型イベントホール『グランド・ミレニアーム』の前には、長蛇の列ができていた。

 テレビカメラの設置、フラッシュの嵐。

 黒塗りのハイヤーが次々と到着し、政財界の大物たちが降り立つ。

 さらに、招待された多くの高齢者たちが、車椅子や杖をついて会場へと入っていく。


 ホールのエントランスでは、宇治木政樹が満面の笑みで来客を出迎えていた。

 完璧に仕立てられたタキシード。髪はワックスで艶やかに整えられ、その立ち居振る舞いは自信に満ち溢れている。

 その少し後ろに、網代真里が控えていた。

 純白のドレススーツに身を包み、清楚な秘書を演じている。


「宇治木さん! 今回のロボットは、介護業界の革命児になるとか?」

 記者がマイクを向ける。

 宇治木はハンカチで口元を軽く押さえ、穏やかに答えた。

「革命ではありません。……進化です。人間が人間らしくあるために、不要な重荷を取り除く。それが私の使命ですから」


 フラッシュが焚かれる。

 宇治木は眩しそうに目を細めたが、その瞳の奥は冷徹に光っていた。

 (愚かな大衆だ。自分たちがこれから、歴史的な『選別』の目撃者になるとも知らずに)


 会場の隅で、営業部の高木えりが同僚たちとひそひそ話をしていた。

「ねえ、やっぱり宇治木さんの目、変じゃない? ギラギラしてるっていうか……」

「言われてみればそうかも。最近、奥さんの件でおかしくなったって噂だし」

「近づかないほうがいいよ。真里ちゃんも怖がってたし」

 高木の声は、さざ波のように周囲へ広がっていく。

 社員たちの間に、得体の知れない不安が伝染し始めていた。


          *


 ホールの裏口。

 業務用搬入口の影に、葉世は潜んでいた。

 警備員の巡回ルートを確認し、隙を見て中へ滑り込む。

 薄暗いバックヤード。

 機材の搬入業者やスタッフが行き交う中、作業着姿の葉世は、誰にも怪しまれることなく奥へと進んでいく。

 「空気のような存在感」。

 かつて社内で「影が薄い」と陰口を叩かれていた特徴が、今は最大の武器となっていた。


 彼は配電盤の隙間から、ステージ袖へと通じる通路を見つけた。

 そこからは、ステージ上に整列する数百台の『アイギス』の後ろ姿が見える。

 純白のボディが、照明を浴びて神々しく輝いている。

 だが、葉世には見えていた。

 その白い装甲の下に隠された、剥き出しの配線と、暴走を待つ悪意のプログラムが。


「待ってろ……。必ず、止めてやる」


 葉世はアルミケースを抱え直し、闇の中を匍匐前進のように進んでいった。

 胃の痛みは、もう感じなかった。

 あるのは、心臓の鼓動と、燃えるような使命感だけだった。


 表舞台では、華やかなファンファーレが鳴り響き、開演のアナウンスが流れる。

 「皆様、お待たせいたしました。これより、ライフ・アシスト・ロボティクス株式会社、新製品発表会を開催いたします」


 地獄の釜の蓋が、今まさに開こうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ