第10話 福音と魔窟
翌朝。
都心の空は、昨夜の惨劇など知らぬげに、抜けるような青空だった。
ライフ・アシスト・ロボティクス株式会社のオフィスフロアには、いつもと違う種類の緊張感が漂っていた。
始業前の給湯室や喫煙所では、ひそひそ話がさざ波のように広がっている。
「ねえ、聞いた? 宇治木さんの奥さんの話」
「ああ。昨日の夜、救急車が来たんだって? なんでも、精神錯乱を起こして大暴れしたとか」
「指を大怪我したらしいよ。自分でやったって噂だけど……」
「うわぁ……あの人、エリートで完璧そうに見えるけど、家庭じゃ苦労してたんだな」
社員たちの視線は、同情と好奇心が入り混じっていた。
午前九時。
自動ドアが開き、宇治木政樹が出社した。
フロアが一瞬静まり返る。
宇治木は、いつものように完璧に仕立てられたダークスーツを身に纏い、髪の一筋も乱れていない。
顔色一つ変えず、背筋を伸ばして歩くその姿は、家庭の不幸など微塵も感じさせない「鉄人」のようだった。
彼は社長室の前で足を止め、通りがかった役員たちに対して深々と頭を下げた。
「おはようございます。……この度は、妻の件でお騒がせし、またご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
その声は落ち着いており、誠実さに満ちていた。
「家庭内の不始末は、すべて私の監督不行き届きです。しかし、業務には一切支障をきたしませんので、ご安心ください」
専務の一人が、宇治木の肩に手を置いた。
「いやいや、宇治木さん。謝ることはないですよ。奥様、昔から少し……不安定だったと聞いています。貴方が悪いわけじゃない」
「ありがとうございます。……妻には、しかるべき療養環境を用意しました。これからは仕事に全精力を注ぎます」
宇治木は悲痛な面持ちを一瞬だけ見せ、すぐにキリッとしたビジネスマンの顔に戻った。
その切り替えの鮮やかさに、周囲の社員たちは息を飲んだ。
なんて強い人だ。
なんてプロフェッショナルなんだ。
誰も気づいていない。彼が昨夜、妻の指が折れる音を聞きながら、その様子を「実験データ」として冷静に観察していたことを。
*
正午。
網代真里は、同僚の高木えりと共に、オフィスビル近くのイタリアンカフェにいた。
ガラス張りの店内は、ランチを楽しむOLたちの笑い声で満ちている。
しかし、網代のテーブルだけは重い空気に包まれていた――もちろん、網代が意図的に作った空気だ。
「……ねえ、真里ちゃん」
高木がパスタのフォークを置き、心配そうに尋ねてきた。
「宇治木さんのこと、本当なの? 真里ちゃん、昨日は宇治木さんの家で仕事してたんでしょ? 何か見たの?」
来た。
網代は心の中でニヤリと笑った。
高木えり。正義感が強く、噂好きで、涙もろい。
社内の情報拡散スピーカーとして、これほど優秀な人材はいない。
網代はわざとらしく視線を落とし、アイスティーのストローを指先でいじった。
「……うん。正直、怖かった」
「えっ、何が? 宇治木さんが?」
「ううん、違うの。奥様が」
網代は声を潜めた。
「私、見ちゃったの。奥様が、宇治木さんにワインをかけたり、暴力を振るったりしてるところ」
「嘘っ!? DV妻ってこと?」
「宇治木さんはね、ずっと耐えてたの。無抵抗で。奥様は『あんたなんか私がいないと何もできないくせに!』って罵倒してて……でも宇治木さんは『すまない、僕の力不足だ』って、謝り続けてて……」
もちろん、真っ赤な嘘だ。
宇治木は妻を「コスト」と呼び、ロボットを使って指をへし折らせた。
だが、真実は退屈で残酷すぎる。大衆が求めているのは、分かりやすい「悲劇」と「美談」だ。
「昨日の怪我もね、奥様がロボットを壊そうとして、興奮して自分で……」
網代は言葉を濁し、ハンカチで目元を押さえた。
「宇治木さん、怪我した奥様を抱きかかえて、ずっと震えてた。『どうしてこうなってしまったんだ』って。……私、見てて辛くて」
「ひどい……」
高木の目から涙が溢れた。
「そんなの、あんまりだよ。宇治木さん、あんなに仕事ができるのに、家ではそんな地獄みたいな目に遭ってたなんて」
「そうなの。宇治木さんが厳しいのは、余裕がないからじゃないの。会社を立て直すために、必死だからなのよ」
網代は畳み掛けた。
ここからが本題だ。宇治木政樹を「冷徹なコンサルタント」から「悲劇の英雄」へと昇華させる。
「葉世課長の不正を見抜いたのも、実は会社を守るためだったの。葉世さんが隠蔽してたデータが公になったら、会社が潰れちゃうかもしれないから。……宇治木さんは、悪者になってでも私たちを守ろうとしてくれてるのよ」
「そっか……。私、誤解してた」
高木は鼻をすすりながら、力強く頷いた。
「私たちが支えなきゃだめだよね。宇治木さんは、会社のために最前線で戦ってるんだもん」
「うん。えりちゃんがそう言ってくれて嬉しい。……これ、他の人には言わないでね? 宇治木さん、同情されるのを嫌がる人だから」
言うなと言えば、必ず言う。
それが「ここだけの話」の鉄則だ。
高木は使命感に燃えた目で、「分かった」と頷いたが、その手は既にスマホを握りしめ、誰かにLINEを送ろうとウズウズしていた。
ランチを終えて店を出た瞬間。
網代は高木の背中を見送りながら、冷え切った瞳で空を見上げた。
『クエスト:新鮮な新事実(嘘)の流布。完了』
これで社内の空気は変わる。
宇治木への恐怖は「畏敬」へ、不信感は「同情」へと書き換わる。
人間は、同情できるストーリーを与えられると簡単に思考停止する生き物だ。
「チョロすぎて、あくびが出るわ」
網代は小さく呟き、午後の業務(破壊工作)へと戻っていった。
*
効果は劇的だった。
午後三時。宇治木が廊下を歩いていると、すれ違う社員たちの態度が明らかに変わっていた。
今までは、恐怖と警戒の混じった視線で遠巻きにしていた彼らが、今日は足を止め、敬意を込めて挨拶をしてくる。
「宇治木さん、お疲れ様です!」
「応援してます、頑張ってください!」
若手社員の一人が、勇気を振り絞って声をかけてきた。
宇治木は一瞬、眉をひそめかけたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ああ。君たちも、期待しているよ」
それだけで、社員たちは「認められた!」と顔を輝かせる。
宇治木は社長室へと向かいながら、背後に付き従う網代に小声で話しかけた。
「……随分と空気が変わったな。何をした?」
「いえ。ただ、事実を少し『最適化』して伝えただけです」
網代は平然と答える。
「宇治木さんは今や、悲劇を乗り越えて会社を救う聖人君子です。これで、少しは動きやすくなるのでは?」
「フン。……感情で動く人間は扱いやすくて助かる」
宇治木はハンカチで口元を隠し、冷笑した。
*
午後四時。役員会議室。
重厚な楕円形のテーブルを囲み、社長以下、全役員が顔を揃えていた。
宇治木は、社長の右隣――顧問コンサルタントとしての席に座っている。
かつては「部外者」として警戒されていた彼の発言力は、今や社長を凌ぐほどになっていた。
葉世の不正を暴き、赤字部門を切り捨て、そして「家庭の犠牲」を払ってまで尽くす男。そのカリスマ性に、役員たちは魅了されていた。
「――以上が、新型ロボット『アイギス』の量産計画案です」
宇治木がスクリーンに投影された資料を指し示す。
そこには、大幅なコストダウンと、驚異的な利益率が提示されていた。
その代償として削ぎ落とされたのは、多重構造の安全センサー、衝撃吸収材、そして速度リミッターという「命綱」たちだ。
「宇治木くん」
技術担当の専務が、少し懸念を示した。
「確かにコストは下がるが……このスペック変更は大胆すぎる。特にトルク制限の解除は、万が一の事故の際に危険ではないか?」
通常の会議なら、ここで紛糾するはずだった。
しかし、宇治木は眉一つ動かさずに答えた。
「専務。我々が売っているのは『絶対の安全』ではありません。『介護負担の軽減』という体験です」
彼の声は、静かな自信に満ちていた。
「過剰な安全装置は、動作の遅延と重量増を招き、現場の介護士たちにストレスを与えています。『もっとキビキビ動くロボットが欲しい』。それが現場の声です。リスクを恐れて進化を止めるのは、企業の死です」
そして、決定的な一言を付け加えた。
「私は、人生のすべてを懸けてこの改革に取り組んでいます。……何かあれば、すべての責任は私が取ります」
その言葉に、役員たちは沈黙した。
「家庭を犠牲にした男」の覚悟。その重みに、誰も反論できなくなったのだ。
「……分かった」
社長が重々しく頷いた。
「宇治木さんがそこまで言うなら、信じよう。アイギスの量産計画、承認する」
拍手が起きた。
それは、殺人マシンの製造許可が下りた瞬間だった。
宇治木は深々と頭を下げながら、テーブルの下で、汚れ一つない革靴のつま先を小さく鳴らした。
*
会議終了後。
社長室を出た宇治木を、網代が出迎えた。
「お疲れ様でした。承認、降りましたね」
「ああ。茶番だ」
宇治木はネクタイを少し緩めた。
「だが、問題はここからだ。仕様書は通ったが、実際の製造ラインをどうするかだ」
「正規の提携工場では難しいですか?」
「ああ。彼らはコンプライアンスにうるさい。『こんな危険な設計図では作れない』と拒否されるか、勝手に安全装置を追加される恐れがある」
宇治木は廊下の窓から、眼下に広がる東京の街を見下ろした。
清潔で、整然とした街並み。だが、その裏側には必ず汚水が流れる下水道がある。
「必要なのは……こちらの要望を黙って飲み込み、倫理観よりも好奇心と金を優先する、汚れ仕事専門の工場だ」
網代は、待っていましたとばかりに手帳を開いた。
「心当たりがあります」
「ほう?」
「以前、葉世課長が『あそこだけは絶対に関わりたくない』と忌避していた下請け工場があります。技術力は高いのですが、経営者の人格に……少々難があるとかで、取引停止寸前になっていた場所が」
網代は不敵な笑みを浮かべた。
「場所は湾岸エリアの工業地帯。工場長の名前は、甲斐芳正」
宇治木は興味深そうに眉を上げた。
「葉世が嫌った場所か。……なら、私にとっては宝の山かもしれん」
「すぐに行きましょう。彼ならきっと、あなたの『理想』を形にしてくれますよ」
*
午後六時。
宇治木と網代を乗せた社用車は、都心のアスファルトを離れ、海沿いの埋立地へと入っていった。
風景が一変する。
きらびやかな高層ビル群は遠ざかり、代わりに錆びついた倉庫街と、黒い煙を吐き出す煙突群が姿を現した。
道路は大型トラックのタイヤ痕で黒く汚れ、空気には潮風と排気ガス、そして何かが焦げるような刺激臭が混じっている。
「……空気が汚いな」
宇治木は車内でハンカチを口に当てた。
彼の奇人感知センサーが警報を鳴らしている。だが、その目は期待に輝いていた。
綺麗な改革には、汚い手足が必要だ。ここは、その手足を見つける場所だ。
車は、古びたトタン屋根の工場の前で停まった。
『甲斐鉄工所』。
看板の文字は塗装が剥げ落ち、半分読めなくなっている。
工場のシャッターは半開きで、奥からは金属を叩く轟音と、グラインダーが散らす火花が見えた。
ズガン! ズガン! ギャイイイイン!
耳をつんざくような騒音。
宇治木と網代は車を降りた。
網代がトランクから折りたたみ式の台車を取り出し、広げる。
彼女は白い布で覆われた巨大な荷物を、慣れた手つきで引きずり出し、台車に乗せた。
工場の中へと足を踏み入れた。
床は油で黒光りし、歩くたびにネチャリと靴底が張り付く。
天井からは裸電球がぶら下がり、薄暗い空間を頼りなく照らしていた。
「……すいません」
網代が声をかけるが、騒音にかき消される。
その時。
工場の奥、巨大な油圧プレス機の前で作業をしていた人影が、ふと手を止めた。
男がゆっくりと振り返る。
油と煤にまみれた作業着。
白髪混じりの髪はボサボサで、まるで鳥の巣のようだ。
顔は油汚れで黒ずんでいるが、その奥にある瞳だけが、異様な輝きを放っている。
工場長、甲斐芳正。五十七歳。
彼は来客である宇治木たちを見ても、驚く様子も、挨拶する素振りも見せなかった。
ただ、手にしたモンキーレンチを愛おしそうに撫でながら、ニタリと笑った。
その笑みは、黄ばんだ歯を剥き出しにした、人間というよりは獣に近いものだった。
宇治木と目が合う。
清潔なスーツに身を包んだ支配者と、油にまみれた謎の男。
世界の対極にいるはずの二人が、薄暗い工場の中で対峙する。
言葉はなかった。
だが、甲斐の瞳には、宇治木が求めている「狂気」が満ち溢れていた。
宇治木はハンカチをポケットにしまい、汚れた床を厭うことなく、一歩前へと踏み出した。
地獄の門が、今、静かに開かれようとしていた。




