第1話 最初の一枚
午前十時。
都心の高層ビル、その北側のエリアに位置する「ライフ・アシスト・ロボティクス株式会社」、カスタマーサクセス部・品質管理課。
遮光ブラインドが下ろされたオフィスは、水底のように薄暗い。整然と並ぶ白いデスク、白い壁、白い天井。その無機質な空間に、空調の低い唸り音と、数十人の社員が叩くキーボードの乾いた音が、さざ波のように重なっている。
「お前は歩く『不具合』かッ! これ以上俺の仕事を増やすな!」
突如、ガラスを引き裂くような怒声が響いた。
フロアの空気が一瞬で凍りつき、キーボードを叩く無数の指が止まる。
声の主は、課長の葉世友和だった。
くたびれた安物のスーツ。猫背で、顔は浅黒い。眉間には深いシワが刻まれ、その表情は苛立ちに歪んでいる。
彼はデスクをバンと乱暴に叩き、目の前に立つ小柄な女性社員を威圧するように見下ろしていた。
部下の網代真里。
オフィスカジュアルの清楚な服装に身を包んだ彼女は、両手を前で組み、小さく肩を震わせている。その姿は、捕食者を前にした小動物そのものだった。
「も、申し訳ありません……」
網代が消え入りそうな声で頭を下げる。
「申し訳ない? 謝って済まないから怒ってんだよ! このデータを見ろ!」
葉世は、自身のPCモニターを指差した。
画面に表示されているのは、現在開発の最終段階にある新型介護ロボット『アイギス(LA-N09)』の動作ログだ。
純白の流線型ボディを持つそのロボットは、「おくるみ・ハグ」と呼ばれる移乗介助機能を最大の売りとしている。しかし、画面上のグラフは、赤い警告色で染まっていた。
「No.104検体のトルク数値だ。抱擁動作の瞬間、油圧が既定値を一二〇パーセントも超過している。こんな異常値を残したまま、なぜ『検証完了』のフォルダに入れた?」
葉世の指が画面を叩く。
「これが現場で起きたらどうなると思う? 要介護者の肋骨がへし折れるぞ。お前は会社を潰す気か?」
周囲の社員たちが、気まずそうに視線を逸らす。また始まった、という諦めの空気がフロアに澱んでいる。
網代は怯えたように一歩後ずさり、上目遣いに葉世を見た。
「あ、あの……課長。そのエラーについては、昨日のミーティングでご報告しました」
「あ?」
「『センサーの一時的なノイズであり、実動作には影響しない。再テストの時間はないから、そのまま通せ』と……課長が、そうおっしゃいました」
葉世の動きが止まった。
彼は口を半開きにし、数秒間、瞬きを繰り返す。その顔から血の気が引いていくのが、遠目にも見て取れた。
「……俺が? 言っただと?」
「はい。昨日の十四時頃です。私は再テストを提案したんですが、課長が……」
「嘘をつくなッ!」
葉世が大声を張り上げた。唾が飛び、網代がびくりと身を竦める。
「俺がそんな出鱈目な指示を出すわけがないだろう! 自分のミスを俺になすりつける気か!」
「ち、違います……! 嘘じゃありません、メモもとってあります!」
網代は慌てた手つきでポケットから手帳を取り出し、震える指でページをめくった。
そして、葉世の目の前に差し出す。
そこには、細かく丁寧な文字で議事録が記されており、その余白に一枚の付箋が貼られていた。
『10/15 14:00 トルク異常はノイズとして処理。承認済み(葉世)』
その付箋の筆跡は、乱雑な走り書きだが、特徴的な右上がりの文字だ。
葉世は手帳をひったくるように奪い取り、顔を近づけて凝視した。
彼の呼吸が荒くなる。
額に脂汗が滲み、手帳を持つ手が小刻みに震えている。
その目は泳ぎ、手帳と網代の顔を何度も往復した。
「……な、なんだこれは。俺の字じゃない……」
葉世はうわ言のように呟く。
「課長の字です……。目の前で書いてくださったじゃないですか……」
網代が涙声で訴える。
「ふざけるな! 捏造だ! お前、いつからこんな小細工を覚えた!」
葉世は手帳を網代の胸元に突き返した。手帳が床に落ちる。
乾いた音が響き、フロアの静寂がいっそう深まる。
遠くの席で、派遣社員の磯野拓海が立ち上がりかけたが、隣の席の社員に袖を引かれて制止された。
「……もういい。俺がやる」
葉世は吐き捨てるように言い、ドカと椅子に座り込んだ。
「お前のデータは信用できない。全部やり直しだ。そこにある手帳も拾ってとっとと失せろ」
「は、はい……すみません、すみません……」
網代は床に膝をつき、手帳を拾い上げる。その目元には涙が光っていた。
彼女は何度も頭を下げながら、逃げるように自席へと戻っていく。
残された葉世は、眉間にシワを寄せたまま、内ポケットから白い粉薬の包みを取り出した。
水も用意せず、粉薬を直接口の中に放り込む。
ガリガリと噛み砕く音が聞こえてきそうなほど、顎に力が入っている。
彼は胃のあたりを強く手で押さえながら、血走った目でモニターを睨み続けていた。
*
網代は同期の友人である営業部の高木とランチをしていた。
「はぁ……」
食後のコーヒーが運ばれてくると、網代は重いため息をつき、テーブルの上のデザートメニューを指先でなぞった。
視線の先には、『季節限定・濃厚ティラミス』の写真。彼女は未練がましそうに一度だけ写真を見つめると、寂しげにメニューを閉じた。
「どうしたの? 頼まないの?」
向かいの席の友人が尋ねる。
網代は眉尻を下げ、力なく首を横に振った。
「ううん……すごく美味しそうだなって思ったんだけど。さっき葉世課長に怒鳴られた声が頭から離れなくて……なんだか、私が贅沢するのが悪いことみたいに思えてきちゃって」
彼女は小さく震える両手で、水の入ったグラスを包み込むように握りしめた。その姿は、理不尽な暴力に怯え、自信を喪失した小動物そのものだった。
友人は眉をひそめ、強い調子で言った。
「何言ってるの! 悪いのはあの課長だよ。真里ちゃんは被害者なんだから」
友人はメニューを奪い取り、店員に向かって手を挙げた。
「甘いもの食べて忘れちゃお! ここ、私がご馳走するから。すみませーん、ティラミス追加で!」
「えっ、だめだよえりちゃん! ランチも出してもらったのに……」
「いいの。真里ちゃんの元気な顔が見たいだけだし」
「……ごめんね。ありがとう……えりちゃんだけだよ、味方してくれるのは」
網代は潤んだ瞳で友人を拝むように見つめた。
数分後。
運ばれてきたティラミスを一口食べると、網代は「おいしい……」と涙声で呟いた。
友人が「よかった!」と安堵してそのままランチを終えた。
*
午後一時三十分。
昼休憩を終えたオフィスに、重苦しい空気が漂っている。
葉世は、時折貧乏ゆすりをしながら、書類の山と格闘していた。
ペンを取ろうと右手を伸ばす。しかし、そこにペンはない。
彼は舌打ちをし、デスクの左側を探る。ペン立ては左端に移動していた。
葉世は首を傾げ、周囲をキョロキョロと見回す。誰かが触ったのかと疑うような、猜疑心に満ちた目つきだ。
その様子を、周囲の社員たちは横目で伺いながら、チャットツールで会話を交わしている。
葉世の奇行は今に始まったことではない。
物の位置が変わっていると騒ぐ。言った覚えのない指示を出している。
典型的な、ストレスによる認知機能の低下。あるいは、もっと悪い病気か。
どちらにせよ、そのストレスの吐け口にされている網代真里への同情だけが、このフロアの共通認識となっていた。
午後二時。
葉世がコピー機へ向かうため、席を立った。
苛立たしげな足取りで、通路を大股で歩く。
前方から、網代が書類の束を抱えて歩いてくる。彼女は葉世の姿に気づくと、怯えたように通路の端へ寄った。
二人がすれ違う、その瞬間。
ドサッ。
鈍い音と共に、書類が床にぶちまけられた。
同時に、網代の体が弾かれたように床へ倒れ込む。
「きゃあっ……!」
短い悲鳴。
網代は床に這いつくばり、右肩を押さえてうずくまった。
葉世が立ち止まる。
彼は驚いたように目を見開き、自分の右肩と、倒れた網代を見下ろした。
触れたようには見えなかった。あるいは、すれ違いざまに肩をぶつけたのか。
死角になっていたため、正確なところは誰にもわからない。
だが、状況は雄弁だった。
「あ、網代さん!」
磯野拓海が真っ先に駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 怪我は!?」
「うぅ……い、痛い……」
網代は顔を歪め、小刻みに震えている。
「ご、ごめんなさい……私が邪魔だから……課長の進行方向を塞いじゃって……」
その言葉に、フロア中の視線が葉世に集中した。
またか。突き飛ばしたのか。
葉世の顔が紅潮する。
「な……なんだその言い方は!」
葉世は大声を張り上げた。
「俺はぶつかってないぞ! お前が勝手に転んだだけだろう!」
「すみません、すみません……! 私がトロいから……!」
網代は拓海の手を借りようともせず、その場で居住まいを正した。
そして、床に額を打ち付けるように深く頭を下げた。
土下座だ。
「申し訳ありませんでしたぁぁ!!」
絶叫に近い謝罪の声が、オフィスを震わせた。
あまりの異様さに、遠くの席の部長までもが顔を上げる。
「私の能力が低いせいでぇ! 課長をいつもイライラさせてしまってぇ! 突き飛ばされても当然なんですぅ! お願いです、許してくださいぃぃ!!」
網代は泣き叫びながら、何度も床に額を擦り付ける。
白い額が赤く腫れ上がっていく。
その姿は、長期間にわたる精神的支配と虐待を受けた被害者の反応そのものだった。
葉世は後ずさった。その顔には、怒りよりも焦りと困惑が色濃く浮かんでいる。
「や、やめろ……! 大声を出すな!」
葉世は周囲を見回した。
数十人の社員たちの視線。
軽蔑。嫌悪。敵意。
それらが無数の針となって彼に突き刺さっている。
「俺は何もしていない! 演技だ、こいつは嘘をついているんだ!」
「課長!」
拓海が葉世を睨みつけ、立ちはだかった。
「いい加減にしてください! 網代さんがここまで怯えてるじゃないですか! これ以上やったら、僕だって考えがありますよ!」
若手の正義感に満ちた怒号。
葉世は口をパクパクと開閉させ、言葉を探すように宙を仰いだ。
だが、何も出てこない。
彼は顔を真っ赤にし、わなわなと拳を震わせると、
「……くそっ!」
と吐き捨て、逃げるように踵を返した。
自分のデスクに戻り、鞄をひっつかむと、誰にも何も告げずにエレベーターホールへと早足で消えていく。
残されたのは、散乱した書類と、床に泣き崩れる網代、そして彼女を囲んで同情の声をかける社員たちだけだった。
網代はハンカチで顔を覆い、しゃくり上げながら、小さく「ありがとうございます……」と繰り返していた。
*
夜二十時三十分。
騒動の後、「今日はもう無理しなくていい」と上層部から帰宅を促されたにもかかわらず、網代真里は会社に残っていた。
残業をしている社員はほとんどいない。
広大なフロアの照明は半分以上落とされ、闇が浸食し始めている。
彼女はデスクに向かい、黙々と残務処理――ではなく、スマホをいじっていた。
さっきまでの過呼吸のような嗚咽は、嘘のようにピタリと止んでいる。
網代はスッと立ち上がると、化粧ポーチから手鏡を取り出した。
鏡に映る自分の顔を、無表情に見つめる。
「……あーあ。マスカラ、ちょっと滲んじゃった」
独り言の声は、温度を感じさせない、無機質な響きだった。
ハンカチを取り出し、目元の汚れを丁寧に拭き取る。
その瞳は、ガラス玉のように光を反射するだけで、感情の揺らぎなど微塵も映していない。恐怖も、悲しみも、罪悪感も。そこには「無」があるだけだ。
彼女はスマホのカレンダーアプリを開いた。
今日の日付の欄に、淡々と文字を入力する。
『18:30 土下座ノルマ達成。ターゲットの精神摩耗具合、順調』
入力し終えると、ふと葉世のデスクに目をやった。
彼が飲みかけで放置していったペットボトルと、机の上に散らばった白い粉薬の袋。
網代は近づき、その薬の袋を人差し指でツンと弾いた。
袋はひらひらと舞い、ゴミ箱の中へと吸い込まれていく。
「甘すぎてつまんない。あのケーキもそう」
彼女はふと、窓ガラスに映る自分と目が合った。
真顔。能面のような、感情の一切抜け落ちた顔。
彼女は口角に指を添え、グイと持ち上げた。
完璧な笑顔。
そしてまた指を離すと、スンッと無表情に戻る。
まるでゴムマスクのテストをしているかのようだ。
網代は、葉世の机に残された「アイギス」の不具合データ資料を手に取った。
午前中、葉世が「殺人マシンになる」と危惧していた、トルク異常のログ。
彼女はその紙を丁寧に折りたたみ、シュレッダーへと差し込んだ。
ジーッという音と共に、警告データが細断されていく。
紙が完全に吸い込まれるのを見届けると、彼女は小さくあくびをした。
彼女は鞄を肩にかけると、滑るような足取りで出口へと向かう。
その際、すれ違いざまに、通路脇に置かれた観葉植物の葉を、プチリと指先でちぎり取った。
ちぎられた葉が床に落ちる。
彼女は一度も振り返ることなく、暗闇に沈んだオフィスを後にした。




