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灰狼の王  作者: 葛ノ葉イナリ 


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「アク・イェル(白き世界)」

この闘技場で何度も闘いを経験してきた。

いつも相手は初見の相手で、相手についての情報も全くない状態での闘いだった。

しかし、えてして実戦とはそういうものだろう。

隊商の護衛でも同じだった。どんな盗賊がいつ何時に襲ってくるなんて、そんな情報などあるほうが稀だ。つまり実際に対峙するまで相手のことなど一切知らない、それが普通なのだから。


今回の闘いはまずそこが違う。

相手のことはよく知っている。模擬戦とはいえ、何度も剣を交えている。

そして問題は、向こうもまた自分のことをよく知っていることだ。


彼は機動力に問題があるため、自分から積極的に仕掛けてきたりしない。つまり闘いの先手は自分が打つことになる。そして彼の剣は自分の手配を消して、相手の死角に入って相手を撃つ。『陰の剣』だ。

つまり、彼と戦う場合、不用意に仕掛けることは自ら死地に飛び込むということになる。次の一手以降を考えて攻撃を繰り出さなければ、まず間違いなく仕留められる。


――どうすればいい、、、

冷たい汗が額から頬を伝うのを感じた。

勝ち目が全く見えない。せめてもう少し時間があったなら。


「どうした?余計なことを考えて、それでどうにかなるとでも思ってるのか。」


彼の声が聞こえた。俺はその瞬間はっとして反射的に後ろに退き、間合いを取った。

そして大きく息を吐いた。


――確かに。


立ち止まってあれこれ考えたところで道は開けない。前に進んだその先に打開する道はあるはずだ。


何を恐れることがある。彼とは毎日やりあっているではないか。いつもと同じだ。違うところはしくじれば命を落とすというところだけ。明日がないっていう点ではたいして違いがない。――確かにそうだ。そんなことより楽しもう、最後の稽古ってやつを。


吹っ切れたというのか、開き直ったというのか、俺はいつもの稽古のように、師匠に撃ちこんでいった。彼の表情は少し笑っているように見えた。多分俺も笑っていたのだろう。



闘技場は大きな歓声に包まれ始めた。おそらくは長いにらみ合いから撃ち合いが始まったからだろう。ただしその歓声は、どこかものすごく遠くから聞こえる風の音のように感じた。

俺が剣を撃ち込み、彼はそれを受け流し、即座に剣戟を返してくる、俺はその攻撃を躱して、また次の攻撃を撃ちこむ。――おそらく周りからはそのように見えていたのだろう。実際自分がどのような動きをしていたのか、あまり覚えてはいない。覚えているのは、ずいぶん長い時間、俺たちは言葉を交わしたという感覚だけだった。


 ――お前はたぶん覚えているはずだ。

 ――何を?

 ――『精神の隙』に入る感覚だよ。


 ――『精神の隙』って何の話だ?初耳なんだけど。

 ――死角の話をしただろう。死角というのは物理的に見えない所だけじゃない。

 ――そこに入るのが師匠の剣の極意だろ?

 ――そうなんだが、物理的な隙に入るだけじゃ不完全なんだよ。


 ――それはどういう意味だ?

 ――物理的な隙に入っても、精神に隙がなければ攻撃は躱される。

 ――なぜ?

 ――人は必ずしも眼だけで物を見ているわけじゃない。他の感覚もある。

 ――『心眼』みたいなことか?

 ――そう。達人になるほど目に頼らない。つまり物理的な隙だけじゃ足りない。

 ――そんなの、どうしようもないじゃねぇか。

 ――だが、その感覚にも必ず隙がある。それが『精神の隙』だ。


 ――どうやってその『精神の隙』とやらに入ればいいんだよ。

 ――だから、お前はその感覚を覚えているだろ、って話をしている。

 ――そんな、初めて聞いたのに覚えているも何もないだろ。

 ――思い出せ。お前には経験があるはずだ。その時はどんな感覚だったか。


 ――そんなもの、、、

 ――体が勝手に動いて自分より強い相手を倒したってことがなかったか?

 ――ああ、そういえば一度、、、

 ――どんな感覚だった?

 ――あの時は風に導かれたというか、、、

   導かれるままに剣を出したというか、、、

 ――お前は何か神がかり的なものと思っているかもしれないが、違うんだよ。


 ――でもそんな風に『隙』のようなものを意識したわけじゃない。

 ――これからは意識するんだな。『精神の隙』ができる瞬間がいくつかある。

 ――よくわからないよ。具体的にはどういうことなんだよ。

 ――例えば、相手が勝ちを確信した瞬間、危険が去ったと安心した瞬間。

   他にもある。


 ――そのときはそういう時だったと?

 ――たぶん相手が自分の勝ちを確信していた、そこに入り込めたってことだ。

 ――そういう状況を意識して作れっていうこと?

 ――もちろん、他にもある。想像もしなかったことに直面した時とかな。

 ――作るのはいいとして、どうやって入ればいいんだよ。

 ――入るというか、誘導するという感じかな。相手の動きを制御するのさ。


 ――つまり物理的な隙と精神的な隙を使って相手をそう動かすってことか?

 ――そういうこと。相手がそう動かざるを得ない状況をつくる。

 ――そこに剣を撃ちこむっていうことか。難しくないか?

 ――簡単なわけねぇだろ。しかし、よく考えてみろ。

 ――?


 ――考えて動くのと、考えないのではひとつひとつの動きの意味が全然違う。

 ――つまり、はじめからそこに持っていくように動くっていうことか。

 ――そう。すべての動きが意味をもつようになる。勝ちが必然になる。

 ――1手先、2手先を読んで動くっていうことかな。


 ――逆だ。すべての動きには原因と帰結がある。そこに帰結する原因を作る。

 ――どこが違うのか、わかったような、わからないような、、、

 ――まあ、そこは過程の話だ。要するに最後は相手の作る隙に剣を置く。

 ――そこへ至る道をこっちで作るっていうことだな。

 ――意図してそう動いていれば、そのうちわかるようになる。



長い長い剣戟が続いていた、――そのように周りからは見えていたのだろう。

だが俺たちからすれば、ただただ長い対話を続けていた。

対話が進むにつれ、俺の動きも変わった。

なるほど、そこが強者と弱者の違いだ。隙は生まれるのを待つのではなかった。

隙はこちらが導くものだ。強く剣を振る、速く剣を振る、それらは手段であって、本質ではなかった。本質へ導くための手持ちの札の一つでしかない。


やがてすべての音が消えた。音だけではない、目に見えるものも、肌に感じるものも、匂いも、知覚するすべてのものが消えた。静かで、真っ白で、何もない世界。


ついさっきここに至ったような、あるいはずいぶん前からずっとここにいたような、不思議な感覚だった。


その刹那、一陣の風が通り過ぎた。


俺の体は右の肩口から左の脇腹に向けて、真っ二つに切断された。

――見るものすべてからはそのように見えたかもしれない。


しかし、俺の体は彼の湾刀の斬撃を躱して彼の傍らにあり、そして俺の剣は師である彼の胴を貫いていた。



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