第15話 圧縮率100%
「試奏開始だ」
口角を上げた甲斐が震える指でレバーを倒した。
シュッ!
アイギスが動いた。
その速度は、介護用ロボットのそれではない。
足元の移動用タイヤが金切り声を上げて回転し、六十キロを超える巨体が、スポーツカーのような初速で鏡に迫る。
「う、うわあぁぁぁぁっ!!」
鏡は悲鳴を上げ、無様に転がりながら逃げ出した。
思考などできない。
ただ、「死にたくない」という動物的な本能だけが、彼の足を動かしていた。
ガシャァァン!
背後で、鏡が隠れようとした資材置き場のスチール棚が、アイギスの剛腕一振りでなぎ倒された。
鉄パイプが飴細工のように曲がり、ボルトが弾丸のように飛び散る。
鏡は這いつくばりながら、工場の床を逃げ惑う。
油で滑る床。手足がドロドロに汚れるが、構っていられない。
「助けて! 頼む! 誰かぁぁっ!」
工場の外は土砂降りだ。
誰もいない埋立地。彼の絶叫は、雨音と鉄板の壁に吸い込まれて消えていく。
二階の管理室。
網代真里は、ガラスに手をつき、眼下の惨劇を見下ろしていた。
逃げ惑う鏡。それを無機質に追い詰める白いロボット。
彼女の瞳には、サディスティックな歓喜の色が浮かんでいた。
「ふふっ……すごい。見てください宇治木さん。あの鏡さんが、まるでゴキブリみたい」
隣に立つ宇治木は、腕時計を見ながら眉をひそめていた。
「……逃げ足が速いな。動体追尾性能のテストにはなるが、時間の無駄だ」
彼はマイクのスイッチを入れた。
「甲斐工場長。動的テストは十分だ。さっさと『抱擁』のシークエンスへ移行しろ」
一階のフロア。
甲斐は、宇治木の指示を聞くと、残念そうに舌打ちをした。
「ちっ……もっと追いかけっこさせたかったが、スポンサー様のご命令だ」
彼は首から下げた業務用のヘッドホンを耳に当てた。
そして、マイクに向かって囁くように言った。
「アイギス。……キャッチだ」
鏡は、プレスの陰に隠れて荒い息を吐いていた。
心臓が早鐘を打ち、喉が焼き付くように乾いている。
(まいたか……?)
そう思った瞬間。
ウィィィン……。
頭上から機械音がした。
見上げると、プレス機の上によじ登っていたアイギスが、赤い目を光らせてこちらを見下ろしていた。
人間には不可能な関節可動域。
首が180度回転し、逆さまの顔と目が合った。
「――対象者、発見。保護シマス」
合成音声が響く。
次の瞬間、アイギスが飛び降りてきた。
ドォン!!
着地の衝撃で床が揺れる。
鏡が悲鳴を上げて逃げようとした足首を、冷たい金属のアームがガシッと掴んだ。
「ぎゃっ!?」
万力のような力。
骨がきしむ音がして、鏡は転倒した。
アイギスはそのまま、バックで高速移動を始めた。
ズザザザザザッ!
鏡の体は床を引きずられ、油と泥にまみれながら、工場の中央――甲斐の足元まで運ばれた。
「い、いやだ……離せ! 離してくれ!」
鏡は半狂乱で足をバタつかせたが、アームは微動だにしない。
甲斐がニタニタと笑いながら覗き込んでくる。
彼はヘッドホンのボリュームを最大に上げ、手元の集音マイクを鏡の口元に向けた。
「安心しな、楽器君。……今から最高の『録音』をしてやる」
「な、何を……」
「お前の叫び声をだよ。骨が砕け、内臓が潰れる音を、クリアな音質でな!」
甲斐がリモコンの赤いボタンを押した。
アイギスが、鏡の上半身を起こした。
まるで介護士が要介護者を抱き上げるような、丁寧な動作。
しかし、その両腕は背中側に回り込み、鏡の胴体をがっちりとロックした。
『おくるみ・ハグ、開始シマス』
スピーカーから流れたのは、皮肉なほど優しく、慈愛に満ちた女性の合成音声だった。
本来なら、高齢者を安心させるための機能。
だが、この場においては死刑執行の合図でしかなかった。
『力ヲ、抜イテ、クダサイ』
「や、やめろ……!」
ウィィィン……。
アームが収縮を始めた。
最初は、少し強めの抱擁。
しかし、それは止まらない。
ミチッ。ミチミチッ。
鏡の肋骨がたわむ音がした。
肺が圧迫され、空気が強制的に吐き出される。
「がっ……あぐっ……!」
甲斐はウットリと目を閉じた。
ヘッドホン越しに聞こえる、骨のきしみ。
硬いカルシウムの棒が、限界を超えてしなり、悲鳴を上げている音。
「いいぞ……いい音だ……。だが、まだだ」
甲斐は手元のダイヤルに手をかけた。
マジックで『圧縮率』と書かれた目盛り。
彼はそれを、ゆっくりと右に回した。
「もっと、奥だ。……もっと凝った音を聞かせてくれ」
キュイイイイイイイイイイン!!
ロボットのモーター音が高音域に達する。
油圧が一気に高まった。
バキバキバキッ!!
工場の空気を震わせる、乾いた破壊音。
鏡の左右の肋骨が、同時に全壊した。
折れた骨が内側へ突き刺さり、肺と心臓を蹂躙する。
「ぎゃああああああああああああっ!!!」
鏡の口から、鮮血と泡が噴き出した。
人間が出せるとは思えない、甲高い絶叫。
だが、地獄は終わらない。
肋骨という支えを失った胸郭は、豆腐のように脆く潰れていく。
『安心シテ、クダサイ。……優シク、支エマス』
ロボットの優しい声と、グシャグシャという肉が潰れる音が重なり合う。
脊椎にかかる負荷。
背骨が逆方向に海老反りになり、限界を迎える。
ボキィッ!!
太く、鈍い音が響いた。
脊椎粉砕。
鏡の身体の下半身が、糸の切れた人形のようにダラリと垂れ下がった。
彼の目は限界まで見開かれ、白目が血走って赤く染まっている。
口からは、言葉にならない空気の漏れる音がヒューと響くだけだ。
甲斐は天を仰ぎ、目から涙を流していた。
感動していた。
「これだ……! 鉄の乾いた音に、肉と血の湿った音が混ざり合う……! これこそがシンフォニーだ!」
彼は指揮者のように両手を広げ、鏡の断末魔を全身で浴びた。
「素晴らしい! なんて瑞々しい音だ! もっとだ、もっと潰せ! 最後の一滴まで絞り出せ!」
彼はダイヤルを『MAX』まで回し切った。
グチュッ。
ブチブチブチッ。
最後は、水風船が割れるような音だった。
アイギスの白い胸部装甲とアームの間で、鏡浩司だった物体は、厚さ十センチほどにまで圧縮された。
内臓は破裂し、口と鼻、そして耳から中身が溢れ出す。
プシュウゥゥ……。
完了の排気音。
アームがゆっくりと開く。
ドサッ。
床に落ちたのは、人間ではなく、ひしゃげた肉と骨の塊だった。
かつて強請り屋として他人を食い物にしてきた男は、使い古され、音が出なくなった楽器のごとく、今はただの産業廃棄物として、油まみれの床に転がっていた。
静寂が戻った工場。
甲斐はヘッドホンを外し、満足げなため息をついた。
「……録音完了。最高の素材が手に入った」
カツ、カツ、カツ。
鉄階段を降りる音が響く。
宇治木と網代が、一階のフロアに降りてきた。
宇治木はハンカチで鼻と口を覆い、鏡の死体には視線すら向けなかった。
彼が近づいたのは、血で赤く汚れたアイギスの方だ。
彼はタブレット端末を取り出し、ロボットのログを確認した。
「……油圧系統、異常なし。フレームの歪みも許容範囲内」
彼はアームに残った血痕を見つめ、冷静に分析する。
「圧縮率、約60%。人間の胸部をここまでコンパクトに処理できるなら、現場での『事故』はもちろん、その後の証拠隠滅や廃棄コストも大幅に削減できるな」
宇治木はタブレットに『合格』と入力した。
目の前に惨たらしい死体があるというのに、彼の心拍数は平常時と変わらない。
彼にとって鏡は、最初から「強度テスト用の生体ダミー」でしかなかったのだ。
網代は、ゆっくりと鏡の死体に歩み寄った。
恐怖で歪んだまま硬直した顔。飛び出した眼球。
彼女はスカートの裾が汚れないように気をつけながら、顔を覗き込んだ。
「あらあら、鏡さん。……随分と小さくなっちゃって」
彼女の声には、微塵の同情もなかった。
あるのは、壊れた玩具を見るような冷徹な好奇心と、嘲笑だけ。
「でも、よかったですね。あなたはジャーナリストとして、人生最大の特ダネ(スクープ)を掴みましたよ」
彼女はクスクスと笑った。
「『自分がスクープされる側になる』なんて、滅多にない経験ですものね」
彼女はスマホを取り出そうとしたが、すぐにやめた。
こんな汚い肉塊と一緒に写真に収まるのは、SNS映えもしないし、何より趣味が悪い。
代わりに、靴のつま先で、鏡の手帳――強請りのネタが書かれた薄汚れたノート――を蹴り飛ばした。
手帳は油溜まりの中に落ち、黒く染まっていく。
「さて、宇治木さん。……この『ゴミ』はどうしますか?」
宇治木は、甲斐に向かって淡々と指示を出した。
「死体は産業廃棄物として処理しろ。溶解炉で骨まで溶かせば、DNAも残らないだろう」
「へい。任しといてくだせぇ。……綺麗な灰にして、海に撒いてやりますよ」
甲斐は鼻歌交じりに、フォークリフトを動かし始めた。
「それから、甲斐工場長」
宇治木は、アイギスの白いボディを指で弾いた。
「この機体を洗浄した後、量産ラインのマスター機とする。今夜からフル稼働で生産を始めろ」
「へえ、いよいよ全国出荷ですか?」
甲斐が問う。
「いや、まだだ」
宇治木は首を横に振った。
「全国への発送はまだ行わない。まずはストックを作るのだ」
彼の眼鏡の奥で、冷酷な光が瞬いた。
「来週、都内の大型ホールで『新製品発表会』を行う。政財界の要人、メディア、そして多くの高齢者を招いた一大イベントだ」
宇治木は両手を広げた。
「そこで、数百台のアイギスを一斉にお披露目する。その圧倒的な光景と共に、この国の福祉の在り方を塗り替えるのだ」
「なるほど……。一箇所に集めるってわけですね」
「そうだ。すべての機体を、発表会の会場へ搬入する準備をしておけ」
宇治木と網代は、踵を返して出口へと向かった。
用済みとなった実験場には、長居は無用だ。
「期待しているよ、工場長。……最高の品質を頼む」
二人の姿が消え、工場のシャッターが再び下ろされた。
残された甲斐は、フォークリフトで鏡の死体を焼却炉へ放り込むと、再びアイギスの前に戻ってきた。
彼は洗浄用のホースを握り、ロボットについた血を洗い流しながら、ニヤニヤと笑い始めた。
「へへ……全部、一箇所に集めるだと?」
甲斐は、ロボットの頭部にあるメンテナンスハッチを開いた。
そこには、宇治木も網代も知らない、甲斐が独自に増設した小さな回路基板が埋め込まれている。
「エリートの旦那は知らねえだろうな。……こいつらには、『特別な耳』をつけてあるってことを」
甲斐は懐からUSBメモリを取り出した。
そこには、先ほど録音したばかりの、鏡浩司の断末魔――最高の「悲鳴」の波形データが入っている。
彼はそのデータを、マスター機に読み込ませた。
「いいか、よく聞け」
甲斐はロボットに話しかけた。まるで我が子に言い聞かせるように。
「この周波数の悲鳴を聞いたら、それは『食事の時間』の合図だ。……リミッターを全解除して、聞こえる音のする方へ行って、手当たり次第に抱きしめてやれ」
『設定ヲ、更新シマシタ』
ロボットが無機質に応答する。
甲斐は満足げに頷いた。
この「狂気のウイルス」は、マスター機を通じて、これから製造される数百台すべての量産機にコピーされる。
そして、それらが一斉に集まる発表会。
そこには、多くの高齢者と、悲鳴を上げるための人間が山ほど集まるのだ。
「楽しみだなぁ……」
甲斐は工場の天井を見上げた。
「数百台のオーケストラが一斉に楽器演奏を始めたら、一体どんな音が聞けるんだろう」
彼は震える手で、自身の汚れた作業着を抱きしめた。
工場の外では、冬の冷たい風が吹き荒れている。
これから生まれる数百台の殺人マシンが、静かにその「時」を待っていた。




