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狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


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第11話 鉄の悲鳴

 宇治木うじき政樹まさきが一歩踏み出したその先には、油と鉄粉が堆積し、黒いヘドロのようになった床が広がっていた。

 磨き上げられた革靴が、ネチャリと音を立てて油汚れを踏みしめる。

 宇治木は足元を一瞥もしない。純白のハンカチで鼻と口を覆ったまま、その視線は正面に立つ男――甲斐かい芳正よしまさだけに固定されていた。


 工場の奥、巨大な油圧プレスの陰に立つ甲斐は、手にしたモンキーレンチで掌をパン、パンと叩きながら、濁った眼球で来訪者たちを観察している。

 作業着の襟元は汗と油で黒ずみ、伸び放題の爪には錆が食い込んでいる。

 彼が口元を歪めると、黄ばんだ歯茎が露わになった。

 プレスの駆動音がズゥン、ズゥンと地響きのように鳴り響く中、両者の視線が交錯する。


 宇治木の後ろから、網代あじろ真里まりが進み出た。

 彼女は無言で折りたたみ式の台車を押し出すと、車のトランクから運び出した「荷物」を工場の中央へと運んだ。

 キャスターがコンクリートの段差を乗り越え、ガタガタと乾いた音を立てる。

 荷物は白い布で覆われており、そのシルエットは人間ほどの大きさがある。


 網代は甲斐の目の前で台車を止め、被せられていた布を勢いよく引き剥がした。

 バサリと布が落ちる。

 頭上の裸電球が、露わになった物体を照らし出す。

 純白の流線型ボディを持つ、新型介護ロボット『アイギス』。

 薄暗く、鉄錆色に染まった工場の中で、その工業的な白さは異様なほどの存在感を放っていた。

 関節部は隙間なくカバーで覆われ、顔部には黒いバイザー状のセンサーがあるのみ。

 一切の汚れを知らない「新品」の光沢が、周囲の淀んだ空気を拒絶しているように見える。


 網代が一歩前に出た。

 彼女は愛想笑いを浮かべることもなく、事務的な口調で切り出した。

「甲斐鉄工所、甲斐芳正さんですね。お電話したライフ・アシスト・ロボティクス社の網代です」

「……おう」

 甲斐は短く応じ、レンチの先端で顎をかいた。

「なんの用だ。うちは飛び込みはお断りだぜ」


「お仕事の依頼です」

 網代はロボットの白いアームに手を添えた。

「このロボットの量産をお願いしたいんです。ただし、正規の提携工場では受け入れられない『特別な仕様』での製造になります。技術があり、口が堅い場所を探していました」


 甲斐の目が大きく見開かれた。

 彼はモンキーレンチを作業台に放り投げると、ふらりとロボットに近づいた。

 金属同士がぶつかるガチャンという音が響く。

 甲斐は油で真っ黒になった軍手をつけたまま、躊躇なくロボットの純白の肩に触れた。

 白いプラスチックの装甲に、べっとりと黒い指紋が付着する。

 彼はそのまま指を滑らせ、ロボットの腕、胸部、そして首筋を愛撫するように撫で回した。

 黒い油の筋が、白いボディを汚していく。

 宇治木はその光景を、瞬きもせずに見つめている。ハンカチを持つ指に力がこもるが、制止の声は上げない。


「……あ?」

 甲斐が喉の奥で唸った。

 不躾な視線が、宇治木の高級スーツと、網代の顔、そして台車の上の荷物を往復する。


「はぁ?」

 甲斐は鼻で笑い、黄色い痰を床に吐き捨てた。

「量産だぁ? 見ての通り、うちはしがない鉄工所だ。そんなハイテク玩具、作れるわけねぇだろ。他のメーカーに持ってきな」

「ハイテクなのは外側だけです。中身は単純な油圧駆動。……それに」

 網代は言葉を切った。

「他のメーカーの工場では、『作れない』と言われました。設計があまりにも危険すぎるからと」


 甲斐の眉がピクリと動く。

 ここで、宇治木がハンカチを内ポケットにしまい、一歩踏み出した。

 彼はタブレット端末を取り出し、画面を操作して甲斐の目の前に突きつけた。


「……単刀直入に言おう。この機体の『かせ』を外してほしい」


 甲斐はタブレットの画面を覗き込んだ。

 そこに表示されているのは、アイギスの回路図と、変更箇所の指示書。

 『安全リミッター:全解除』

 『トルク制限:エラー無視設定(Output: ∞)』

 『接触停止センサー:物理的切断』


 甲斐の視線が画面の上を滑る。

 やがて、彼は顔を上げ、宇治木を見た。

「……で?」

 呆れたような、しかし微かな興味を含んだ声。

「おいおい、旦那。これじゃあブレーキのついてねえダンプカーだ。介護ロボットだろ? 爺さん婆さんを挽肉にする気か?」


「その通りだ」

 宇治木は平然と答えた。

 甲斐の動きが止まる。工場内の騒音が、一瞬だけ遠のいたように感じられる。


「効率が悪いのだよ」

 宇治木はロボットのアームを指差した。

「安全装置、速度制限、衝撃吸収……それらはすべて、作業を遅らせるノイズだ。私が求めているのは、命令された座標まで、最短・最速・最大出力で到達するアームだ。そこに人間の骨があろうとなかろうと、関係ない」


 甲斐は口を半開きにし、宇治木を凝視した。

 この清潔なスーツを着た男は、今、顔色一つ変えずに「殺戮マシーンを作れ」と言っている。

 甲斐の喉が鳴った。

 ゴクリ。

 彼の瞳に、昏い光が灯る。


「……へぇ」

 甲斐はレンチを持ち直し、ロボットのアームをコンコンと叩いた。

「挽肉機がお望みってわけか。……だが、こいつの華奢なフレームで保つか? 油圧を上げりゃ、シリンダーが破裂するぞ」


「だから君に頼んでいる」

 宇治木は冷ややかに言った。

「君ならできると聞いた。倫理規定などというくだらない紙切れよりも、目の前の鉄を従わせることに快感を覚える職人だと」

 宇治木はポケットから一枚のクレジットカードを取り出し、作業台の上に置いた。

「報酬は弾む。材料費も使い放題だ。……やるか、やらないか」


 甲斐はカードを見もしなかった。

 彼の視線は、再びロボットへと戻っていた。

 純白の、無垢な機械。

 こいつのリミッターを外し、全開で暴れさせたら、どんな音がするだろう。

 それも、人間を相手に…

 骨が砕け、肉が弾ける音。

 想像しただけで、背筋がゾクゾクと震えた。


「……おう」

 甲斐は短く答え、ニタリと笑った。

 彼はレンチを握り直すと、ロボットの肩口にある透明なプラスチックカバー――『接触感知センサー』を指差した。

「邪魔なんだろ? こいつ」


 宇治木は無言で頷く。

 次の瞬間。


 ガシャァァァン!!


 甲斐が振り下ろしたモンキーレンチが、センサーユニットを粉砕した。

 プラスチックの破片が散弾のように飛び散り、床に転がる。

 内部の基盤が剥き出しになり、配線が千切れて垂れ下がった。

 美しい流線型のシルエットに、醜い穴が開く。


「契約成立だ」

 甲斐は壊れた箇所に鼻を近づけ、焼けた回路の匂いを深く吸い込んだ。

「好きにいじらせてもらうぜ。……最高の悲鳴を引き出すために」


 宇治木は満足げに口元を歪めた。

 彼はタブレットを回収すると、もはや用はないとばかりに踵を返した。

「期待しているよ。……工場長」

 宇治木が出口へと歩き出す。

 網代は一瞬だけ立ち止まり、甲斐と、傷ついたロボットを見つめた。

 彼女は軽く会釈をし、すぐに宇治木の後を追って闇の中へと消えていく。


 重い鉄扉が閉まる音。

 高級車のエンジン音が遠ざかっていく。

 工場には再び、プレスの駆動音と換気扇の唸りだけが残された。


          *


 甲斐は一人、ロボットの前に立ち尽くしていた。

 彼はポケットから煙草を取り出し、くわえる。

 ジッポで火をつけると、吐き出す煙でロボットの顔に纏わせた。


「……さて」

 甲斐は上着を脱ぎ捨てた。

 油と汗にまみれたランニングシャツ一枚になる。

 太い腕には、無数の火傷の痕。

「お上品な旦那の注文通り、ブレーキを外してやるか」


 彼は工具箱からドライバーを取り出し、ロボットの背面パネルを強引にこじ開けた。

 ガキッ、バキッ。

 乱暴な音が響く。

 中の精密な回路が露わになる。

 甲斐は工場の隅にある配電盤から、太い工業用電源ケーブルを引きずってきた。

 通常、精密機器には絶対に使わない、高電圧の動力線だ。


 彼はケーブルの被覆をナイフで剥ぎ、銅線を剥き出しにすると、それをロボットのメイン動力回路に直接ねじ込んだ。

 バチッ、バチチッ!

 接続部から青白いスパークが散り、焦げ臭い匂いが立ち上る。

「ヒヒッ……痛えか? 我慢しろよ」

 甲斐は独り言を呟きながら、絶縁テープを巻きつけた。


 次に、彼は自作の制御ボックスを接続した。

 赤いボリュームつまみと、トグルスイッチがついているだけの粗末な装置。

 彼はそのコネクタを、ロボットの頭部裏にあるメンテナンスポートに突き刺した。


 甲斐の手がトグルスイッチにかかる。

 パチン。

 スイッチ・オン。


 ブゥゥゥン……!

 アイギスの内部から、地鳴りのような起動音が響いた。

 過剰な電圧を注ぎ込まれたモーターが唸りを上げ、冷却ファンが悲鳴のような風切り音を立てて回転を始める。

 純白のボディが小刻みに振動している。

 黒いバイザーの奥で、カメラアイが強烈な赤色に点灯した。


 甲斐は休憩スペースの隅から、一脚の椅子を持ってきた。

 背もたれと座面がビニール張りの、安っぽいスチール製のパイプ椅子だ。

 彼はそれをロボットの正面、アームが届く距離に無造作に置いた。

 そして、数歩下がって制御ボックスを構える。


「さあ、テストだ」

 甲斐は呟き、赤いボリュームつまみを回した。

 目盛りは最大値。『MAX』とマジックで書き殴られた位置まで。

 右手の親指が、実行ボタンの上に置かれる。


 カチッ。


「おくるみ・ハグ、開始シマス」


 アイギスのスピーカーから、合成音声が流れた。

 ノイズ混じりの、しかし極めて穏やかで優しい女性の声。

 その声の余韻が消えるか消えないかの刹那。


 シュッ!


 空気を切り裂く音がした。

 アイギスの両腕が、人間には視認できないほどの速度で展開された。

 白く長いアームが、目の前のパイプ椅子を抱き込むように閉じる。


 ガァン!!


 激突音。

 左右のアームがパイプ椅子を挟み込んだ瞬間、工場内に轟音が響いた。

 スチール製の椅子の脚が、ロボットの硬い胸部装甲に押し付けられる。

 アイギスのアームは止まらない。

 プログラムされた「抱擁」の完了座標――椅子の幅よりも遥かに狭い空間まで、対象を圧縮しようと収縮を続ける。


 キィィィィィン……!

 金属と金属が擦れ合う、鼓膜を突き刺すような高音が鳴り響く。

 パイプ椅子の銀色の脚がたわみ、塗装が弾け飛ぶ。

 メキメキッ。

 座面のビニールが裂け、中のスポンジが破裂するように飛び出した。


「おう、おう……!」

 甲斐は目を丸くし、身を乗り出した。

 彼の耳が捉えているのは、騒音ではない。

 物質が構造的限界を迎え、分子の結合が断ち切られる瞬間の「断末魔」だ。


 バキバキッ! グシャァァ!


 決定的な破壊音が轟く。

 背もたれのパイプが直角にへし折れ、座面の鉄板が紙屑のようにクシャクシャに丸められる。

 溶接箇所が引きちぎれ、リベットが弾丸のような速度で弾け飛び、工場のトタン壁にカン!カン!と突き刺さった。


 アイギスのアームは、原形を留めない鉄塊となった椅子を、さらに深く、強く抱きしめる。

 ギチギチギチ……。

 油圧シリンダーが限界まで収縮し、鉄パイプを飴細工のように練り潰していく。


 プシュウゥゥ……。

 排気音と共にアームが開き、握り拳大に圧縮された鉄の塊が、ゴロンと床に転がった。


 甲斐はゆっくりと歩み寄り、その鉄塊を拾い上げた。

 素手で触れる。

 摩擦熱で火傷しそうなほど熱くなっているが、彼は気にする様子もない。

 熱を帯びた歪な鉄の塊を、愛おしそうに両手で包み込み、頬ずりをした。

 ザラザラとした断面が、彼の汚れた頬に赤い擦り傷を作る。


「……へへッ」

 甲斐の喉から、押し殺した笑い声が漏れる。

 彼は鉄塊を掲げ、天井の裸電球にかざした。


「いい音だ。……だが」

 彼は視線を落とし、ロボットのアームを見た。

「ちっと乾いてるな。鉄の悲鳴も悪くねえが……」


 彼は想像した。

 今、飴細工のように捻じ曲げられたパイプ椅子が、もし人間だったら。

 硬いスチールパイプの代わりに、人間の肋骨だったら。


「……肉と汁が混じれば、もっと湿った、いい音がするはずだ」


 甲斐はニヤリと笑い、鉄塊を作業台に放り投げた。

 ゴン、と重い音がする。

 彼は再びドライバーを手に取り、アイギスの制御基板に向き直った。


「待ってろよ。……お前の喉、もっと良くしてやるからな」


 彼は基盤の一部をショートさせ、半田ごてを握った。

 宇治木すら知らない領域の改造。

 特定の高周波音を感知した瞬間に、全リミッターを強制解除し、暴走モードへと移行する隠しコマンド。

 それを埋め込む作業が始まった。

 ジジッ、ジジジッ。

 半田ごての先から紫煙が立ち上り、甲斐の狂気に満ちた顔を揺らめかせている。


 工場の外では、夜明け前の暗い海が唸りを上げていた。

 アイギスの赤いカメラアイだけが、闇の中で瞬きもせず、新しい自分を生み出そうとしている「父親」を見つめ続けていた。

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